怠惰な散歩  2021年9

   9月28日(火)

清織姫は潮来にやってきて小論文の再調査。結果は「調査は根本的に間違っていた。来てよかった」とのこと。はるばる長野から来るのだから何か収穫がなかったらかわいそうというものだ。

アサヒカメラで写真論文を募集していた。それに応募したことがあったが審査員の評は「寄せられたものは全体に論文らしきのが乏しい。よく考えてみればアサヒカメラは写真愛好家や写真家を育てる写真雑誌。当然と言えば当然のことかも知れない」

若い頃は批評家を好きなことを勝手に言っているから嫌いだと広言していた。年を取ってから批評家の仕事は生半可な勉強ではできないことを知った。巷にはにわか批評家、評論家がわんさかいる。おいらもその一人に入るが、罪のないやぶにらみ精神は精神衛生上あったほうがいい。
 
   9月27日(月)

朝日新聞の1面に「緊急事態宣言 全面解除へ調整」30日期限 重点措置経ずにーの見出し。小躍りする。家中の閉めっぱなしだった窓という窓を全開したような気持ちになる。感染者数は連日下がりっぱなしだったから大いに期待をしていた。それが現実のものとなるかと思うと心の暗い霧が晴れる。

いばぶん事務所へ行き雑用を済ませる。おいらの人生は雑用、雑用の連続で終わりそう。「大生ものがたり」の写真整理をやる。100枚の写真を使用することを目標に関連するものを拾い出そうというもの。年内には目途をつけたい。隣国、中国を少しでも知ろうと「中国の市民社会」李妍焱(り・やんやん)岩波新書を読みだす。

夕方近く清織姫から緊急メールが入る。民俗学会提出の小論文に追加項目があり緊急の再調査をするので明日潮来に来るという。まあ、大変なことだ。元気というか熱心というか真面目というかたまげたもんだ。
 
   9月26日(日)

ほうれん草の種を植える。この種は緑色をしている。そのせいもありばらまいた場所がくっきりと分かって植えやすい。ホウレンソウというのは「報告」「連絡」「相談」という標語にも使われ会社などでよく見かける。

会社の標語というのはどれももっともらしい言葉がならべられている。これを遵守するには道徳的に優れた人間でないと不可能だ。おいらのようにどんぶり勘定で生きている人間には無理というもの。

「詩人会議」へ1編の詩をようやくエィヤーという発破をかけて投稿する。ポストにぽとりと封筒が落ちた瞬間がなんとも気持ちいい。後はどうにでもなれというあきらめ境地に入るとほっとする。投稿を始めて3年目の後半になる。3年をメドに続けてきた。さて、来年はどうなるやら神のみぞ知るのみだ。
 
   9月25日(土)

朱里の秋

朱里は
ママとだあちゃんと
志賀高原の琵琶池で
お化粧をはじめた
秋をしっかり抱きしめる

さざ波たつ水面に揺られても
お化粧ずれしない
しっかり屋さんの秋

朱里も
琵琶池のお化粧に負けない
こぼれそうな笑顔をふりまき
胸いっぱいの歓びを弾かせる
 
   9月24日(金)

久しぶりにいばぶん事務所に。真向いのギャラリーでは洋品販売をやっている。おしゃれな若い女性がポチポチやってくる。うん、若くてピチピチした女はいい!!。いつかはおばあちゃんになるのだ覚悟しておけよ!!

「生きることの意味は生きることです。」「人生の意味は、自分のライフライン(命綱)を見つける能力にかかっています。」「人の精神性があるレベルに達して、自己を完全なる人間として認識したとき、神聖性(神聖なるもの)を体験するのです。」

「人類は著しく進歩した一方で、退歩した面もあると思います。特に自然科学やテクノロジーの発展から倫理を切り離したことは、最も退歩した点だと思います。」「人間の思考の基本的な弱さは、物事を把握する力が、思考に関する誤った概念に脅かされている点です。」
ということで「つながり過ぎた世界の先に」マルクス・ガブリエル著を読了。
 
   9月23日(木)

今日は秋分の日。秋分の日の由来はもともと秋季皇霊祭というものだったようです。秋季皇霊祭は、1848年に祭日として制定されたもので、毎年秋分日に行われていた歴代の天皇や皇后、皇族の霊を祭る宮中祭祀の一つです。そして終戦後の1948年、秋季皇霊祭が廃止となり、変わって秋分の日が国民の祝日として定められたと言われています――。ここまではグーグル先生からのコピー。

そういえば、わが家には枕にするにはちょうどいい高さの広辞苑があるがほとんど利用しなくなった。スマホやパソコンのグーグル先生のお世話になるようなって広辞苑は本棚に鎮座したままだ。

他にも類義語辞典やカタカナ語辞典など数冊あるが親戚づきあいをやめて久しい。人は便利さに慣れるとどんどん横着になる動物のようだ。生きているのがいやなったらやはりグーグル先生に教わり実行すればいいだろうが、これは横着さではなく実行力が要求されるだろう。そんな度胸はない。これが普通だろう。
 
   9月22日(水)

朝、シュリと世界の平和を願い散歩。空はどんどん東の方から明るくなる。反抗期の子供のように暴れて西からではない。ああ、なんて素直なのだろう。

わが家の夕飯は新米で炊いた栗ごはん。原料の出所を尋ねれば新米は坂下のSさんから、栗は坂上のHさんから。ああ、これがもらい物文化なり。そうやって隣近所が助け合って生きていた時代が懐かしくなる。

「つながり過ぎた世界の先に」を読む。とにかく面白くためになる。何か世界の状況が分かるような気がする。「お年寄りは、自分が興味を持っていることを忘れてはいけません。関心のあることをどんどんやってみたら良いのではないでしょうか—」。そうだ、年寄り頑張れ!!
 
   9月21日(火)

「自然はウィルスを通して我々にメッセージを送っている。(略)立ち止まらなければならないと。私は、ウィルスは地球の免疫反応だと考えています。人間が複雑な生態系をどんどん破壊するので、生態系が反撃しているのです」「つながり過ぎた世界の先に」マルクス・ガブリエル(PHP新書)

庭の草取りをやる。この時間が一番落ち着く。自然と触れ合うことは自らのイノチを知ることだ。夏の勢いは失われたとはいえ雑草はニョキニョキと顔を出す。その生命力に感服。あなたには負けたといいながらむしり取る。

今晩も連ちゃんで仕事。二日続けて週4日というのはなかなか体にきつい。それだけ収入も増え家計が助かるというものだが早く3人制となって欲しいと願う。
 
   9月20日(月)

80歳になっても現役でバリバリ仕事をやっているボブ・フルフォード医師の健康法はー 息をゆっくりと深く吸いこみはじめた。それは信じられないほど長くつづいた。胸が異様に大きくふくらんできた。それから気持ちよさそうに、ゆっくり息を吐いた。吐き切ると、「出入りする空気の量が多ければ多いほど、中枢神経系にあたえる栄養も多くなる」といった。「正しい呼吸が鍵だな」「癒す心、治る力」より。

そこで試してみる。何度かやってみるがすぐに飽きてしまう。どんな健康法でも継続してやらなければ効果は表れないはずだ。三日坊主のおいらには無理でましてや中枢神経系などボロボロ。あきらめる。

今日は予定していた細々なことをやり遂げた。充実した一日だったと大いに満足。どんなことをやったかという内容はここに記するようなものは何一つない。それでいいのだ。
 
   9月16日(木)

本日はお日柄もいいのでということでドライブ。久しぶりに清滝観音を参詣する。何を思い手を合せたかといえば「それなりの幸福度を測れば100点満点とはいかずともそれに近い数字ではないか。何より元気でこうやって生きている。ああ、仏様よありがとう」。

帰り、小町の里でサービスランチの日本蕎麦を食べる。最初は奮発して天盛り蕎麦しようと思っていたがメニューのサービスランチに目を奪われる。ほかのお客さんはみんな天盛り蕎麦。とても豪華でおいしそう。ああ、ケチらなければ良かった。すでに遅しなり。

夕方、庭の手入れで蚊に7カ所刺される。秋来たれどまだまだ蚊は健在なりだ。それとも健康度100満点に近いと自負しているおいらからご利益でも授かるかとしたのだろうかー。ここで、ムヒの参上。こうして今日は終わるのでした。さようならです。
 
   9月15日(水)

シュリと朝の散歩をしていたら田んぼのあぜ道に彼岸花が咲いているのを見つけた。
すっかり秋だなとしばらく見ていたがシュリはまったく関心を示さない。そういえば我が家にも昨年植えたはずだが姿を見せない。きっと相性が悪いのだろう。こういうことは良くあることだ。

そういえば浅川マキの歌に「おいらは港の彼岸花」というフレーズがあった、久しぶりに彼女のCDを取り出し聴いてみる。ところがそういうフレーズは見当たらない。「めくら花」というのがあった。記憶違いのようだ。こういうことは良くあることだ。

夕方、滝の園から連絡がある。3人体制で組んでいる当直員のひとりがドクターストップでリタイアするという。当面2人でやることになる。せっかくペースをつかんだというのに残念。こういうことはない方がいり。
 
   9月14日(火)

スマホの歩数計によれば目標値は7000歩。本日は7531歩で86カロリー、3.3㎞。目標達成となる。ちなみに滝の園で巡回を1回やると1㎞。
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「癒す心、治る力」ー自発的治癒とはなにかー アンドルー・ワイル著。上野圭一訳。角川書店 1995年9月30日初版12月20日4版発行。米国の医学博士 家族六人、馬一頭、犬五匹、猫一匹とともにアリゾナ州トゥーソン市に在住。今から26年前に発刊され、土浦古書倶楽部で500円で買い求めた本を読み始める。おいらが47歳の時に日本で販売された。そのころ何をしていたのだろうかー。ただ、新聞社で夢中で働いていたような気がする。

自己治癒力は誰にでもある。それを引きだして病気を治すという医療。コロナ禍のこの時代を予言しているかのような部分もある。400p超ある。年内に読み切れるだろうかー。
 
   9月11日(土)

土手の草刈りと秋ジャガを植える。山新の園芸売り場の若いあんちゃんからいろいろアドバイスをしてもらう。おじさんは何もしらないんだねという顔をしてとうとうと教えてくれる。こういう場合は素直に耳を傾けるべし。園芸売り場担当ということは農業高校を卒業したのだろうかー。よくいろんなことを知っている。あんちゃんはエライ!.

眠そうな青空は
白い雲がうたた寝している
みんなで居眠りをすれば
怖いものなんかないよ

そういうことで本日も散歩したり少しばかりの所用でつくば市の花畑に出かけたり。進まない読書に飽きることなくページをめくったりして過ごす。あとは怠惰な居眠りに徹するのでした。
 
   9月9日(木)

どしゃ降りの雨の中、クルマを潮来に向けて走らす。途中、こうの饅頭店に立ち寄り写真を返す。これはつくば文化郷で開いた写真展で使用したものやデータ化しようと預かったもの。データ化の作業は中断したままになっている。やる気をなくしてどうしようかと迷っている時だっただけに「返却するように」と言われて逆にほっとする。

潮来マリーナの村山さんはいたって元気。次の事業に向けて動き出している。大生台地から流れて来る地下水はとてもきれいだそうだ。この水を利用してサイクルロードの休憩所や野菜の無人販売など。もちろん聖水の提供ももくろんでいる。いやはや旺盛だことだ。まいった。

清織姫に頼まれた掛け軸の写真を撮る。彼女からは「隊長、隊長」と呼ばれているが怪しいものだ。いろいろと注文が入る。そのたびに便利屋みともはフル回転。どう考えても立場は逆転している。これが我が人生の素直な道かー。
 
   9月8日(水)

土手の草刈り。農作業をやるのには最高の日和。ついでに畑を耕す。どれも体力的にはきつい。そうかといって部屋にこもっていれば益々しなびてしまう。長めの休みを入れながら目標を達成。

それからはやることがない。暇で退屈な時間となる。ただ、ぼーっと庭を見ながら過ごす。時々「いのちの文化史」立川昭二、「詩人会議」10月号を読む。四國五郎の戦争詩特集が載っている。すごい迫力。圧倒される。

夕方、元気印の姫丸子参上。たくさんの笑顔とお土産に母ちゃんと手を叩いて喜ぶ。食べるものを頂くことは何よりの歓びだ。おいらの晩年の母親は「年寄りは食べるのだけが楽しみなんだらね」と特老施設で言っていた。そういう歳においらもなったののだ
 
   9月7日(火)

今日気づいた、老人はゴミ箱をできるだけ遠くに置くこと。動くのが大儀になった老人はどうしても使う頻度の多い物をいつも座る近くに置きたくなる。特にゴミ箱は手短なところにあった方が便利だ。これがいけないのだ。そうではなく遠くにあればゴミ箱まで「よいしょ」と立ち上がり体を動かし歩く。運動不足解消なり。なんて天才的なアイデアだろう。

「おばあちゃんの原宿」といわれ名高い東京巣鴨の「とげぬき地蔵」は、江戸時代に重病にかかった女が地蔵の不思議な御影(おすがた)で快癒し、またある女中が針を飲んだがこ御影を飲んだところ針が御影に刺さって出てきた。以後、「とげぬき地蔵」として信仰されようになったという。どうも、ぽっくりさんとは違うようだ。

そういうことでゴミ箱はお地蔵さんに似たのがいい。売っていなければ暇と退屈を持てましている老人のこと自分で作ればいい。オリジナルの「お地蔵ゴミ箱」。老人よガンバレ!!。
 
   9月6日(月)

昼飯を食った午後、気晴らしに刈払機を物置から持ち出し庭の芝生を刈る。これまで芝刈りには色々と刈り方を試した。手押し芝刈り機もやってみた。ハサミ式でもやった。いずれも労力を使うわりには生産性が悪い。つくば文化郷の芝刈りを見ていたら刈払機でやっている。早速、試してみた。これがうまくいったのだ。以来、荒刈りは刈払機でやり仕上げはハサミ式が定番となった。

途中、小雨がぱらつくがそれでも必死に仮払い機を動かす。雨は段々強くなっていく。それでも夜須休まず続ける。30分以内が限界と決めているがその制限いっぱいまで奮闘。びしょ濡れになって終える。

詩人会議10月号に「なんで産んだんですか/なんで産んだんですか/なんで産んだんですか/世の中がロクでもないのが/わかってるのにー」大野美波。若い女性だろうか?。ドキンとさせられた。
 
   9月5日(日)

東京2020が今日で終わった。まったく興味もなく昂奮することなく終り、正直いってほっとしている。テレビ観戦を少しはしたがオリンピックという恥部だけがダシ昆布のように滲み出るだけだった。1964年の東京オリンピックはそれほどでもなかったような気がする。これは運動神経が鈍いということに起因しているのかー。

茨城県知事選は大井川氏が二度目の当選。県内を流れる主要河川に大井川というのはない。もしかしたら幻の川かもしれない。こういう知事が県政を担うというの県内に新しい河川をこしらえ危険を増長させるかも知れない。県民への不安を導く危険分子とみなし批判票の上乗せとして投票。

ぐずついた天気が続く。気分晴れない、洗濯物乾かない、パンツなくなる。フルチンで作業ズボンをはいて畑仕事。土塊たちプラプラチンチン知らず。これが平和ボケのハッピーな世界というものかー。

「けんこう坂にある空き家」詩人会議10月号
 
    9月3日(金)

「詩人会議」から手紙とメールが入る。現在の編集長は90歳で辞退を申し出ているという。さらに財政的にも困窮している。コロナ禍で事務所には事務職員と編集スタッフが交替で出向いている。詩人会議の会員も高齢化が進み退会者が多く新規加入者は少ない。毎月発行するだけでも大変なうえにこの状態。ともかくお礼と感謝の返事をする。

「大生ものがたり」の企画案を相棒に送る。大生神社のこと本格的に調査するそうで相当の資料が必要とのこと。この部分はおいらには歯がたたない。来年中にはなんとかまとめたい。おいらは関連する神社やその周辺風景の写真を撮ること。

雨が降っている。雨が止んだ隙を狙い畑の土づくり。これが一番気休めになる。「いのちの文化史」立川昭二著(新潮選書)を読み始める。雨は気まぐれに降っている。
 
    9月2日(木)

本日で73歳となる。誕生日を喜んでいいのか日々あの世が近くなっていくだけだ。
電話の誕生祝い1件、メールの誕生祝い1件、かあちゃんの誕生祝い1件、計3件あり。


誕生日に

ことなく呼吸を繰り返し
ことなく青空を瞳に映し
ことなく季節ごとの花を愛で
ことなく小鳥のさえずりに
ことなく耳をかたむけたり

ことなくふんわかごはんを
ことなくのおかずと食べ
ことなく73年の歳月が過ぎ
ことなくコトリと息絶え
ことなく無縁仏の仲間入りー
 
  9月1日(水)

8月のカレンダーとお別れする。それだけイノチが縮んでいることも覚悟をしなければならない。9月の月例カレンダーには「読書尚友」の四字熟語がデカイ顔している。そもそも四字熟語とはなんぞや。「日本において漢字4文字で作られた熟語を指す用語」だそうだ。

では「読書尚友」とはなんぞやになる。「書物を読んで、昔の賢人を友人とすること。」そういえばどの県でも県人会というのがあるが我が愛する山形県とはまったく縁がなかった。賢人との友だち関係も作れなかったかたなあ~。まあ、これが市井の人びとの姿だ。

最早、現代はスマホの時代。おいらのブログもスマホの画面で見やすいようにしてみる。ニンゲンの目は左右にあるから横向きの方が見やすいがスマホはたて画面。みけんにしわ寄せで見るようになる。自分で書いたものはほとんど読み直さない。まあ、読みやすくして手直しする癖をつけようということだ。そこで画面変更するが中身はまったく変わらずくだらないことばかり。これは自慢できる。「バーカ、ジマンできるような話じゃないよ」金魚ちゃんは何でも知っている。ああ、こわい。
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