セピア色の青い空  怠惰な散歩 TOP
●2017年セピア色の青い空 語り:すみこ  
写真:ふみのり 









 

トラウマになるということ


 「トラウマ」を広辞苑でひいてみると【traumaギリシア(傷・けがの意)精神的外傷】とある。まさにあの時はそういう精神状態に陥った。パソコンのカーソルが自分で意図したようには動いてくれないのだ。勝手に画面の中を飛び回っている。こうなると頭が真っ白になり間違った操作をしたのではないか、壊れたのではないかと悪い方へ悪い方へと考えが進む。そして、一番恐れたのはこれまでのデータが全部失われてしまうのではないか―。わたしはこれまでたいていのことは自分で修繕しそれなりに処理できた。これは真空管時代だからできたものでパソコンのような電子機器となると皆目見当がつかない。
 パソコンをやるようになったのは三菱地所に勤めていた弟が仕事でパソコンを使用するのを見てから。弟ができるのに姉のわたしができないわけがないとメラメラと闘志がわき負けん気が発揮されたのだ。それだけではなくこれからは手書きの時代ではないという読みもあった。弟は会社で毎日のように使っているのだから出来てあたりまえ。わたしは年賀状などにしか使わないから覚えるのは遅く仕組みなどわかるはずもない。誰に教わることもなく手さぐりの自己流でこなしてきた。ところが、国際ソロプチミスト水戸会員のわたしに会の事務処理をまかされ書類作りのため日常的に使う状況になった。「カーソル飛び飛び事件」はその最中だったから頭の中は真っ白。
                 ■
 頭の中が真っ白になりまだ引きずっているのは2011年3月11に発生した東日本大震災。わたしは水戸のかしの木で障害者の子どもたちに茶道を教え帰る時に大きな揺れがあった。咄嗟に自宅はどうなっているのだろうか―。急いで帰らなければと石岡に向けて車を走らせたが国道6号線は渋滞。外はだんだん暗くなりそのうち停電になったのかあたりは真っ暗。不安と焦燥が入り混じるなかハンドルを握っていた。普段なら1時間で帰れるのが7時間半かかり自宅に着いた。真っ暗な部屋を懐中電灯で見渡すとあらゆるものが倒れたり棚から物が落下している。「あらら―――」という言葉しかでない。
 あの時も頭の中が真っ白になった。庭の灯篭は全部倒れている。母屋の屋根瓦も崩れている。玄関は梁が大きくずれて開かない。わたしは父がこよなく愛した日本美に囲まれ育ち亡くなった後もその精神を大切に今日まで自分なりに守り通してきた。それがすべて氷解した。わたしが大切にしてきた美意識が無残に打ちのめされたのだ。美しいものを見ながら消えたいという願いがかなわなくなった。みんなは後で「命あるだけでもよかった」と話していたが、わたしは「いっそ、あの時一緒に死んでしまいたいぐらいだった」。それはわたしが60数年抱き続けてきた美意識をいとも簡単に壊した地震への怒りだった。こよなく自然を愛しているわたしへの裏切りは許せない。それを期にわたしが大切にしていた物の価値観もがらりと変わったのも事実だ。
 あの時のトラウマも時間とともに薄れ、今では「破壊と創造」はいつの時代にもついてまわる。静かに受け入れせめても自分から自然を裏切らないようにしようと思っている。

2018年12月10日 №10
  
 
  
 


  心のキャッチボール

 社会福祉法人やまびこの里福祉会は、障害者が地域で暮らし自立と共生の社会を実現することを目的に「生きがい」をスローガンに2006年に設立された。わたしが子どもたちと呼んでいる身障者(身体・知的・精神的障碍者B型)に茶道を教えるようになって10年になるから、同会が設立されてからまもなくだった。施設は「かしの木」という冠に「城里」「勝田」「水戸」「笠間」「平磯」と県内各地で運営している。
 お茶を教えるようになったのは、わたしが石岡のケアハウスの役員で、福祉と深く関わっていることを知っていたある企業の役員から「障害者にお茶を教えてほしい」と頼まれ始まる。同企業はゴルフ場など多角的に事業を展開し、福祉事業にも深い理解を持っている。わたしも役員を務めている。
 それまでは、身障者に何度かは接していたが、最初に水戸の施設で紹介され数人の女性がわたしの目の前に立ち何も話すこともなくじっと見つめている。思わず「この人たちニンゲンか!」と思った。お茶の作法を教えるどころではない。いかにしてこの人たちと接するか―。
 最初は戸惑いの連続。どうやって子どもたちと「心のキャッチボール」ができるか―。試行錯誤で夢中だった。それが、2、3年経ったある日、入所者たちと職員でひたち海浜公園に行った。子どもたちを大きな観覧車に乗ろうと誘ってもグルグル回るのは苦手だからと乗らなかった。わたしは職員と乗った。観覧車はだんだんと高くなる。下を見ると子どもたちはわたしたちの方に向かいどの観覧車に乗っているかもわからないのに一所懸命に手を振っている。その時、子どもたちは言葉や動作で表現できないが心の奥底からわたしを慕っているのではないかー。障害者が本当に胸襟を開いてわたしを信頼してくれている。そう思えるようになってから子どもたちと一体になり接することができるようになった。
                     □□□□
 月2回の持ち回りで各地にある「かしの木」を訪れお茶を教えている。年に数回しか顔を合わせない子どもたちは緊張した面持ちでわたしを迎える。その固く閉ざされた心の紐をゆるめるように大きな声であいさつ。そして、ノートを広げ一人、ひとりの名前を聞いてメモを取る。最初に訊くのは今日の日付と午前中にやった仕事の内容や昼食のおかずの話題など―。
 自分の年齢も分からず名前も書けない子どもたちもいる。それでも焦らず急き立てることなく口を開けて自分から話し出すのを待つ。子どもたちに安心感をもたせ、そうしているうちにその場の雰囲気が和んでくる。
 それが終わるとようやくお茶の楽しみに入る。まず和菓子のいただき方から始まり抹茶の入れ方、飲み方、お礼の作法。お茶碗の美しい持ち方「こうすれば美しく見えるでしょう」手を取ってゆっくりと教えうまくゆけば「上手、上手」と誉めてやる。子どもたちは精いっぱいの喜びを笑顔で返す。
 わたしは「どんな人でもひととして認めること」これは人間として生きる基本だと思っている。だから、どんな障害を持った人でも同じ。心の中はどんな色でどんな形をしているか分からなくても温度は同じだと信じている。純粋無垢な子どもたちを見ていると心が洗われるようになる。そんな時、ボランティアで辛い時もあるが続けて来て良かったと思う。

2018年11月25日 №09






 
 
 

 
 





        
動けばまわる

 
基本的には人間が好き。生命を持っているものなら何でも好き。お花から猫。犬。タヌキまで何でも好き。姪っ子が4、5歳のころ、自宅へ帰るというので見送りに出た時「お姉ちゃん、アリちゃん踏んじゃダメ!」と私に言った。後ろからついてきた姪っ子は飛び石を踏んで歩いているわたしの足もとにいたアリを見つけそう叫んだ。その澄んだ悲痛な声は今でも耳朶に残っている。この生命の大切さを教えたのはわたしの母だった。そのことはわたしに受けつがれ幼い姪っ子まで面々と息づいている。

 「動けばまわる」、80歳を過ぎまだ次の事業を展開しようと張り切っている社長さんがそう言った。それを聞いた時、妙に納得させられた。よく考えてみれば何ごとも動かないと前に進まず、動かなければ結果は出ない。わたしはどちらかというと走りながら物事を考え積極的に行動するタイプ。
 老健施設「ケアハウスゼーレ」の理事をやっていることもあり、ボランティアで入居者の皆さんに茶の湯の楽しさを教えている。部屋に閉じこもりになりやすいお年寄りに参加してもらい大勢の人と交わってほしい。わいわいやって動けば何かが生まれる。
 近隣近在に住む人たちと交流が目的の毎年行われている施設バザー。その中でこうして大勢の人たちを見ていると自分も生かされているということをしみじみと感じる。手と手を取り合ってともかく明日に向かって生きていくことが大切。
 
 私の小学生のころ、小学校の講堂で開かれた敬老会に余興として、藤間流日本舞踊「白藤会」のひとりとして参加し、娯楽の少ない老人たちに喜ばれたことを思い出す。父も同後援会長として全力を投じてくれた。
 ある時、写真屋さんが晴れ舞台を撮影してくれるというので「両手を広げた時に写してください」と頼んだ。ところが両手で顔を隠した時にシャッターを切ったのでせっかくきれいにお化粧した顔が隠れてしまった。動きがある舞踊を写真に収めることは大変なことであった。いまでも顔が見えない晴れ舞台の写真を見て当時を思い出している。
 そのように、動けばまわるということは思い出の数々も万華鏡を覗くように浮かび動きながらまわっている。

2018年11月12日 №08
   
 

青竹を斬る

 大きな心の支柱であった父を昭和54年に亡くし、病床の母の介護に追われていたころだった。心の裡がどんどん暗い穴に引きずり込まれるような精神的に不安定な日々を送っていた。何とかしなければ、と心の軌道修正を求め始めたのが居合道だった。その以前、剣道にも打ち込んでいたが打ち合いや激しい運動のため落ち着かなくてわたしの性分には合わなかった。それならと古武道の抜刀術を現代的に武道化したとされる居合道ならどうだろう。実際に始めてみると武士道の教えがふんだんに織り込まれた精神性を求める武術は性分に合っていた。母が士族出身という血筋も大きく影響していたのかもしれない。

 居合道の稽古を始めて6年目にして4段に昇段していた。稽古仲間から早い昇段とうらやましがられた。わたしはそんなことを気にせず日々の精進の賜物と自分自身を誉めていた。4段に昇段したことで勇気づけられたこともあり真剣で青竹を斬るという腕試しをしたくなった。
 師匠でもある池田忠男先生に「青竹を真剣で斬ってみたい」と折に触れて話していた。先生は「あぶないからよした方がいい。やるなら足もとに防護柵を作るように。そうしないと自分の足を切ってしまう」。竹を力まかせに切り寸止めができずそのまま刀を振り落とし刃先で自分の足を切りケガをするという。
 
 その日、季節は青竹が茂る春のころで朝からよく晴れていた。わたしは稽古着に草履履きで裏山の竹林に向かった。手には4段昇進記念に購入した日本刀(関住秀安作 刃渡り69・6㎝ 1.2㎏)をしっかりと握りしめていた。一歩、一歩足を進め竹林に向かう時は胸が高なっていた。わたしは手ごろな青竹を見つけて立ち止まる。乱れた心を静めるように深呼吸をして鞘から刀を抜きさっと身構えた。切腹した武士の首をはねる介錯の構え。
 
 刀を斜め右上から構え肩越しに一気に刀をふりおろす袈裟斬り。一瞬の静と動。無我夢中で頭の中は真っ白。斜めに斬られた青竹はすう-っと滑りながらそのままストンと地面に立つように落ちた。寸止めはしっかりとできていた。池田先生が心配していた足もなんともなかった。
 斬り落とされた青竹を見届けた瞬間、心の中にあったモヤモヤした黒い霧は一気に晴れ予期しなかった広いひろい青空が見えた。無我の境地というのだろうか―。すうーっとして「すべてが許される」。父の死も母の病気も許される――。

2018年10月20日 №07
  





 

 

 


 
  お盆のころ

大久保家の菩提寺は市内府中にある浄土宗の雷電山照光寺。母方桜井家の墓所があるということで父の還暦を記として昭和42年に石碑を建てた。父の晩年は押入れを改造して仏壇造りに凝り、書画骨董を収納する大きな桐の長もちをこしらえ「オレが死んだらこれに入れてくれ」と、生前から自分が仏の世界に入る準備をしていた。
 
 照光寺の境内には明照保育園もあり、わたしもその園児の一人として通った。本堂前で「お父さんお母さんありがとうございます。わがままは言いません」と、みんなと斉唱して手を合わせてからお部屋に向かっていた。よく意味はわからなかったが小さなころから仏の教えを受け、それが自然であり普通だと思っていた。その仏に導かれるようにして月参りはあたりまえのこととなっている。そのため照光寺との付き合いは長い。父母の月参りと合わせると数えきれないぐらい参拝した。
 
 父が亡くなったのは昭和54年6月25日、母は平成3年6月28日。いずれも、月命日の参拝はその年から始まり今日まで続き6月は必ず2回の墓前に花をたむけ合掌する。幸い病気で休んだりすることもなくスケジュールを組む時には墓参りを何よりも優先させることにしている。二人の命日が近いから一緒に済ませればと思うかもしれないが、そういうことはわたしにはできない。そんなことを父が知ったら怒鳴りつけられそうだ。
 墓前には花と線香をあげ手を合わせる。線香の臭いに包まれながら今日を生きていることを感謝する。ただ、それだけを求め参拝するようなもの。小さいころから「仏心」ということを自然と学んできたせいか合掌するとわたしの心の扉が開き新鮮な空気をもらったようで元気になる。

 母が健在のころは、照光寺まで歩いて父をお迎えに行った。30分の道のりは遠く感じたことはなくただ提灯の灯りを消してはならない。魂が入っていると提灯を大事に持ち無心で歩いた。そのころは精霊馬や盆棚を作り灯篭流しもやっていたが今は簡素になっている。
 母が亡くなってからも、千葉の流山市に住む弟たち夫婦と子どもたちもお盆にやってきてお迎えに行っていた。近年は、その子どもたちもそれぞれ独立して所帯を持ち家庭状況が変わったせいもあり、弟夫婦と子どもたちが別々にお盆にやってきて墓参りをするようになった。
 今は、わたし一人で照光寺へ車で出かけお迎えに行く。そして世間一般の家庭のように父母はもとより先祖代々の霊を迎え見送る。父と母の御霊が家に戻ってきたと思うだけでやはり気が引き締まる。仏のいわれる慈愛を受け、わたしは仏壇に向かい無心で手を合わせる。

2018年8月15日 №06
 
   
 





 

アドルフとワンちゃんマスコット

 「猛犬が居りますから御用のお方はベルを押して下さい。万一無断で門内に入り事故が有っても責任は負兼ねますから御諒承下さい」。表門の門扉横に白い文字で書かれた木札がぶらさがっている。
 木札の注意書きはシェパードの一代目アドルフを父が買い求め一家の住人に加わった時に取り付けられたもの。アドルフといえばアドルフ・ヒトラーが有名だが、わたしの家にやってきたシェパード犬は血統書付きで名前もすでにアドルフと命名され番犬として父に愛され飼われていた。わたしたちは「アド、アド」と呼んでいた。厳しい訓練を受け父には絶対服従だった。木札の白い文字は霞んでいるが60年経った今でもまだはっきりと判読できる。
 父が健在でバリバリ仕事をしていたころ、わたしの家にはシェパード、秋田犬、マルチーズ、コリーといつの時代にも犬たちに囲まれていた。二代目のアドルフが亡くなった時、弟が泣きじゃくったのを覚えている。一代目のアドルフは父のためにしつけられており、わたしたちでも怖くてなかなか近づけなかった。二代目は弟がとてもかわいがり何かと面倒を見ていたせいもありなついていた。弟にはそのアドルフが死んでこの世から消えてしまうことを受け入れることができなかったのだろう。その悲しみは家族から見ていても辛いものだった。
 初代のアドルフは父の命令があれば郵便箱から新聞を持ってきたり、食事といえば犬小屋の前に置いてあるカラの食器を持ってくるというほど利口だった。山盛りになったエサを前に父から「待て」がかかるとヨダレをたらして待っている。かわいそうでその従順さを悲しい目でわたしは見ていた。
 父はよくいっていた。「犬は正直だが人間は嘘をつく」わたしたちに向けてそういわれるとわたしが指摘されているようでハラハラしていた。父は犬小屋で一緒に寝ることもあった。小屋は広く一緒に寝てもゆったりとしていた。きっと、何か人間不信に陥った時など救いを求めるようにしていたのかもしれない。
          
         □□□

 今、わたしはワンちゃんのマスコット作りに凝っている。これは小物作り好きだった母の影響を強く受け夢中になると夜なべも厭わない。母の使う布地はいつも手ざわりよい絹の生地で縫物をしていた。そして、きっちりと完全無欠なものを求めていた。わたしもそれを受けつぎ納得がいくまで追求して仕上げる。
 深夜ひとりワンちゃん作りをしていると、あの頃の母の手もとを思い出す。あの時の部屋のにおい、布地のこすれあう音や針の動き。それと同時に家族同様に暮らしたワンちゃんたちの毛ざわりやつぶらな瞳。飛んだり跳ねたりして遊んだことを思い出しながらわたしはワンちゃんのマスコット作りに時間も忘れ針を進める。

2018年8月7日 №05

 


 初代 名犬アドルフ号
      
 生まれは東京亀有

 わたしの胞衣(えな)は小物作りが好きだった母がちりめんで作った紅白の巾着袋に入れられ産毛とともに桐の小箱に収められている。
 今日こうして開けて見るのは母が健在のころからだから20数年ぶり。何かハラハラドキドキする。巾着袋から小箱を取り出してみると表手面には「寿・御臍帯納 御産毛納」。お産婆さんは高村須磨子と記されている。裏面にはわたしの生年月日と午後0時25分、820匁。そして父母の年齢などこと細かに記録されている。
 
 わたしが生まれて3ヶ月後には日本軍がマレー半島に上陸し真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦。戦争は年ごとに厳しさを増し都内にも空襲警報が発令されるなど亀有も危険ということで、わたしが3歳の時、石岡市旧若松町にある母の実家に疎開することになった。母と私と弟の三人だった。父は仕事の都合で東京にとどまっていた。
 今でも思うがあの戦時中の混乱の中で母はよくもわたしと弟の二つの胞衣を見失うこともなく持ち続けていたものだ。きっと、士族という家系から自分の命より大切なものという教えがそうさせたのとしか思えない。しかし、昭和20年生まれの次男の胞衣は無い。
 まだ幼ないうちに石岡に来たため亀有の記憶はほとんどない。ただ、自宅の裏手に小川が流れており、ヨチヨチ歩きで家を出てその川でおぼれたことがあった。わたしを探していた父が川に飛びこんで助けてくれたという。伝聞かもしれないがわたしの記憶の糸にしっかりと結びついているようでもある。
 
 石岡でも空襲警報が度々発令されていた。市内には国営のアルコール醸造工場があり軍事施設として標的にされていた。警報が鳴ると母は防空壕に子どもを次々と放りこんでわたしたちの身を守ってくれた。防空壕は四畳半ほどの広さがあり畳敷きだった。大雨の後などは畳がびしょ濡れで「おかあちゃん冷たいよ!冷たいよ!」と叫んだことはしっかりと覚えている。
 また、軍事訓練のために兵隊も多くやってきていた。石岡駅から降りた兵隊さんがわたしの家の前をよく行進していた。「兵隊ちゃん、兵隊ちゃん」と、声をあげて手をふると兵隊さんは一斉にわたしの方に顔を向け敬礼をして通り過ぎていった。軍事色に染まった日本は子どもたちにも「兵隊は偉い」と教えており無邪気に手を振っていたのだろう。
 利根川を越え茨城県に入り恋瀬川を渡り石岡市にやってきてそのまま居ついて70数年になる。もし、太平洋戦争がなかったらわたしは東京亀有に今でも暮らしていたかもしれない。運命の糸というのはどこに結ばれているのだろう。つくづくわからないものだと思う。

2018年5月31日 №04
 
   

 

ララチャン 



 猫ちゃんたちと暮らす

 小学校3年生のころから猫と犬は飼っていた。今犬は飼っていないがピーチャン、ララチャン、ポポ、フーチャンとダイスケの5匹の猫と一緒に暮らしている。どれも捨て猫か迷い猫で血統書つきの猫はいない。わたしは血統書つきの猫を欲しいと思ったことがない。ペットショップで売られているのは興味がない。そういう猫や犬は誰かに飼われて大切に育てられるのはわかっている。そうではなく捨て猫や迷い猫を見てしまうとかわいそうだけでは済まなくなってしまう。
 ポポちゃんの親猫はオカアサンという名前だったが13歳で今年の1月に亡くなった。この親子は庭先の松の木にのっていた。3匹だったが木肌と似ている三毛猫は見えなかった。野良猫らしく呼んでも来るわけではない。だから、エサを松の木の下まで運んで手なずけていた。それから親子で13年一緒に暮らした。
 亡くなったオカアサンは車で1時間ぐらいかかるが、笠間市日沢の小高い丘にあるペット霊園・慈苑で立ち合い火葬を済ませ骨上げをして丁寧に骨壺に収めてもらった。翌日に火葬をお願いしたが、ちょうどその日は雪が降り「あぶないから明日にしたら」と担当者。そこでタオルにくるんで保冷剤をいれてひと晩おいた。まるでお通夜のようだった。当日は庭に咲いたやぶ椿を一輪遺体にのせ運んだ。今もオカアサンが亡くなる直前に撮った写真とやぶ椿がスマホに残されている。その表情は濃艶さをたたえわたしに語りかけてくるようだ。
 
 石岡市の常陸の風土記の丘でゆりまつりお茶会があり出かけた。朝、長屋門に段ボールに入れられ3匹の子猫が捨てられていた。お茶会を終えて帰りにダンボールを見ると二匹になっていた。誰かが一匹だけもらっていったようだった。
 ダンボールを覗きこんでいるとお弟子さんのひとりが「先生、目を合わせないで!」といった。彼女も猫好きだった。そして、わたしが捨て猫を見ると情が移り拾い育てることを知っていた。それからピーチャンとの18年の歳月が流れた。
 目を合わせるというのは相手と一所懸命に命のやりとりをする。こまっていれば助けてやる。これはどんな動物にも通じること。言葉を交わすことはできないが目と目でやりとりをする。わたしは捨て猫とアイコンタクトをしてしまった。
 家に持ち帰り育てはじめたが、まだ乳離れしてなくミルクの飲み方もわからなかった。わたしは子猫を抱いてスポイトでミルクを飲ませてやった。一週間もするとようやくミルクを自分で飲めるようになった。
 病気になったら動物病院で最善の手当てをしてもらう。病気で苦しんでいるのを黙って見ているわけにはいかない。それなりの費用はかかるけどかわいそうの方が先に立つからお金の問題ではない。それでも運命というか人間と同じように亡くなってしまう。別れの時は丁寧に荼毘に付し骨上げをして骨壺に入れてもらう。今、それが5体ある。毎朝、骨壺に手をあて「おはよう」と声をかけあいさつ。そしてお話しをして自分を癒やしている。いずれは土に還してやろうと思っている。

2018年5月8日 №03


亡くなったオカアサン
卯月の風

 わたしが住んでいる母屋の周り廊下のガラス戸を開けると卯月の風と匂いがさあーっと入る。「四月の風」とは認めたくない「卯月の風」だ。ライラックの白い花も咲きだしわたしの庭は春の海だ。
 築山に目をやるとシャクナゲが淡いピンク色した大ぶりの花を広げている。そして目線を下げていくとオタマジャクシの卵がびっしり産まれた池の隅にゼンマイが土から顔をだし幼葉を渦巻き状に巻いた状態で伸びている。幼葉は綿状になりフワフワとしておぼつかない赤ちゃんのハイハイに似ている。ゼンマイには男ゼンマイと女ゼンマイがあるというから、さながら家族が共に力を出し合って成長していこうという姿に見え力がわいてくる。このゼンマイは同じような群れをなして庭のあちらこちらに咲いている。母が元気だったころは茹でたゼンマイを食べたが今はわたしが春を楽しむ鑑賞用となっている。

 わたしは父が残してくれた大きな庭で四季折々の草花を愛でられることに深く感謝をし手を合わせる。父と母と弟たちと住んで幾多の歳月を重ねたのかー。そして、あたりに漂う家族の匂いを確かめるように卯月の爽やかな風に浸る。母屋の庭や裏山には、蕗のとう、ゼンマイ、山ウド、コゴミ、タケノコ、菜の花、タラの芽などが一斉に春を知らせる。その中でも春を一番先に肌で感じるのは福寿草が咲き始めたころ。もっと早く春を告げる足音を知らせるのは小枝にもっこり新芽が盛り上がりはじめたころ。思春期の子どものニキビのようなふくらみをじっーと目をこらして見ているともう冬も終りさぁー春だという歓びで全身に力がみなぎってくる。

 母は精進揚げが好きだった。わたしは油の匂いでまいり天ぷらを揚げることは今でも出来ない。母はわたしが出かけ家を留守にした時に台所の窓はもちろん家中の部屋の窓を開けて天ぷらを揚げていた。家に帰ると微かに菜種油の匂いが漂ってくる。「今日のおかずは天ぷらだ」と分かってしまう。その微かないやな匂いを嫌うでもなく母が作ってくれた天ぷら料理をおいしく食べた。春の匂いを感じなら。食卓に盛られた色とりどりの旬の野菜を食べる。

 摘み取ったばかりの菜花のおひたしもお膳に盛られる。でも、わたしは菜の花の蕾を摘み取ることはできない。なぜかというとさあこれから黄色い花を咲かせようとしている蕾を摘み取ってしまうことはとてもかわいそう。お花好きのわたしにとってそれは背信行為になるようで手が伸びない。わたしはいつまでも蕾から花開くまでを楽しんでいる。だが、母が作ってくれた菜の花のおひたしは平気で食べることができる。勝手といえば勝手で我がままかも知れない。それでも、卯月の風は爽やかに吹いてくる。今日は、いつもより青空が眩しく見える。 

2018年4月6日 №02
 





      
 






 






茶道と障害者

 わたしが入学した県立石岡第二高等学校では礼法室というのがあり、そこでお座布団の敷き方やふすまの開け閉めなど日本女性として身につけていなければならない基本的な礼儀作法を習いました。その中に厳格な茶道というより、お茶の上手なたしなみ方もありました。
 古風なことに関心があったのか自然と茶道クラブに入り稽古を積みました。高校を卒業すると友だちに誘われるように表千家の先生の門を叩き弟子入り。友だちは途中でやめてしまいましたが、わたし何でもとことん最後までやり遂げようという旺盛な精神が信条。そこで、本格的に習い家元から教授資格を頂いたのは30歳過ぎのころ。

 お弟子さんをとって教えるようになったのもそのころです。父からいつまで茶の稽古をしているのだという視線で見られているようで何とか形あるものとしての成果を見せなければと焦っていました。すでに、わたしの家には弟が設計して父が建てた数寄屋風建築の茶室も出来ておりお弟子さんをとって教える環境は整っていました。最初は、近隣の子どもたちを誘い教えだんだんと増えていき自信がついていきました。
 ちょうど、昭和30年ごろから茶の湯愛好家が次第に増え始め、わたしも指導者として招かれようになり石岡の社協センターや公民館で教えるようになりました。それが今日まで続いてもう40数年。各地で行われるお茶会の席に声がかかれば積極的に参加しようと活動を続け、その回数は数えきれません。

 これは長い歴史をもつ茶道から人間形成を学ぼうと受け継がれてきた日本の伝統文化を忘れてはいけないと思うからです。近年は、物が豊かな社会になりたくさんの恩恵を受けていますが、一方では自然を愛でるというゆとりの精神が失われているように思います。その代償として人間の心は荒み心の豊かさを見失っています。そこで少しでも茶道を学び精神を癒やすことも大切かと思います。それだけではなく気軽に茶席を楽しんで欲しいのです。 

 今は、社会福祉法人斑山会のケアハウスゼーレで年6回お年寄りたちと季節ごとの茶席を憩い、障害者が地域で暮らし自立と共生を目的に設立された社会福祉法人やまびこの里福祉会でも毎月城里、笠間、水戸、平磯の施設でお茶を教えています。何らかの障害をもった子どもや大人ですから茶道を厳しく教えるというようなことではなく、こういう文化が日本にはあるのだとゆっくりと元気ではつらつと指導しています。彼らは本音でぶつかってきます。なんのてらいもおごりもありません。この人なら気が許せるとなるととことん信じてくれます。それだけにこちらも真剣になります。これからも、茶道という伝統文化を学び楽しみながら取り組んでいきたいと思います。
 
2018年3月10日 №01