怠惰な散歩  2021年

   6月30日(水)

今日で6月も終わり。2021年に入り半年は生きたのだ。このことはどういうことかと考える。コロナで死んだ人の仲間入りすることもなく生きているということは統計上の数字にカウントされないのか。ワクチン接種も指定2回を済ませているからこれはコロナに打ちi勝ったということだろうかー。

清織姫から送られてきた「湯上がり娘」こと、枝豆は湯船から顔をちょこんと出して湯煙りにほんのり紅色に染まっている。ピチピチツルツルおっぱいは見えない。あまり長湯するとのぼせてしまうのではと心配になる。「バーカ、おまえさんの脳みそがのぼせているんだよ」金魚ちゃんの声。

作家の柳美里は土浦と深い関わりがある。「私の児童虐待 最終章」で知る。父親は土浦のパチンコ店で釘師をやっていた。唯物論と唯心論。父は唯心論者、母は唯物論者。劣悪な環境で彼女は育った。それでも立ち直り作家活動を続けていることに脱帽。「バーカ、最初から分かっていることだよ!!」再び金魚ちゃん。ああ、辛いことだ。
 
   6月29日(火)

朝から雨が降る。ころころ花壇ところころ菜園は嬉々として雨に打たれている。こういう天候の日は気分が超沈んでしまうのだが、今日はすごく体調がいい。雨と仲良しになれたのか?。どういう理由で仲直りができたのかと考えるが理由が見当たらない。体調がいいことに素直に喜ぶ。

水郷公園の蓮園に写真を撮りに行く。長ぐつはいて元気印の傘さしてだ。蓮の花は雨粒をいっぱい浴びて時おり吹いてくる風に大きな葉を優雅に揺らす。その伸びやかさは今日の雨を待っているかのようだ。平日、雨ということで見学者は一人もいない。ぽつねんとひとりブラブラ歩きながら眺め立ち止まってはパチリパチリ。

帰り、土浦古書倶楽部に寄って100円の本を6冊購入。久しく読んでいなかった丸山健二の「眠れ、悪しき子よ」上下があるではないか。正直驚く。彼の古本などこれまでどこでも見たことはなかった。熱心な読者に支えられた孤高の作家だから古本に出回ることは稀なのだろうと思っていた。フンドシを締めて読んでみようと購入。さて、いつ読みだせるかだー。これぞ神のみぞ知るのみなり。
 
   6月28日(月)

清織姫から「仏縁がある」というメール。なんのことかとグーグル先生に問う。答えはたくさんあるが簡単に言えば「仏との間に結ばれる縁。仏の引合せ」ということらしい。さらに「仏」とはなんぞやと考える。グーグール先生再登場。仏とは仏陀のこと。日本では,死者を「ほとけ」と呼ぶ場合もある。まだ、おいらは生きているのだ。

縁を感じるのはコロコロ食堂に毎日やってくるスズメたち。どこで見張っているのかエサを補給すると一斉にあちらこちらから飛んできて賑やかにエサをついばんでさあーっと飛び去る。その繰り返しだ。まったく落ち着きがない。それでも何となく深い縁で結ばれているような気がする。

そういうわけで、今日は朝から体調がすぐれず静かに過ごす。それでも頑張って毎月末締めの詩人会議自由の広場に詩を投稿する。今回の詩は自分でもできはいいとは思えない。どうなることやら。それでも書き続け毎月投稿すること。これがおいらの生きがいだ。ああ、あまりにもささやかすぎる。
 
   6月27日(日)

霞ヶ浦を見ながらブログを書く。遠くに視線をしばらく向けていると健やかな精神状態を保てると何かの本で読んだ。それなら霞ヶ浦を眺望しながらいい文章が書けそう。そこで試してみる。ネイチャーセンター前には椅子とテーブルがある。ところが、狙いの場所は満席。今日は日曜日なのだ。そこでぼーっと霞ヶ浦を見て帰る。

なぜこんなことをしているかといえば暇だから。退屈をまぎらわすためだ。日曜日に公園に来てブラブラ時間を過ごすのは多くの人が退屈から逃れようともがいているだけだ。ああ、ヒトとういう生きものはかわいそう。

「バーカ、おまえさんもその仲間だよ!」金魚ちゃんの声。「バーカ、明日住まいの大掃除やってやろうと思ったけどやめだ!」「バーカ、世界の平和を祈るなんて書いているけど金魚一匹も幸せにできないならニンゲンバイバイするんだな!」「はい、わかりました」。暇に万歳です。
 
   6月26日(土)

いばぶん事務所前の母屋「るーらるはうす」でマルシェが開かれている。隣のギャラリーでは布の絵展覧会が開催されている。イベントが二つも重なって若い人が大勢来てにぎやかだ。文化郷がこんなにぎわいを見せるの久しぶり。おいらはうれしくなるが、雰囲気は年寄りを寄せ付けない。コソコソと見て回る。

庭を小さな子どもがキャッキャと声をあげ走り回っている。コロナなんてどこ吹く風といったように笑顔が絶えない。吉瀬の文化郷に世界の平和を寄せ集めたように明るい。これが本来の日常風景だろうが世間は窮屈になっている。せめてこの日だけはといったところ。

夕方、元相棒がママチャリで息を切らせてやってくる。CROSSに届いたいばぶんの郵便物とメロン二個のお土産付き。有難いことだ。おいらは出勤までパンツ一枚で休んでいた。こういう時の来訪者は慌てるが相手はそんなことを知らない。当たり前だ。後で考える。元相棒の家からおいらの家までは遠くないが健康坂スパルタ坂が多い。一の坂か五の坂まであるのではないかー。これはきついはずだ。それを乗り越えた届け物を持ってきたことに感謝する。
 
   6月25日(金)

何とも退屈な一日であった。それでも根本ぶどう園で剪定作業を朝早くからやる。現場に着いたのは午前7時。だぁーれもいない。静かなものだ。静かだけどぶどうはすくすく育っている。「あんたはエライ!!」と拍手を送る。何の反応も示さない。ますますエライと思う。要するにバーカとは話したくないということだ。

わが家の金魚ちゃんは足どりならぬ尾ひれフラフラ。これはいつもだが体全体に覇気がない。夏疲れかー。こういう場合の救いとして水槽の水替えをすること。分かっているけど面倒だ。ああ、かわいそうな金魚ちゃん。

午後、いばぶんの所用で山王姫宅へ。いつもなら恋瀬川を渡ったと電話を入れるのだが今日はクルマはスイスイ走る。そのまま走り玄関のベルをピンポン。山王姫は怪訝な顔をして出向かへ。電話が入ると思っていたらしい。世の中にはいろんな思惑違いがあるものだ。ご用心ご用心。
 
   6月24日(木)

ひみつ

ものがたりを
つくりたいという
やさしさをもった
おとこのこ

ものがたりを
つくるというを
やさしさをだいた
おんなのこ

そんなふたりが
なかよしになって
えほんをつくりました

ものがたりのなかみは
ふたり ひとりの
たいせなひみつです
 
  6月23日(水)

石岡市役所に石岡市長に会いに山王姫と動物愛護協会のSさんと行く。市内の小学校に動物愛護の読み聞かせを開きたいという相談。Sさんは県から補助金をもらっているので石岡市の負担はないと力説。なんだかかんだと話して教育委員会と詳細を打ち合わせることで終了。

それより山王姫は目を患ったというほうが心配。心配したからといって病気が良くなるわけではないが心配は心配。さらに清織姫もなんかの病気という診断されたというメール。ああ、日本列島津々浦々病人だらけ。

我が老人夫婦は大きな病気もしないで今日まで生きてきた。これは元気な体に生んでくれたことに感謝。さお互いの両親はすでに天国に旅だって久しい。もう何歳で亡くなったのかも憶えていない。これが現実だよ。
 
   6月22日(火)

世の中にはいろんな研究者がいるものだ。「動物の脳採集記」ーキリンの首をかつぐ話しー萬年甫著(中公新書)。アシカ、キリン、子カバ、ゾウ等など。脳をとり出しスライスして神経や血管などの経路をたどりニンゲンとの比較をしてさまざまな形で応用できないものかー。説明がよくできないのは本を読んでいるおいらの脳では理解不能ということ。でも面白い。

辺見庸の詩集「眼の海」を読みたい。ずっと昔買って本棚にあるはずだと探す。あったと思ったら「生首」という詩集。おぞましいタイトルでそれこそにわか雨のように読んでそのままだった。「眼の海は」手もとにないことは分かった。

「日本がもっとも暗黒の時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいていたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義はおそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います」(「失語と沈黙のあいだ」石原吉郎)。スマホ時代の今日、ことばは加速して広がるが届いても素通り。そんな気がする。「サインはV」という記号化されたやりとり。ああ、恐ろしや怖ろしや。
 
   6月21日(月)

根本健一さんの一周忌企画展の会議に出席。山王姫は所用で欠席。11人の参加者でおいらの役目はただ座って話を聞くだけ。時々、実行委員会のメンバーの役目としてうなずいたりメモをしたりする。喫茶まめ葉のアイスコーヒーをおいしく飲み終わったころに解散。お疲れさまでした。

金まみれの東京オリンピックは観客を入れて開催されるという。1964年10月10日「世界中の青空を全部持ってきたような素晴らしい秋日和でございます」。NHKのテレビ中継のアナウンサーは開会式の模様を伝えた。それなのに日本中の暑さをかき集めたような夏になぜ開催するのかー。スポンサーの意向が大きく作用している。

おいらの年代のあいさつは決まっている。「体調はいかがですか?」。相手を心配しているのか自分の体調不良を嘆き慰めの言葉を待つのかー。愚痴っても病気が治るわけでもないのをわかっていてもだ。ああ、「同病相憐れむ」の縄跳びをして遊んでいる悲しき年寄りたち。金魚ちゃんに訊く「加齢とはー」「バーカ長生きできたことだ。さっさと寝ろ」「ありがとうございます」。
 
   6月19日(土)

朝から雨。菜種雨というのか細かい雨粒が休みなく降っている。こういう日は気分が滅入る。どんどん闇の中に引きこまれていく。ぼんやりしならメシの種の仕事を少しずつ進める。本の読みかたにはいろいろある。斜め読み、飛ばし読み、ふかし読み。ふかし読みというのはオナラのようなものと丸山才一が書いていた。そういうわけで「地名崩壊」はすんなり書棚におさまる。

清織姫はタゴール詩集を2冊も持っている。「世界の詩シリーズ39 タゴール」山室静訳。「ギタンジャリ」森本達雄訳。超驚きだ。インドの詩人タゴールを知っている人はごくまれだ。知っている人は絶滅危惧ニンゲンに近い。

おいらはそのどちらも持っていない。いや「ギタンジャリ」森本達雄訳は確かに買って読んだはずだが見当たらず。新聞記者時代にタゴールはなぜ片田舎の茨城を2度も訪れたのかという野次馬根性からスタート。その後は成り行きで今日まで来たというだけ。知っていることといったら我妻先生の受け売りしかない。お粗末さまでした。
 
   6月18日(金)

朝早く根本ぶどう園へ。FMの「古楽の時間」を聴きながら剪定作業。バサバサと不要なツルを切る。まるで散髪屋で伸びた髪をカットしてもらっているようで気持ちがいい。

6月の緑の風吹く水郷公園に出張ぼーっに出かけブログを書く。夏に向けて公園の木々は緑を色濃くしている。爽やかな風がそよぎ気持ちがいい。公園では老人たちがゲートボールを楽しんでいる。あきらかにコロナワクチン接種を終えている年代だ。炎天下でマスクをしてのプレイ。熱中症で倒れなければと願う。

「風呂上がり娘」を植える。無事に風呂から上がり笑顔をふりまいてくれればと願う。「地名崩壊」を読み始める。そういえば柳田邦男に「空白の天気図」というのがあった。「空白の地名」「空白のニンゲン」というのはあるのだろうかー。金魚ちゃんに訊く。「バーカ、おまえさんのようにひねもすぼーっと過ごしているのを空白ニンゲンと言うんだよ」「はい、分かりました」。
 
   6月17日(木)

清織姫から角川新書「地名崩壊」の本と枝豆「湯上り娘」の種が送られてくる。本は読め、種は撒いて育てろという意味かー。本は間違えて同じものを買ったから。これはおいらにもよくあることだから驚かない。問題は「湯上り娘」の種だ。うまく育ったら湯上り娘のようにほのかに石鹸の匂いがしてほてったはにかむようなピンク色になるのかー。ともかく、明日植えてみよう。ガンバレよ「湯上り娘」!!。しおりが美しい!!。

「地名崩壊」は、「地名と鳳凰台城と北浦航空隊」のテーマで7月に調査に来る。そのアシストの役目を仰せつかっているおいらに少しは勉強しておけということかー。昔から勉強と宿題は嫌いで「好きな学科は給食の時間」と答えていた。それはそれは楽しい時間だった。

昔、永六輔が尺貫法からメートル法のなる時、「職人はからだで長さや重さを覚えている。それをどうやって救うのか?」と反対していた。昔から受け継がれた地名や屋号はどんどん消え夏祭りのお囃子も消えていく。時代は確実に変わっていること痛感する。帯にエクセレントが丘。面白そうだから明日から読んでみよう。
 
   6月16日(水)

宿直室で目覚める。驚くように体調が良くなっている。不思議だ。熱も下がったので事務所受付に置いてある体温計ではかる。36.2℃。平熱で気分も爽快。宝くじを買ったら当選しそうな予感。若い女の子のお尻をさわっても微笑み顔が見えそう。そういうわけでコロナワクチン後遺症は無事に乗り切る。

さて、コロナワクチンがおいらの体内でコロナ退治抗体として働いてくれるかが大問題。「いやだ、いやだ」とバックオーライと抗体が後退して消滅したらどうなるのか。金魚ちゃんに訊く「バーカ、そんなことは運に任せてぼーっとしながらつつがなく生きていろ!!」

そういうわけで終日ぼーっとしていました。どうやらコロコロ菜園は土が栄養不足のようだ。これからは土作りに励まなくてはー。ただ、その知識も体力もない。こまったものだ。
 
   6月15日(火)

当直明けの朝、キャンキャンと泣き叫び散歩をせがむシュリをなだめるようにして田んぼ道を歩く。この時はワクチン接種による体調の変化はなかった。ところが朝食を終え自宅へ戻ると急に体がだるくなる。額を押さえると熱っぽい。これはいかんと横になりながらと体力回復につとめる。今晩も連ちゃんの当直なのだ。

山三印刷との打ち合わせキャンセルの電話をして清織姫への頭が回転しないから後ほどのメールを送る。体温を測ったら36・9度。いつもは36・5度前後。2度目の方が筋肉と痛みや高熱になりやすいとは聞いていた。世界的にそういう傾向だというからおいらも晴れて国際人の仲間入りかー。

宿直員のひとりは病欠中。休むわけもいかない。ともかく滝の園に行ったら早く寝ることを固く誓いノコノコと出かけるのでした。
 
   6月14日(月)

今日は、コロナワクチン2回目の接種日。「ブス、チクリ」連続の特急列車に滝の園のみんなは乗車。終わると接種証明書を「大事なものだから無くさないようにね!」と、かわゆい事務員の声。ああ、年寄りも生きていていいんだね!!。感動!!。

宿直組は接種を終え様子見だと駄弁りながら15分待つ。明日はゴルフの約束があるという仲間もいる。ゴルフは逃げないのだから休んだほうがいいと全員がすすめる。利き腕の右じゃなく左に打ったという。これは、明日はゴルフに出かけると確信する。さて、どうしたものやら。

いばぶん事務所に立ち寄る。根本工務店の若者は池造りに励んでいる。知的生産性労働はなく完璧な単純生産性の仕事だと笑っている。よく見ると石の配置などには頭を使っているようだ。ケガをしないように頑張ってと言い残して立ち去る。完成が楽しみだ。
 
   6月13日(日)

気怠く本を読む。「言葉空間の遠近法」安達史人(古文書院)。四中地区公民館で借りてきた本で著者との対談集だ。その中に寺山修司が出てくる。寺山は写真について語っている。

「― 写真を撮るために風景を変えてしまうってところまでゆきたい気はしますね。現象を現象として記憶するってことなら、人間は写真を一枚撮るごとに自分を呪縛してゆくことになるー。ー歴史的にいえば言語のほうが写真より長いんですよね。でも言葉の主権っていうものももうそんなに長くは続かないという気がしています」。(スマホ時代を予測していたのか?)

寺山修司はワタリウム美術館で「歴史の天使」写真展を開いた。プロデュースしたのは和多利志津子館長。館長と懇意になったのはその数年後で、寺山の開催中の経緯を聞いたことがある。いろいろあるが「お母さんも見に来た」というのには感動した。遠路、青森から息子を心配してきたのかはわからないが、そういう母性愛というものにだー。
 
   6月12日(土)

「詩と滅亡のパンセ」辺見庸(毎日新聞社)
破滅の渚のナマコたちー亡命と転向と詩ー。(キリヤット・F・コーエンとの会話。2012年3月29日 東京・新宿)より

Q :ナマコもはやく詩にしたらいいのにーー
庸:「詩の言語域は空間的にも時間的にも無制限でかまわない。この世とあの世、過去・現在・未来を往還するにはどんな言葉が要るのかよく考えるよ」

Q :大いなる災禍(東日本大震災)を眼前にして哲学も詩もジャーナリズムもあまりにも無力やったな。
庸:「国難」の二字を難なく浸透させてしまったね。国難や国体という言葉は極めて危険な言葉で、堀田善衛も書いてるけど、こういう大きな言葉がでてくるときはろくなときではない。「方丈記私記」にはいくつも線を引きたくなるぐらい重要な指摘がある。

Q :キリヤット・F・コーエン (詩人、フルートティスト。人形遣い。彷徨者。1944年イスラエル・ハイフェア生まれ)
 
   6月11日(金)

昨日のことを思い出しながら書いている。これを「遅だしブログ」というのだろうかー。なぜ昨日更新しなかったのかを考える。ようするに書くべき理由も事柄もなかったということだ。つつがなく一日を生きましたというだけ―

ただ、高台から周囲の家々を眺め時おり雑木林に目をやり、ああ、今日も空は明るく青いよとブツブツ言いながら気分転換に草むしりをやって気を紛らす。こういう日があってもいいのだ。そのこういう日があってもいいのがこれから何回繰り返されるのだろうー。金魚ちゃん何も語らず!。

昼過ぎ、編集会議で水戸へ。広報部長が新しくなっている。これまで5人のもとで作業を続けてきた。2年任期だから10年も続いてきたことになる。さて、これから2年がどうなることか自分でもわからない。やれるだけやってみるしかない。
 
   6月10日(木)

「権力の館を歩く」(御厨貴著)で、ああ、懐かしき旧警視庁が紹介されている。チョコレート色の建物の旧警視庁は桜田門の真向いにあった。現在は建て替えられたが場所は変わらない。東京時代はさまざまなアルバイトに精を出した。窓ふきのアルバイトもその一つで何度も警視庁の窓を拭いた。

正面玄関で簡単な手続きをするとスンナリと入れた。仕事道具はタオル数枚。ビーチサンダルをはいてその日指定されたフロアの窓を拭くのである。レンガ造りの古い建物で室内はどこも薄暗く窓枠がはずれそうで恐かった。

夕方、真白き衣装をまとった姫丸子参上。お土産たくさん持参。まるでたわわに実った根本ぶどう園のぶどうの房のような笑顔をふりまく。明るくどこまでも不幸を乗り越えての明るさ。ああ、これが人生だよ。
 
   6月9日(水)

ユリの花が黄色い花びらをひらきはじめた。わが家にはユリの花が20本ほど咲いている。どれも譲り受けたか自然に根付いたものだ。ユリの花に関しては商取引がなかった。お金を支払うことなくどんどん増えていく。それだけにかわゆいかわゆいかわいいのだ。そこでパチリ。

「詩人会議」には戦争詩が多い。どれも嘆きと反省に誓いがパターンだ。「ー 生理といえば、頼まれもしていないのにゴミのような戦争詩を書きまくる生理がまだこの国には残っている」『死と滅亡のパンセ:辺見庸』(毎日新聞社)。おいらは、はっきりいって戦争詩は好きではない。だから書けないし読まないで飛ばすようにしている。

それでもいつとなく誰となく読んで、深く感銘して頷いたりしている。やはり、戦争というのは大きなテーマである。公的な殺人事件。目を閉じて見逃すことはできないニンゲンとして許されない行為なのだろう。
 
   6月8日(火)

当直明けの朝、梅干し作り二回目に挑戦するため散歩で見つけた梅畑に行く。大きな梅が一面に落ちている。歩くとグサグサと梅がつぶれる音が足もとから伝わるほどの多さだ。種類は分からないが南高梅のような丸まると太って健康そうな梅。

「友だちと梅干しは古いほうがいい」という。うまく出来上がったとしても新しい梅干しだからどんな味がするのだろう。ましてや、たくさん作っても主食のおかずにはならないから生きているあいだに全部食べきれるだろうかとも思う。

長野のメル友から絵文字いっぱいの暗号らしきメールが入る。ボケ防止のためだろうか。頭をひねる。確かに絵文字から意味を読みとるということはボケ防止にいいのかも知れない。数年後には文字でのやりとりが無くなり絵文字だらけになってしまうのだろうか?ああ、恐ろしや怖ろしや。世界で一番短い手紙は「?」と{!」だそうだ。
 
   6月7日(月)

さて、今日の事を思い出しながら書こう。朝、目覚め起きたことは確か。朝食を食べ散歩に出かけ大量の梅が落ちている梅林に出くわしたのも確か。それからいばぶん事務所に行き雑用を済ませたことも確か。ところが、ここから過ごした時間がすうーっと消える。ただ、ぼーっとしていたから時間が家出してしまったようだ。なかなか賢い時間ちゃんだ。アンタはエライ。

さて、ぼーっとしていた時間はどうしていたのだろうかー。「思考の生理学」を読み終え「ホーキング、宇宙を語る」を読みながら眠り、あとは気晴らしに草むしり。

草むしりをしているとミミズがたくさん地上に顔を出しニョキニョキと動いている。せっかく心地よく眠っていたのにー。つまんではポイと飛ばす。あっ、発見!。ミミズも空を飛べるのだ。自力飛行はできないグライダー飛行だ。そういうことで一日は終わるのです。今晩から当直が二日続く。三人交替でやっているが一人がしばらく病欠とのこと。初めてだ。バイバイだ。
 
   6月6日(日)

木のなまえは知らないけれど
木を見あげるのは好きだ

花のなまえはわからないけど
野辺に咲く可憐な花は好きだ

今朝 一番で
やってきたお客さんは
白いモンシロチョウ二頭

オスだかメスだか
なまえもわからないが
それでも好きだ
 
 巨峰(きょほう)  6月5日(土)

宿直明け、そのままぶどうちゃんに会いに行く。どうしても気になってる蔓を切りたいのだ。元気のいい蔓はどんどん太陽を目がけて伸びる。それを一刀両断して引き抜く。そいつらの大きな葉っぱが邪魔をして日当たりを悪くしている。間違って実がなっているのも切ってしまうこともある。ゴメンゴメンで終わりだ。気にしていられない。

ー どういところでいちばんいい考えが浮かぶかということで、中国の欧陽修という人は一般に三上という残した。三上とは馬上、枕上(ちんじょう)、厠上(しじょう)。馬上は現代では電車の中やクルマの中。枕上は床にはいって朝、目をさました時。厠はトイレの中。

なるほど、ウンウン頷く。頷くというのはよく理解したという意味にとらえることになる。しかし、おいらの場合はどこまで理解しているかというのが怪しい。ただ、並べられた言葉に頷いているだけだ。こまったものだ。
 
ゴールドフィンガー
  6月4日(金)

子どものつぶらな瞳のようにかわいいかわゆいブドウちゃんはすくすく。品種は巨峰(きょほう)とゴールドフィンガーの2種。ああ、大きくなることはいいことだ。なにしろ未来がある。おいらに食べられてしまうという運命にあるとしてもだ!!。頼むぞ、頼むぞだ!!。

ー やはり、ナベを見つめすぎるからだろう。ナベにも煮えるのに自由な時間を与えなくてはいけない。あたため、寝させる必要がある。思考の整理法としては、寝させるほど大切なことはない。思考を生みだすのにも、寝させるのが必須である —「思考の整理学」外山滋比古。

おいらの場合は思考を寝させて発酵する前に消え終わってしまうことが多い。なにしろ一度寝たら頭の中は空っぽ。空気に呑み込まれ何処かへきれいに消える。それが年々ひどくなる。こまったものだ。 
 
   6月3日(木)

「ホーキング、宇宙を語る」を読みだす。すぐに眠くなる。宇宙の果てはどうなっているのか、などということはハテナハテナということだ。そこで井上ひさしの「青葉繁れる」にする。新聞で井上ひさしにぞっこん惚れ込んだ男が作家の故郷である山形県川西町に越してきたというのが載っていた。

おいらの生まれ故郷が生んだ偉大な作家井上ひさし。作家が寄贈した本の「遅筆堂文庫」がある。見たことがあるが膨大な本にたくさんの大きめの付箋がついており書き込みもあった。

「吉里吉里人」「東京ローズ」などの長編は面白くて夢中で読んだ。残念ながら今の書棚にはどれもない。度重なる引っ越しにまぎれて風と共に消えたようだ。消えるといえばおいらはいつ地上から消えるのだろう。これがなかなかしつこくトカゲの尻尾のように切られてもくっついてきて消えそうもない。不思議でもありこまったことでもあり、喜んでもいいことだ。

■詩人会議7月号「手ざわり」
 
   6月2日(水)

わが家の土手の大工事を終える。住まい高台にあるからどうしても土手ができる。隣の家はしっかりとコンクリートで造っている。ところがここは土手を築きそのまま。要するに大地丸出し。そうなると陽当たりもいいから雑草さまが元気に伸びる。これを刈り取るのが大仕事。

急斜面で高さが4メートル近くあるから刈り払い機では下からやっても上からやっても真ん中が届かない。これまでいろいろと挑戦。その時の苦労をしたくない。それなら土手の真ん中に草刈り道路を造ろう。

それが完成したのだ。大家さんが見たらなんて言うだろう。「ああ、土手を虐めてかわいそう」と絶句。涙を流して悲しむだろうかー。もう知らないよやってしまったのだからー。後始末なんて考えてもいないしもう体力的に無理。とにかくなるようにしかならないのだ!!。
 
  6月1日(火)

さあ、6月だ。だからどうしたのだと問われても答えられるものではない。それでも6月は6月なのだ。

水が張られた田んぼに
幼い苗は風にそよぎ
水面に青い空を映し
若草色のいのちを
ひたすらにはぐくむ

ああ 六月の青い風よ
かくも美しきみどりをたたえ
地上を走り抜けるのかー

そういうことで本日はお終い。きっと明日もあるよ。みんな元気でね!。
2021年
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