怠惰な散歩  2021年

   8月31日(火)

今日も朝を迎えたのです。東の空は薄い雲がかかりその間からオレンジ色の甘くも甘酸っぱくないような太陽の光が差し込んでいます。まあ、おはようさんお日さまですな。体力増強と運動を兼ねて秋ジャガを植える。それなりの土づくりはやったつもりだが、どうなることやら。

「たまたま地上にー」の写真整理。まったくの自分流、自分勝手の冊子。なかなか文章ができあがらない。暑さのせいではない。くたびれた脳みその働きが加齢にともない鈍くなった。もともとそれだけの力がないということもある。

「ロゴスは自らの言葉の力で、コントロールしきれないものを常に恐れている」生命海流(福岡伸一)。本日で8月も終わり。田んぼの稲刈りが始まった。この時期の雨は農家の人には嫌われているだろうが夕方どしゃぶりの雨。雨の中、仕事に向かう。みなさまお元気に9月を迎えよう。
 
   8月30日(月)

土手をはしり
花壇の花々をくすぐり
みどりのカーテンの
ゴーヤの葉っぱを抜け
大きく開いた窓から
音もたてずに
吹いてくる秋風は
今年もやってきた
風さんありがとう
お礼はできないけど
ありがとうと認め
爽やかな秋風にのせ
紙飛行機で伝えたいよ
 
   8月29日(日)

朝起きると涼しい。昨晩計画した畑を耕すにはもってこいだ。老人よ鍬を高く振りかざせと踏んばり畳3枚ほどの土のでんぐり返しをやる。でんぐり返しは森光子が「放浪記」で得意にしていた。高齢になってからもやっていたような気がする。おいらも頑張るのだ。

清織姫より宅急便届く。野沢菜と信州蕎麦だけだと思っていたが。内容が盛沢山。こういうのを幸せの宅急便というのだろうかー。とにかく食べ物と飲み物はわが家の食生活豊かにしてくれる。返礼に梨を送る。今年はいろんな人から梨をもらい持て余し気味。これはちょうどいい。このことは清織姫は知らない。ああ、かわいそう。梨よ無事に届け!!

土のでんぐり返し明日も起き次第やる予定。そのための準備として野沢菜と柿の種をつまみにチビリチビリやり栄光のジャイアンツを応援する。巨人もジャイアンツも勝つ。万歳だ!!。「バーカ、同じじゃないか!」ああ、知らんよ。
 
   8月28日(土)

暑さはすべてを奪う。愛も恋も奪う。最悪なのはシナビオタオチンチンはこれ以上は低頭できないほど地球軸に方向を定め微動だもしない。そのせいかオシッコは菜種雨。どうしたものか。、オチンチン頑張れとエールを送る。

「毎年繰り返される自然災害の脅威も、被災しなかった者もやがて忘れてしまい、社会も負の記憶を保ち続けるより、日々新たな記憶を上書きして更新していくのが常である」高村薫は「作家は時代の神経である」にそう書いている。

日々、生の上書き。確かにそうだ。上書きしかないのなら、おいらのオチンチンの上書きとは何ぞやと考える。退化の上書き、減退の上書き。ああ、この世は滅亡に向かい歴史を上書きしているのかー。金魚ちゃんに訊く。「ああ、バーカも退化して少しは利口になればねぇー」適切がお言葉をありがとうございます。
 
   8月27日(金)

猛烈に霞ヶ浦の朝陽を見たくなった。そこでクルマを走らせ霞ヶ浦へ。期待したような朝焼けではなかったがともかく日の出を拝む。長野のメル友に送る。「朝だ、起きろ」のメッセージ付。5時19分。まだ寝ているだろうと思ったが起きているらしい。すぐ返事が来る。大論文の推敲をやっているらしい。エライものだ。

写真+詩らしきものの作成を本格化させる。もう半年も放っておいた。どこまで進んでいたのかも忘れている。部屋は滅茶苦茶暑い。そうだイオンに逃げよう。そこでまたクルマを走らせてイオンお気に入りの場所へ。ともかく涼しい。これで頭がフル回転すればいいのだがー。涼しいということは気持ちがよくて眠気を誘うということ。これはこまったことだ。

それはともかくとして館内は禁煙。喫煙所はあるのだがコロナ禍ということで閉鎖されている。狭い部屋だから密になりやすい。タバコの煙で感染するかもしれない。そんことはないだろうが、ともかく入室できない。そこで外へ出てプカプカすることになる。外の暑さを想像しただけで二の足を踏んでしまう。そういうことで数時間は禁煙タイム。「バーカ、タバコをやめればいいのだ!金魚ちゃんの声あり。
 
   8月26日(木)

とにかく暑い一日だった。ミンミンセミだけが元気で朝早くから耳障りなほど鳴きまくっている。おまえを捕まえてから揚げにして食べてやるぞ!。ところがその元気がないのだ。ああ、ミンミンゼミにもバカにされているのか。それでもバカはバカなり生きなければならないのだ。

暑いので逃げ場を求めて土浦イオンへ。茨城県はコロナの緊急事態が発令されているせいか人出は少なく閑散としている。おいらにとって人が少ない方がいい。ロビーではこの道のプロらしき老人が足を組んで本を読んでいる。世の中には職人芸というものがあるが21世紀時代に新たな項目が追加されるかもしれない。それぐらい威風堂々としていた。

何度も推敲して詩2編を投稿する。この推敲といのにはエンドがない。そこで最後はエイヤーの気合を入れて郵送なりメールで送る。ほっとする。今月の予定ではあと1編残っているが元気がない。自己弁護の逃げ道を探す。
 
   8月24日(火)

星空を見上げながら
ピュシスの実相を感じた。
生きものはすべて
時期がくれば生まれ
季節がめぐれば変わり
そのときが至れば去る。
去ることによって
次のものに場所を譲る。
なぜなら私もまた確かに
譲られた場所にいたのだから。
生と死。それは利他的なもの。
有限性。それは相補的なもの。
これが本来の生命のありかた。
ガラパゴスのすべてのいのちは
この原則にしたがって
今を生きている。
今だけを生きている。

「生命海流」福岡伸一(朝日出版社)帯より
■ピュシス
《自然の意》人間の主観を離れて独立に存在し、変化する現象の根底をなす永遠に真なるもの。古代ギリシャの哲学者たちが神話的世界観から脱却したとき、最初の主題になった。
 
   8月23日(月)

老人よ鍬を持て。高く振りかざし鋭く大地に鍬を刺し土塊を掘れ、ということで畑に鍬を入れる。ところが、錆びついた鍬は土から引き上げる時に大量の土を抱きしめて離さないのだ。倍加の力を要求される。

「作家は時代の神経である」高村薫(毎日新聞出版)を読む。半径2キロ以内の生活圏から見た2020年3月8日~2021年5月31日の世の中の動き。タイトルは開高健の「過去と未来の国々」岩波新書(1961年)からだそうだ。有名すぎるほど知られているというがおいらは知らなかった。

本を読みながら考える。「武漢日記」は毎日更新されていた。これは週に一回(サンデー毎日)に連載されていたものをまとめたもの。記載されているのはおいらも現実に時々刻々と経験したこと。さらに現在も進行中。何か不可解なもを感じる。なぜだろう、分からない。時間的空間の虚しさ。不可解な同時間の共有。
 
   8月22日(日)

涼しいうちにと朝早くころころ菜園の草取り。暑くて手入れを怠っていたから雑草はわがもの顔で伸び放題。敵は雑草だけではない。やぶ蚊もいるのだ。そこで体中に蚊よけスプレーをして長靴をはき蚊取り線香を用意していざ出陣。1時間ほど頑張る。すっきりする。

根本ぶどう園は本日で店仕舞い。今年は生育が早くもう実が腐りだしてきた。これではもうお客さんに提供できるものではないということで終了。ここ数カ月ぶどう園で暑くて辛い時もあったが楽しませてもらった。学んでことはハクビシンに食われないようにすること。敵はアライグマという話もあるがどちらでもいいからぶどう園に入り込んでもらってはこまるのだ。キタザワさんと協力して地上最大の作戦を練ることにする。

「ラストエンペラー 習近平」エドワード・ルトワック奥山真司(訳)を読了。近くて遠い国の中国が何かと気になる。「自滅する中国」「100年マラソンの長期戦略」とも言われる大国の中国はどこへ向かおうとしているのだろう。
 
   8月19日(木)

暑い一日だった。熱波が体中に襲ってくる感じ。暑さというのはエネルギーをどんどん奪っていく。本を読む元気もない。でんと積まれた本の背表紙だけを見ながらただぼーっとしている。手にしてページをめくる元気もない。なんていうことだ!とほざくがそれで終わり。

これはいかんと草むしりを始める。もちろん日陰を選んでだ。土づくりの一歩は雑草退治。こいつらは炎天下でも成長を休むことはしない。タフなのだ。おいらも雑草のように逞しくと思うが体がいうことをきいてくれない。それでも汗をかきながらガンバル。ひと汗かいてやめにする。なんでもほどほどがいいのだ。

ところが夕方になると酒を飲む元気が出てくるから不思議。酒を飲むということは大変なエネルギーを要すると思うが杯が進むほどに元気になる。これはどういうことだろう。どこかが狂っているのだ。なんていったって世の中はコロナで狂っているのだからやむえないことかー。早く秋がやってきて欲しい。
 
   8月18日(水)

風の強い一日だった。今日は奮発してかあちゃんから3000円の大金をもらって散髪に行く。チョキチョキ代1300円也。さっぱりすっきりする。部屋から見上げる青空のようにとても爽やかだ、ということは頭の中身は空っぽかー。そうだとするならとても悲しいことだ。

隊長兼団長兼大黒柱の清織ちゃんよりメールあり。読み終わったあとの余韻が少しでも響くような大論文に取り組んでいるとのこと。要するに本震のあとの余震がいつまで続くようなもの。これは恐ろしいこと。よそ様を不幸に貶めることは罪なこと。いろいろ難しい。

久しぶりに精魂こめて草むしりをする。これからは勉強して土づくりに励もうと思っている。種本は揃っている。問題は実行力。これが箱根の山より難所だ。なぜなら体力が追いつかないのだ。加齢、年寄り、ジジィという文字でわが家の国語辞書はうめつくされている。ああ、無念なり。
 
   8月17日(火)

久しぶりに純文学を読む。第165回芥川賞受賞作品「貝に続く場所にて」石沢麻衣。。今回の受賞者は女性二人。「彼岸花が咲く島」李琴峰(り・ことみ)(2013年台湾大学を卒業後に来日)。前者は41歳、後者は32歳。もっと若い二十代の女性かと思っていた。

「貝に続く場所にて」の文中に「時間の遠近法」という表現が出てくる。これは詩になるとヒントを得る。ここしばらく「時間」についての詩をまとめることはできないものかと思案していただけにうれしいプレゼント。

「いのちの文化史」立川昭二、「小川洋子の陶酔短編箱」小川洋子編、「癒す心 治る力」アンドール・ワイル 上野圭一訳を土浦古書倶楽部で買う。本を読んでは次々と忘れる。忘れたことを補うように買っては読みまた忘れる。これでいいのだと自分を納得させる。
 
   8月15日(日)

朝からいやな雨が降っている。「生物はなぜ死ぬか」小林武彦(講談社新書)「死は生命を維持する原動力」「死ぬこと自体はいうプログラムされていません」「偶然的に生まれ必然的に組み込まれているのが死ぬこと」。なるほど、そういうことで人は次々と平等に死んでいくわけだ。

ぼんやりしながら本を読んでいると長野のメル友より画像付きのメールが入る。写真はお行儀の悪いウンチらしきもの。本文には手作り味噌の天地返しを終えたという。天地返しとはカビなどの繁殖を退治するために空気に触れさせるのだそうだ。まぁ、味噌の日向ぼっこかー。

傘をさしてころころ花壇ところころ菜園を見回り、といっても数分で一巡できる。連日の降雨で雑草が息を吹き返したようにニョキニョキ。緑濃くここ数日で息を吹き返したようだ。雨が止んだら引っこ抜いてやろうと思うが雨は終日降っている。明日は少しは止んで欲しいと思う。勝手なものだ。
 
   8月13日(金)

朝から雨が降る。昨晩開いた夕顔の白い花は雨に打たれうなだれている。ヒマワリもクビ折れ状態で雨の朝を迎えている。庭に咲く花はみんなうつ向き何となく明るいはずの花壇は暗い。こういう日は気分が落ち込んでいくのだが、今朝はそうでもない。

それならばとひと踏ん張りして詩をまとめて応募しようと戦闘開始。ここからはそろばん教室だ。「ごはさんで願いましてはああでもない、こうでもない」と言葉を切ったり貼ったりの世界。山之口獏は一編の詩をまとめるのに70枚も原稿用紙を要したという。おいらはそうはいかない。省エネ時代にふさわしく短い。それでも10回はプリントを重ねる。

雨の中、シルバーゾーン通りに立地する特老施設「飛羽の園」を抜け小松霊園の墓地の中を横切りトボトボと赤いポストを目指す。ポストは腹を空かしたように大きな口を開けている。ポットン。さあ、今月の目標は後3編。トボトボと逆コースの道順で帰る。次に待つのは宿直の仕事場。特老「滝の園」。ああ、明るい未来が見えない。悲しい。
 
   8月12日(木)

涼しい朝だった。体調もいいので昨日の写真整理をしてレターパックで送る。わが家から郵便ポストまでどどれぐらいの歩数があるのか見てみる。往復で約3800歩。歩行計の目標は7000歩となっているから二往復すればいいのかー。坂道が多いからおまけがくるかもしれない。

「根本健一の世界展」の手伝いをする。ギャラリーは細々とした作業するには薄暗い。老眼鏡をかけまなこをいっぱいに開いて遅々と。指揮官はおいらと同年齢という。そうか、と思い出す。おいらが「写真雑感」懸賞論文に入賞した時の審査員の一人は筑波大学写真学科の大辻清司教授だった。

おいらは飯場生活者でミカン箱を机がわりにして原稿を書いている時、彼は大辻教授の教官助手という身分だったのかー。その格差は40年経った今も変わらないということだ。それも、あれも人生。ともかく実行委員会のメンバーとなっているのだから不思議な縁だ。
 
   8月11日(水)

NHKFM「古楽の楽しみ」を聴きながら筑波山を眺め紫煙をくゆらせる。曲はバッハのマタイ受難曲。「愛によってわが主は死のうとされている」。ペーター・シュライアー指揮。こういう宿直明けの朝もあるものだ。筑波山の頂にかかる雲は秋の気配を感じさせる。目の前に広がる田んぼの稲穂は首をたれている。

今日は清織姫の宿題をやる日。ひたすら潮来市を目指す。村山さんと一緒に予定の取材をこなす。とにかく暑い。村山さんは不自由な足をひきづり奮闘。ああ、二人で倒れれば本望かー。ともかく宿題をこなす。

青空が欲しくない青空。見つめたくない太陽。それがどうーんと立ちはだかっている。せっかく来たのだから宿題のあれもこれもこなそうと考えるが諦める。お互いに体を大切にとバイバイする。村山さんはおいらより10歳も年上なのに意気軒高。これは怪物に違いない。そう思うと安心。、家に帰ると一杯やりそそくさと寝る。
 
   8月10日(火)

体調よく頭すっきりの朝早く一編の詩が浮かぶ。それこそ滑らかにすんなりと言葉が走る。こういうことはなかなか起きない。そこで、ノートPCとともに家を出る。気分がのっているあいだに何とか形だけまとめておこう。ああ、かわいそうな徘徊老人。

いばぶん事務所で雑用をかたずけていると長野に住む潮来鳳凰台城調査隊長から「命令です」の電話。口調は厳しい。隊長アシストの役目を担っているから絶対服従。あれやこれやの調査メニューを提示され「ハイハイ」。ああ、わが人生はハイハイ幼児で終わるのかー。

「どこからか言葉が」谷川俊太郎を読む。言葉の切り口が新鮮だ。彼の詩集を読んで育ちの良さをいつも感じる。これは天性というよりこの詩人の詩を生みだすという家庭環境が小さいころからあったのではー。それが特異な親しみやすい言葉で詩を紡ぐ。例えば、三島由紀夫は黒松を劇場の緞帳で知ったというようにー。素人評者としてー。
 
   8月9日(月)

「閉塞状況によって圧伏されているエネルギーが、新しい価値の追求に向かって爆発する、という事態は、歴史の中で決して少なくない」「コロナ後の世界を生きる」で村上陽一郎は述べている。よれよれおじんには残念ながらこの闘志も元気もない。無念なり。

また事後評価に対する「寛容」についても。これは重要なことだ。ああすべきあったことをしなかった」という肢の間に起こるジレンマである。「為政者は上のディレンマに基づくいわれもない非難をも受け入れる「寛容」さが必要である。評価する側にも、人間は常に「ベスト」の選択肢を選ぶことのできる存在ではないことへの理解が必要とされるだろう。ーああ、ごもっともです。

今月が詩を4編応募することを目標にしている。ところが最初からつまづく。自分で読み直して恥ずかしくなる。気負いと乾いた言葉だけがならんでいる。ここで決断と実行 きれいさっぱり捨て最初から書き直すことを決める。胸につかえていたものがとれスッキリする。
 
   8月8日(日)

「守備範囲」。長年、原因不明の病気に悩まされ医者のサーフィンを続けてきた。それでもあきらめず先生を探す。ある時、精神科の先生が「これは私の守備範囲です」と明瞭に診断してくれた。それから徐々に回復に向かうー。なんとも気が遠くなるような病気との闘い。柳澤沢桂子の著作は数冊読んだがこれが一番きつかった。

台風の影響で朝から雨。「根本ぶどう園」に行くがお客さんが来ないので開店休業。ぼんやり掃除をしてぼんやりブドウを摘んでパック詰めをする。ハクビシンの食べ残しのブドウの皮が散らばっている。おいらはハクビシンのトイレ係かと思ってしまう。まだお顔も見たことないハクビシン退治は来年の課題だ。なんとやっつけてやるぞ。闘志が湧く。

オリンピック狂騒曲も本日でお終い。なんだかんだと大騒ぎしながら開催して閉幕となるのだからたいしたものだ。日本列島はコロナの感染者がうなぎ上り。それでもやってしまおうというのだから完璧にコロナとの共生を目指しているのだろう。みんなで仲よくなれば恐いものなんかないよ!!
 
   8月7日(土)

今日は充実した一日を過ごした。まず、シュリと仲よく朝の散歩。シュリは我がまま勝手だ。朝の5時頃からキャンキャンと鳴いている。今日は体調がいいのだろう、というのは具合が悪い時は7時過ぎても犬舎で眠っている。「さあ、起きろ」と引っ張り出してやらないと出てこないこともある。

さて、ひと仕事を終えて一旦自宅に戻り、それから根本ぶどう園へ。土、日の昼間の二時間ほど手伝うことになっている。フォンテーヌの森のキャンプ場にやってきたお客さんを「ぶどう狩り」に誘い出して楽しんでもらい金を稼ごうというものだ。そうはいっても勝手が分からないからぶどう園の掃き掃除。竹ぼうきでサッササッサと掃く。この響きが心地よい。さらに爽やかな汗をかく。これは健康にはいいのだ。

昼過ぎに再び自宅へ。昼飯を食べて昼寝。台風のせいかどしゃ降りでころころ花壇の水まきをやってくれる。ひと雨欲しいと思っていただけにうれしい天の恵み。「ふたたびの生」柳澤桂子を読む。サイエンスライターとして知られる彼女の壮絶な病気との闘い。ビンボーでも健康な体であることにおいらは感謝する。
 
   8月6日(金)

暑さから逃れようと土浦図書館に行く。ところが茨城県内にまん延防止措置が発令されたことで一時間以内の利用をという張り紙に館内アナウンス。大方の椅子は取り払われている。本を借りたらさっさと帰れ、読むんだったら斜めと読みで済ませさっさと帰れというもの。ああ、恐ろしや怖ろしや。

とにかく今日も暑かった。これこそ本物の暑さだ。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などというがとてもじゃない。熱中症警戒アラートも発令されてこまめな水分補給と適切なエアコンの使用をと防犯スピーカーから流れてくる。そのアナウンスを聞いただけでも暑さが増す。

ここは我慢、ガマン、がまんだ。なんとか山折哲雄の「生老病死」を読了。我妻先生から誘われて上智大学で開かれシンポジウムに行ったことがある。パネラーに我妻先生とともに山折哲雄も出ていた。あれは何年前なのだろう。月日が経つのは早い。
 
   8月5日(木)

 あほ、まぬけ、ぼけ、おたんこなす、のんびりしていたら茨城県にまん延防止・緊急事態宣言が発令され潮来市公民館は入館禁止、織清姫のアシストの役目は果たせなくなった。ああ、バーカは永遠なりという金魚ちゃんの声が聞こえそう、

暑くて動くのが億劫。何もしたくない。何もできない。頭の中をぼーっがサーフィンしている。あと何日辛抱すればいいのだろう。

本を読んでも文字がサーフィンしている。餌台にスズメも暑くてやって来ない。ヒマワリもぐったりして大輪を首折れて咲いている。ああ、静かにぐったりしていよう。

◇詩人会議9月号 「八月の沖縄の青い空」
 
   8月3日(火)

朝陽が昇る前の霞ヶ浦を見に行く。外はまだ薄暗いが東の空は明るくなってきている。急いで支度をして出かける。朝陽が昇る前の数分間の空模様を見たいのだ。朝陽と夕陽の写真を比較してもどちらがどちらだから分からない。しかし、朝陽の方にはあたりが段々と明るくなっていくだけに希望がある。夕陽はどんどん暗くなるだけだから、さあ、皆さん本日はお終いですよと言われているようで淋しい。お天気にも恵まれ作戦は成功。とても美しかった。

「世界現代史は一度だって看護師などのケアの従事者に借りを返したことはないのである」。「コロナ後の世界を生きるー私たちの提言ー」で藤原辰史(京大人文科学研究所准教授)は述べている。まったくそうだ。低賃金で体を張ってウイルスと戦っている看護師のことを忘れてならないのだ。

とにかく今日も暑かった。よれよれおじんは体を張り戦ったりしたらパタリオジンになってしまうと、今晩の宿直に備えて静かに静かに過ごすのでした。バイバイ。
 
  8月2日(月)

空はどもまでも青く、雲はどこまでも白くー。ああ、このあとの言葉が浮かばない。それほど今日の空は生き生きとしていた。空が空であることの歓び、雲が雲であることの歓びに酔いしれているようだった。

さて、よれよれおじんはどうか?。それはそれはつつがなく静かに一日を過ごし終わるのでした。朝の涼しいうちにと庭のお手入れ。「ぼーっおじんに仕事を与えよ!」という神からのお伝えがあったのか雑草はすくすく育つ。反抗期も思春期もないのだろうかー。そうだとしたらかわいそう。

「根本健一さん‥」一周忌に「根本健一の世界」展 19日からつくば文化郷 (newstsukuba.jp)の実行員会の帰りBOOKOFFに行く。「コロナ後の世界を生きるー私たちの提言ー」村上陽一郎編(岩波新書)を買う。コロナ終息後は何年生きられるのかはわからないが興味もある。きっと、みんな安心して暇と退屈をもてあましてぼーっとしているのではと想像するがー。ともかく読んでみよう。 
 
  8月1日(日)

朝、霞ヶ浦を見に行く。5時ではもう太陽が昇り昼寝時間に向かっている。そういうことで日の出は見られなかった。凪いだ湖面には魚を釣っている人がいる。こんな広い水溜まりから一匹の魚を釣り上げようというのだから度胸がいいのかとても暇で退屈しているかだー。

清織姫のアシストとしての命令がくる。宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出す。メニューをこなすには体力が要求される。それにしても今はあまにも暑すぎる。体力の具合と相談しながらと返事。

吉田ルイ子という写真家と久しぶりに出会う。もっとも古本の中でだがー。彼女は「ハーレムの子供たち」という写真集を昔、むかし著した。おいらの本棚にある。ベトナム戦争があった1970年代のことだからはるか昔のような気がしてならない。これが世の常なのだろう。それにしても暑い。 テスト

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