怠惰な散歩  2021年

   3月31日(水)

弥生最終日、黄沙曇りのなか最後の桜花をおがみに行く。今年は、つくばみらい市福岡堰の桜、筑西市母子島遊水地の桜、土浦桜川堤の桜、そして謡曲桜川で知られるさくらがわ市の岩瀬の桜でお終いとする。これからは小松界隈の散りゆく桜を愛でお仕舞。

愛知県の丸山薫賞運営委員会から、第28回同賞にふさわしい詩集の推薦をお願いするという手紙。どんな賞かよく知らなかったが、なんと大賞賞金100万円。ああ、驚きとため息とともに優しいオナラ。詩を編んだ本でこんな高額な賞金にたまげる。。無知の涙ではないが世界にはいろんなことがあるものだと金魚ちゃん訊く。ただ、のほほーんと泳いでいるだけだ。アンタはエライ。

夜空に星が煌めくように
真昼の空にもあると
そうおもう想念ほど
奇異に美しいものはない
 
丸山薫「美しい想念」より抜粋。
 
   3月30日(火)

いばぶん事務所へ。本日は少しにぎやかだった、とはいっても母屋の改築工事をやっている大工さんや北沢工務店の人と話しただけ。いや、4月4日にオープンする陶芸教室のオーナーと隣の喫茶店の店主とも話しをした。これはすごい出来事だ。もしかしてビッグニュースかもしれない。

昨日は仕事日。早めに家を出て土浦イオンの本屋さんへ。ああ、本屋さんは本だらけ。よくもこんなに本があり誰が買って読むのだろう。文庫本の「ルポ 西成」を1冊買う。これは新聞広告で知った。大阪の日本最大のドヤ街「西成」の暮らしぶり。その体験ルポ。若いころおいらもそんな生活をしていた。

ヒトが生きてゆく中で必ず吹き溜まりが自然発生する。それを人為的に排除してはならない。ヒトが生きるというのはボロボロになって今日の呼吸に全力投球すること。時間は止まらない。止まらない時間の中の友人でありたいなら、吹き溜まりであろうと清浄地帯であろうとせっせと息をすること。それこそ、崇高なる生というものだ。
 
   3月29日(月)

「柿の種」をインドで販売するという。商品名は「カリカリ」.。インド人は「カリっとした」食感を好むことから日本人に広く親しまれている「カキノタネ」はボツになったという。インドにも似たようなスナック菓子があった。何度か食べたが食感はやはり「カリカリ」としていた。

味付けにもインド人好みにして原料もインディア米を使用するそうだ。我が愛する「柿の種」もいよいよインド上陸。さて、売れ行きはどうか。なにしろインドは広く多様な民族、言語、宗教の国。おいそれと島国ニッポンのな考えが通用するとは思えない。

日本びいきのニランジョンはスナック菓子が好きでよく食べていた。彼ならもう食べたのかも知れない。一時はタバコも吸っていたが病気をしてからやめている。「カリカリ」片手に生ぬるいミルクたっぷりのチャー(紅茶)を飲みながら詩作にふけっている姿が見えるようだ。ガンバレ「カリカリ」。
 
   3月26日(金)

インドから来たショメンダ(タゴール国際大学の音楽部教授)は「日本のいたるところに箱がある」と自動販売機を指さして言った。「日本をそのままインドに持ち帰りたい」とも真剣な顔で言っていた。彼が住む西ベンガル州シャントニケトンは盗賊が旅人を襲っていたという原野を切り開いて出来た村。牛と猿と人間が同居する田舎だから驚いたのも無理がない。

外国で長く暮らしていた作家の堀田善衛の随筆に日本の自動販売機について書いている。「自動販売機は駐車違反ではないか」。とにかく日本には自動販売機が多い。それと野立て看板。まるだカラスやタヌキにまで宣伝しているようなものもある。

黒澤明が映画の撮影中に「あの電柱を切ってこい」と呶鳴ったそうだ。きっと時代劇のロケ中の逸話だと思う。「日本の景色を貧しくしたのは電力会社ではないか」。写真を撮っているとたびたびそう思う時がある。日常生活では電気のお世話になりっぱなしとはいえ文句の一つも言いたくなる時がある。ニンゲンそれぞれ自分の都合のいいように解釈して勝手な生き物だ。
 
   3月25日(木)

いばぶん事務所へ行く。母屋の改築工事の進捗状況を見学。大工さんの話しではほとんど終わりに近いという。20日ほど作業に作業をしているという。さて、これからどんな店子が入りどんな彩りになるか楽しみ。とにかく、つくば文化郷全体がにぎやかにならないと寂しい。HPの更新をやる。パソコンはもう10年も使っているので動作が遅い。来年度は理事長にお願いして新しいのに買い換えてもらおう。

石岡の常陸の風土記の丘に行く。駐車料金が500円とある。驚いてそのままUターン。園内の売店で売っているお花は安い。それなのに駐車料を500円払って購入したらホームセンターより割高になる。バーカみたい。

山王姫宅庭園の春景色を見て行く。草取りさんが入っているということで庭園はとてきれい。これから緑が濃くなればさらに美しさを増すだろう。楽しみだ。庭に咲いている花を山王姫に案内してもらう。華道家だけによく知っている。これからは知らない花の名をたくさん教えてもらおう。お土産にキャベツ一個持っていっただけなのに倍返しのお土産を頂く。素直にうれしい。ありがとうございます。

アケビの花 
   3月24日(水)

「医者として一日50人の患者を365日、10年間診たとしても、トータルでは18万人。しかし基礎研究で新しい治療法を開発すれば、100万人以上の患者を救えるかも知れないじゃないか」(「生命の未来を変えた男ー山中伸弥・iPS細胞革命ー」文藝春秋。山中さんが本気で研究者を辞めようとしていた時に友人の医師に相談した時に医師はそう話した。

この本は2011年8月に出版されている。それから山中さんはノーベル賞を受賞して現在に至るからiPS細胞の研究はもっと進歩しているのだろう。山中さんは世界を考えて研究をしていることを知る。世の中にはすごい人間がごじゃごじゃといるようだ。

小松界隈に住むひとりの老人はそれなりに慎ましく生きているのがふさわしい。なにしろ、これまで世界のことなど考えたこともなかった。市井の小市民であることを誇りにさえしていた。まあ、そういう人が世界中の人類のほとんどだろうがー。
 
   3月23日(火)

昨晩は飲み過ぎた。起きて鏡で顔をみるとまだ赤い。そして皮膚全体がたるんで醜い顔を映している。ああ、何とも情けない貧しい顔。ビーンボーが顔にまで反映されているようだ。じーっと耐えるようにして過ごす。空を見上げればどこまでも澄んで青い。

井伏鱒二は二日酔いになったらどうすると聞かれ「ひたすらまた飲み続ける」と言った。迎え酒が一番の特効薬だが今晩は仕事。そんな無鉄砲なことはできない。ただ、時間が経って胃袋がもとの元気さを取り戻してくれること願う。それにしても空は青い、蒼すぎる。

ー悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった。「病臥六尺」正岡子規。
 
   3月21日(日)

雨はふる
風がふく
音もたてず

大地と
不可解なかたちで
ふれあった時
はじめて
音を発する


今日は朝から雨。うつらうつらと本を読み、うつらうつらと居眠り。うつらうつらのまま一日は終わる。
インドは乾季と雨季しかなく日本のように四季はない。ただし、四期がある。「学習期」「家住期」「林住期」「遊行期」。
 
   3月20日(土)

シュリと夕方散歩。リードを引く力が強い。そうか、シュロは四つ足だから踏ん張りの力はニンゲンの倍ある。それだけでおいらより有利だ。ただ、歩幅はるかに狭い。チョコチョコと歩き鼻をクンクンさせては立ち止まりオシッコ、またはウンチをする。まるで大地全部が公衆トイレだと思っているらしい。

インドで見た農村の朝。なにやらタライのような物を手にして田んぼのあぜ道を歩いている女性。すると突然姿が消えた。田んぼのあぜ道にしゃがみ込み朝の用便をしているのだ。器の中には水が入っている。それはトイレットペーパーと同じ役目をすることになる。

それが、あっちのあぜ道、こっちのあぜ道に点在している。それぞれの縄張りがあるのだろうかー。女性の着ているサリーはどれも色鮮やかで目立つ。ただ、シュリと違ってリードはついていない。だから、自分の意図する場所でのびのびとできる。田園の朝の目覚めはニンゲンと自然が一体となっている。見事なものだ。
 
   3月19日(金)

潮来マリーナへ納品に行く。今日は玉造経由。おいらの家からは美浦村経由で行っても同じぐらいの距離。村山さんは元気そう。冊子の仕上がりは満足そう。キャンプ場はともかくオープンしたという。そういえば途中、キャンプ場案内の立て看板があった。潮来駅の近くにもあるという。なんだかんだ話しているうちに鹿島神宮の調べものをしているという女性が同席。

茨城民俗学会の会員だそうだ。会報に2度寄稿しているという。大生神社のことなども調べているらしい。驚いたのは長野県から5時間もかけて来ているということ。今回は3日ほど泊りがけでいろいろと調べていくという。すごく熱心で今回できあがった冊子を見てどんな感想を持つだろう。誤植ひとつ見つける。ガックリ。

帰りは石岡経由で帰る。ひさしぶりに山王姫の顔を拝み大久保邸の春の庭を拝見しよう。ところが潮来マリーナで時間をくってしまいバタバタとして帰ることになる。それでも、元気そうな顔を見たしお土産もたくさん頂きルンルン気分で帰る。いつもごちそうさまです。
 
   3月18日(木)

朝を歩く。まだ暗い。静かだ。もっともわが家周辺は昼間でも静かだ。何の目的で歩くのか?。この哲学的な問いに答えることは不可能だ。なぜ歩くかということを考え歩くのだから明解な答えはないのだ。ただ、いつも霞ヶ浦の水郷公園から見ていた日の出を藤崎町の桜川見たことは確かだ。

畑仕事に励む。さんざん雑草をむしり取ったのでたいした仕事もない。コスモスの種をパラパラ植木鉢に撒く。この種は去年、潮来マリーナに行った時に道路わきに咲いていたコスモスから摘んできたもの。結果はどうなることやら。

藤代周辺に流れている小貝川の写真を撮りにクルマを走らせる。藤代は兄夫婦が住んで居るせいもあり地理的には少し明るい。福岡堰から利根川までを主に撮ってみようかと考える。帰り、土浦古書倶楽部で古本を購入しようと思ったが疲れたのでやめる。やはり体力がついていかない。高安パパ勝つ。やはり子供を持つと強くなるのかー。
 
   3月17日(水)

阿見医大病院へ定期診察に行く。血液検査の数値を見ながら先生いわく「100点満点ですよ」。素直に喜ぶ。花粉症の処方箋も書いてもらう。市販の花粉症の薬より格段に安い。ニランジョンが日本の医療保険制度をほめちぎっていた。インドにはこれほど充実したのはないという。甲状腺ガンの治療を受けているだけに治療代は大変なのだろう。彼の家は比較的に裕福なほうだが、それでも病気がガンということもあり高額だという。

先生は満点といったが、これは薬を服用しているからである。もし飲んでいなかったら点数はゼロ、零点ということで死んでしまうことだろうかー。うっかり喜んでばかりいられない。

用意した治療代でおつりがあったので土浦古書倶楽部へ数枚の100円玉を握りしめて行く。ところが本日休業の看板。土浦商店街は水曜日が休みとなっている。それにならっているのだろうかー。もっとも商店街は毎日が水曜日のようなもので活気がない。今日は暖かった。モモヒキとおさらばする。うれしい。
 
   3月16日(火)

大相撲をテレビ観戦。ノソノソと動く力士を見ていてフト思い出す。「寿命というのは消費エネルギーの総量。ハツカネズミは2年ぐらい生きられないのは活動が激しくてエネルギー消費が早いから。心拍数がゾウの何十倍の速さ。1日はゾウの1カ月分の長さ」。

相撲取りはハツカネズミのように心拍数が早く大量にエネルギーを消費する。短命の力士が多いのはそのせいか。かあちゃんもおいらもぼーっとした生活をしているからエネルギー消費は少ない。

そういえば、わが家にやってくるスズメたちはチョコチョコと餌をついばんでは、あっという間に一斉に飛び立つ。きっと長生きできないだろう。調べたら寿命は3年ほど。自分の命のはかなさを知って早食いしているのかも知れない。ああ、カモメのジョナソンではないが、悟りの境地に達しているのだろうかー。
 
   3月15日(月)

たおやかな一日だった。ラジオから「ツァラトゥストラはかく語りき」の音楽が流れてくる。ああ、昔何度も聴いた音楽だ。思わず、「これだったのか!」と声をあげる。もう、すっかり忘れていた。もともと音楽と体育の通信簿は悪かった。今さら驚くことでもない。

たおやかだが今は待つだけだ。いたるところに仕掛けられた見えないテグスを避けるようにして生きている。ホモサピエンスは絶えず進化しつづけるという。その進化の過程にコロナ禍に遭遇することも織り込まれていたのだろうかー。とにかく今は待つしかない。

『悪を滅ぼさなければならない。悪というのは、結局のところエントロピーの増大が生む崩壊現象、秩序が失われた状態、世界の欠陥状態、「落下」、未完成状態だから、それに対抗するためには、全世界を合理的自覚を持って反エントロピーの方向に動かしていくことが必要で、そのために全人類が総力をあげることが、人類の共同事業だというわけです。』「サピエンスの未来」立花隆。
 
   3月14日(日)

つくばみらい市の福岡堰に写真を撮りに行く。空は真っ青に晴れて風が強い。ぐるぐる回っていたら白い冠を被った富士山も見える。小貝川の土手には菜の花が強風にあおられながらも健気に咲きほこっている。福岡堰の通路を歩いて渡るが猛烈な風で吹き飛ばされそう。これが筑波下ろしという風かー。

小貝川の川べりを歩いていたら大きなスギの木一本。赤茶色をした花粉のかたまりが
風にふられブラブラしている。待っていましたとばかりスギ花粉をまき散らしているようだ。見上げただけでぞっとする。足早に立ち去る。

本日から大好きな大相撲が始まる。お化けのようにでかい体のぶつかり合いはテレビ観戦でもその迫力が伝われる。桟敷席のきれいどころの女を探すが見つからない。紋付き袴の大男が土俵を見上げている。どうも男では気色が悪い。勝手なものだ。
 
   3月13日(土)

今日は朝から雨。コロコロ花壇の手入れをしている時に、そろそろ一雨ほしいと思っていた。それだけに今日は天から雨粒が激しく降り、そのお供のように激しい風とカミナリ。夕方、もういいよと天を仰いだ声をかけるが一向に止む気配はない。本当にもういいよ!

瀬戸内晴美の「遠い風 近い風」の随筆を読む。まだ瀬戸内寂聴とは名のっていない。「ものを書くことだけに明け暮れて、お茶ひとつわかさず、ペンより重いものを持たない生活を十何年もつづけてきた私にとって、うわさに聞く行院での修行生活は、生まれかわってこなければつとまりそうもないものに思われた」

「私が出家したい憧れを持つようになった理由のひとつは、自分の死にざまに対する異常な関心があったかもしれないと考えている」。今でも朝日新聞に時々随筆を書いている。「遠い風 近い風」は1974年から1年間朝日新聞に連載したのをまとめたもの。47年も前の話だ。お化けのように息の長い作家だ。
 
   3月12日(金)

いばぶん事務所に行く。根本工務店の頭領はじめ総勢4人で母屋の改修工事をやっている。みんな手先が器用というかエネルギーが漲り手際よく仕事を進めている。おいらも昔はこのようにスパスパと動けた。

山王姫と一緒に「根本健一コレクション展」の実行委員打ち合わせに出席。枝葉を広げない方がスムーズに進行するよう感じる。シンプルイズベストだ。山王姫のいうように展示物を所せましと並べるのではなく、ある程度の空間があったほうがいい。遊びのない歯車は壊れやすい。

「流域紀行ー鬼怒・小貝」(常陽新聞発行)をチラチラ読む。奥付けに1992年11月発行とある。小貝川のコンセプトは「多自然型川づくり」とある。コークリートで固めた川づくりではない自然を活かした川づくり。昨日、福岡堰の桜並木を歩いていて痛感した。「これでいいのだ!」。これなら写真にもなりそうだ。
 
   3月11日(木)

畑仕事をする。キャベツの虫よけにかけてあったネットをはずして雑草を取る。よくみるとキャベツより雑草の方が色つやもよく元気そう。さて、このキャベツの顔がどんどん大きなって食べれるのはいつのことかー。

毎日、変化に乏しい生活をしているので書くネタもない。普通の老人は時間を持て余したりしないのだろうか。机に向かって物を考えるタイプではない。やはり体を動かしているのが楽しく精神的にも落ち着く。そこでカメラをクルマに積んでどこかへ行こうと家を出かける。「探し物は何ですか?」となるわけであてもなくなくクルマを走らせたら福岡堰に来ていた。

桜の名所として知られ花見時は大勢の人でにぎわう。桜はまだつぼみのまま。そういうわけで数人の暇な年寄り夫婦が散歩をしているくらい。まぁ、こういうことで時間を潰すのも一つの手かと安心して帰ることにする。

途中、お寺により久しぶりに石仏を撮影。
墓地の中ぶらぶら歩く。墓地を歩き回るとなんとなく精神的iに落ち着く。今日から 時々、オマル・ハイヤームの四行詩を載せることにする。とてもいい詩だ。

 チューリップのおもて、糸杉のあで姿よ、
わが面影のいかばかり麗しかろうと、
なんのためにこうしてわれを久遠の絵師は
土のうてになんか飾ったのだろう

「ルバイヤート(四行詩)」オマル・ハイヤーム 
小川亮作訳(岩波文庫) 
   3月10日(水)

今朝はシュリと気持ちのいい散歩。こういうのを散歩日和というのだろうか。シュリはクンクンとあちこと嗅ぎまわりオシッコ。オシッコならまだいいがウンチしているのをジーッと見ているのはどうも気分を害する。見なければいいのだが、自分のウンチスタイルを自分では見られないからつい参考にと見てしまう。

「楽老の計」河上和雄(講談社)の中で勲章について所見を述べている。人それぞれ「勲章をほしがるようになるというのは、そろそろあの世に旅立つ兆し」。ごもっともと思うが、おいらの場合は100%もらえないという確信がある。国から勲章をもらうことは「あなたの人生は一丁あがりです。ご苦労さまです」と、宣告されたようなものではないかー。

そういえば、勲章の色はシュリのウンチの色と似ているような気がした。
 
   3月9日(火)

65歳以上を「オールドマン」と分類し、65歳以上74歳までを「ヤング・オールド」、75歳以上を「オールド・オールド」というそうだ。まるで、サントリーのオールドウイスキーのオンパレード。そこで身辺をさぐると「オールド・オールド」が結構多いことに気づく。なにしろ、おいらの母ちゃんは「オールド・オールド」に属する。

サラリーマンが仕事帰りに酒場で上司の悪口を酒のツマミに飲むのは「欠席裁判」だとは「楽老の計」河上和雄(講談社)。著者はロッキード事件の検事を務め、作家の三好徹は実兄。三好徹の本は昔たくさん読んだ。だが、わが家には今は一冊もない。どこへ家出したのだろう。

いばぶん事務所へ。母屋の改築工事の真っ最中。新オーナーに案内してもらう。5月になれば新しい店子が入りそう。いろいろと青写真を描いているようだ。若いからスピード感があり新鮮だ。さて、おいらはやはり化石ニンゲンの岸辺にたつよれよれオジンかー。ああ、淋しくあり悲しいものだ。
 
   3月8日(月)

夕方、散歩の途中で気にしている家の庭がある。いつもは人の姿は見えなかったが今日は庭の手入れをしているオジサンがいる。そこで声をかけた。「いつも散歩途中で見ています」「どうぞ、中を見て下さい」。おいらも自慢気にコロコロ花壇をスマホで見せる。なんだかとかんだと話していたら帰り際お土産に「クリスマスローズ」を二鉢を頂く。そこで祈る、どうかわが家では「クルシミマスローズ」にならぬように育っておくれ。

スズメはもみ殻を食べるのだろうか?。コロコロ花壇にもみ殻を敷きつめたらスズメがわんさかやってきてついばんでいる。「わんさかわんかレナウン娘はー」は消えたというのに。その数20羽ほど。さて、いつ捕まえてスズメ焼きにして食べるかだ!

「本の内容をすべて理解する必要はなく、面白そうなところだけつまみ食いすればよい」。立花隆の「サピエンスの未来」の解説でそのように書いてあった。そこで、ページの章立てを見ながらつまみ読みしていたら何となく落ちつかない。結局、最初から読み直すことにする。いろんな読みかたは個人、個人にあっていいと思う。
 
   3月7日(日)

滝の園の愛犬シュリと朝を散歩。外に出ると名残り寒さ。シュリは喜びいさんでグイグイ引っ張る。準備体操ももままならないおいらは小走りにもつれながらついて行く。バーカ、シュリ!と叫ぶ。馬耳東風ならぬ犬耳東風。そして、餌をやり、タイムコーダを押して仕事は終わるのです。

さて、自宅に帰り何をするのかといえば昨日ヤギ一家から頂いたもみ殻をころころ花壇に撒く仕事。もみ殻は軽いからとても扱いやすい。もしかしたら体力の衰えた老人へクリスマスプレゼントかも知れない。芝生が緑色だったらもっと映えることを知る。大収穫だ。

「進化する人間ー」それは、この先どうなるか分からないと立花隆は述べている。ニンゲンの肉体的な進化は猿から始まり現在に至る。肉体の進化は現在そこで成就(じょうじゅ)したとするが、頭脳は進化途中という。だからその先わからない。そこに人工頭脳がどういう介在をするかー。なにしろ時間的尺度が十万年単位の話。これをどう理解するかー。頭てんてこてんてこと舞い。考えることをやめて野球中継を見る。
 
   3月6日(土)

ヤギ一家の主人から電話が入る。昨日のブログでもみ殻を欲しいと書いたら「いつでもいいよ。袋を持ってくるように」。これは気が変わらないうちにと出かける。主人は農機具の手入れをしている。米作りを本業として阿見町の町会議員も務め超多忙。「これしかないけど」と指さされたのはこんもり山のもみ殻。とんでもない多すぎるほどあるケタが違う。ヤギちゃんに面会。元気そう。でも一匹しか見えなかった。やもめ暮らしだとしたらかわいそう。

今日は当直日。もみ殻の使い道は明日にする。狙いは心花壇にもみ殻を敷きつめ「黄金こころ花壇」。黄金までいかなかったら春の息吹をたっぷり吸った「桃色吐息花壇」。考えただけでワクワクする。

「サピエンスの未来」立花隆(講談社現代新書)を読み始める。第九章でニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」について述べている。昔、読んだ、そしてそのタイトルでつくられた交響曲もあった。読んで聴いていたはずなのにみんな忘れている。まったく忘却とはすごいものだ。
 
   3月5日(金)

どんでん返し。ムラヤマさんの校了原稿を山三印刷に連絡してひと息ついていたらムラヤマさんより電話。ギクリ、ビックリ、オソルオソル電話に出る。やはり原稿直しの再依頼。不可逆的にOKをとったつもりだったがと、思うー。バタバタと連絡をとり無事終了。

山王姫に根本健一さんの件で電話。どうやら人並みに花粉症に罹ったらしい。三種の神器こと「鼻炎薬・目薬・錠剤」を服用するように薦める。この病気はある年、突然に忍者ごとくあらわれる。山王姫宅の庭は自然豊富。犯人は今か今かと待ち構えていたがいつも山王姫一刀流でバッサリ退散されていた。どうやら、今年は違うようだ。

ころころ菜園の手入れ。そこでフト思い出す。阿見町のヤギ一家にはもみ殻がたくさんあった。あれを頂戴したい。敷きわらのようにもみ殻を鋤き込めば野菜ちゃんニッコリするのではー。連絡してみよう。忘れなければだ、これが恐いのだ。
 
   3月4日(木)

「詩人会議4月号」が届く。非常事態宣言下の東京・大塚にある事務所は郵便物を取りに行くぐらいで後はテレワークで編集作業を進めているという。コロナ禍の影響でしばらくは休刊するのではないかと思っていたが休みなく月1回発行している。すごいエネルギーでスタッフには頭が下がる。よく考えてみると通信技術の発達でこのようなようなことが成り立つ社会になったということだ。

つくば梅林の行く。駐車場から梅林に行くまでの坂道と石段の多さにまいる。年寄りにはきつい。帰り、かあちゃんの同級生が営業している土産屋「はつね」に立ち寄る。おかみさんが中学・高校時代の友だち。主人に新しくなった大御堂を案内してもらう。

すごいお金をかけて造ったという感じ。昔のこじんまりとした寺院が懐かしい。しかし境内から一望できる景色は素晴らしい。富士山もスカイツリーも見えるという。108段ある石段もすごく上りやすくできている。これなら年寄りで大丈夫のようだ。
 
   3月3日(水)

今日はひな祭り。ラジオから「灯りを点けましょうぼんぼりにー」が流れてくる。誰が歌っているのかと思ったら松島トモ子。かわいい声で歌っている。しかし、彼女もすっかり婆さんになっただろう。今では「線香を上げましょう仏壇にー」とでも手を合せ歌っているのだろうかー。

「詩人といえば古来甲斐性なしの曲型と思われ勝ちだが、その遂げられなかった無念がこの人にあらわれてきたのかもしれない」石牟礼道子×伊藤比呂美の対談「死を思う」(平凡社新書)。石牟礼道子のまえがき。

ところが、伊藤比呂美は生半可な介護のではない。国際結婚で住まいがカリフォルニアにあり両親は熊本に住んでいる。アメリカ、東京、熊本と娘を連れてゆき来して両親の介護もしている。まったくすごいものだ。やはり、女は強い。
 
   3月2日(火)

パソコンに向かいキーボードを打っていると鼻水がトロトロと垂れてくる。透明な液体はそのまま重力の法則に従い口もとへ流れる。面倒だからとペロリとなめる。「異国とはもうひつの国のことだ。そして異国への旅は、わたしにとって、異国を横切ってみえてくる、もうひとつの国としての自分の国への旅だった」長田弘「見よ、旅人よ」。

そこで考える、自らの体内から排出される異物は、もうひとつの自らの生の息づかいではないかーと。長年にわたり春のスギ花粉症に悩まされようやく哲学的な解答を得ることができた。これは、今年の大きな知的収穫といってもいい。「バーカみたい!」金魚ちゃんの声。

「人はこの気候のもとで、疲労の美しさを知る」津村信夫の詩の一行。この季節にクシャンクシャンの連発。遠慮しながらのくしゃみと眼の痒みにいらつき疲労が倍加していく。まるで貧乏が倍加してゆくような疲労感。人はいずれ空っぽになり抜け殻になるための準備かも知れない。再び金魚ちゃんの声「バーカみたい!」。
 
  3月1日(月)

サンフランシスコで知り合った中国人の女性と別れる時「楽しかった。わたしは一どゆっくり会いたいとずっと思っていたの、戦争の時わたしの父を殺した日本人に。ありがとう」長田弘「見よ、旅人よ」。外国を旅行していればそんな思いがけないというより衝撃的な出会いもあるのかと驚かされる。

今日から3月弥生。今年も早いもので2ヵカ月過ぎた、といより生きた。たいしたもんだと思う。かあちゃんも金魚ちゃんも生きている。庭の小鳥の餌台にはスズメたちもやってきて元気に餌をついばんでいる。それだけはないころころ花壇にはチューリップがあちらこちらからニョキニョキ芽を出している。

ジャガイモのメークウィンを作付けする。ペンキ塗りする。今日は弥生の初出勤。夕方ぼんやりとFMを聴いていたら舌ったらずの女の子が早口で喋っている。耳障りなのでCDにする。世の中が超スピード時代になり喋り言葉も早くなったような気がする。
 

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