怠惰な散歩  2020年12

   12月31日(木)

本日で2020年も終わり。過ぎてしまえばよくぞこの一年を生きてまいりましたぞといったところ。今年は知り合いがたくさん亡くなった。わが身も来年はどうなるか分からない。ともかく大きな病気もせずに毎日を過ごして来られたことに感謝。

土浦郵便局に行ったついでに土浦駅前周辺を歩く。人影は少なくまるで土浦市が死んでいるような寂しさ。時おり見かけるる人も冷たいからっ風を避けるように足早に去って行く。正月を迎えるというルンルン気分の雰囲気はなし。

夕方、テレビで「ウエストサイド物語」を見る。一番最初に見たのは中学生の時だった。それ以来何度もなんども見た。後で知ったことだが堀田善衛の「ゴヤ」は、この映画の冒頭のウエストサイドの俯瞰シーンを参考にした。そのため、本題までなかなか進まず読者からの苦情があったという。とにかく、感動的な映画で黒澤明監督の「七人の侍」とともに何度も見たい大好きな映画だ。
 
   12月30日(水)

朝、滝の園から帰る時に雨が降り出す。久しぶりのお湿りでカラカラ乾いている大地にとっては恵みの雨だ。おいらのコロコロ花壇も喜んでいるだろう。今ごろベートーベンの歓喜の歌でも歌っているかもしれないとハンドルを握る。

昼過ぎに急に明るくなり太陽がチラリと顔を出す。それはほんのわずかの時間ですぐに空は雲に覆うわれる。まるでチラパンツのようだ。チラパンといえば最近女性のスカート姿を見ることがまれになった。季節が冬ということもあるだろうがミニスカートが流行った昔の日々が懐かしい。冬でもミニスカートをはき寒さでひざ下まで赤く火照ったあの時代に戻してほしいものだ。

耳にかかる髪の毛がうっとうしいので散髪屋に行く。その旨を伝えると刈り上げしたほうがいいというので素直に頷く。相手は刃物を持ち無防備向なお客にクルクル回りながらガリガリとバリカンにハサミを入れる。こういう場合はとにかく素直になることだ。いつなんどき些細なことで気がふれて攻撃されないとは限らない。ひたすら終わるのを待つ。始りがあれば終わりがある。来年の仕事始めは4日、それまでは素直に静かにしていよう。
 
   12月29日(火)

滝の園で実施した健康診断書(けんけん死んだ書)を受けとる。「今回の健康診断を機会に、禁煙することをお勧めします」というアドバイス。ああ、あり難きご忠告。この診断書を見てまたタバコを吸いたくなりプカプカやる。

禁煙に関してはいろんな人から何度も勧められた。そして、何度も拒んできた。それが自分の人生哲学のように今日まで綿々と引き次いでいる。ぷカプアかやると精神的に落ち着く。だかた自己責任でいいと思う。それより辛いのは頻繁に値上げされること。

タバコとは長い付き合いだ。山形に住んでいたころ、わが家は雑貨屋を営みタバコも販売していた。中学校の時にはタバコの仕入れにも関わった。冬は雪で店まで配達してくれるないので集荷場まで学校を休んで受け取りに行った。それこそ唐草模様の風呂敷にタバコを包んで背負って雪道をトボトボ歩いた。そんな長いタバコとの友だち関係を絶てるわけがない。バイバイです。
 
  12月28日(月)

東京のまつの氏から久しぶりに電話がある。メールも入っている。PCを苦手としていたが覚えたらしい。彼は東工大を卒業するとレーモンド設計事務所に入社。レーモンドは帝国ホテルを設計したライトの助手として来日。終わっても本国に戻らず渋谷に設計事務所を構えた。まつの氏はなぜレーモンドを選んだかというと週休2日制だったからという。

 まつの氏は今「文学的建築論」書いており来春には出版するそうだ。どんなものに仕上るのだろう。大変な読書家で書くのが好きだ。出版したら贈るというが、さておいらに理解できるかー。

「ノーフォールト(無過失)」岡井崇(早川書房)を読んでいる。これは暗い内容だ。どうも、最近読む本は頭を夕暮れ近く日が沈んでゆくようなものばかり。おいらの心が沈んでいるせいか。コロナ渦のせいだけではないようだ。ビンボー生活のせいでもない。なぜならビンボーとは生まれた時からの友人だ。友人は大切にしなければならない。金魚ちゃんに訊く。「ああ、バーカはバーカと永遠の友だちだ。もう、すべて諦めろ」。ありがとうございます。

■「明日への約束」
 
   12月27日(日)

朝から当直の職員がバタバタしている。入居者の容態が悪いらしい。これまで一度だけ経験している、といってもおいらが手伝うことは何もない。ただ、成り行きを見守るしかない。手を差しのべたとしても逆に邪魔になるだけだろう。8時30分の終業時間に玄関に出ると救急車が来ている。救急車はなかなか出発しない。受け入れ先の病院を探しているのだろうかー。

タニグチさんからお歳暮が届く。甲斐の銘酒セット。これを飲んで正月を迎えよということかー。有難く頂く。詩人会議2月号が届く。いつもより早いような気がする。自由の部においらの詩が載っている。今年の目標は毎号採用されること。出だし好調と素直に喜ぶ。

女子柔道選手権をテレビ観戦。無差別級ともなれば体重が100キロを超している。まったくデカイ。こういう女性を目の前で見たことはないが想像するだけで圧倒される。果敢に挑む小さな選手を応援するが勝てない。やはり大きい方が有利。現実は、何事も厳しいものがあるようだ。
 
   12月26日(土)

今日は朝から体調が良かった。詩を投稿して枯れ草を燃していばぶんへ。年末という事で事務所の清掃をする。喫茶店は開いているが他はみんな閉まっている。冬日が庭に射している。ああ、ここの主はもう居ないのかー。ひとり物思いにふける。うたかたということをー。

なかにし礼さんが亡くなった。「兄弟」という著作を読んで著者の背景となる舞台を知ったのは随分前だ。グーグル先生で調べると1998年発刊。兄に翻弄された生活を綴った自伝のようであった。作詞した「石狩挽歌」を聴くと北海道小樽出身で入水自殺した評論家の西部邁を思い出す。北海道という風土に何か共通するものが感じられるせいかも知れない。

今晩は宿直日で今年は後一回。もうすぐ新年を迎えるというのに正月気分にはなかなかなれない。これはコロナ渦という大きな台風が吹きまわっているせいかも知れない。わが家では金魚ちゃんだけが知らんぷりして生きている。
 
   12月25日(金)

朝から頭が重い。昨晩飲み過ぎたようだ。空は晴れているというのに体調は最悪。何もしたくない。それでも、少しは体を動かさなければと枯れ草をエッチラエッチラと二度運び燃やす。これだけでも息が上がりそうだ。これが歳をとることかと身を持って知る。

昨日のブログも書いていたがアップする気にならない。おいらのブログは翌日の朝に更新する。正確にいえば一日遅れることになる。夕方にまとめるが(どうでもいいことばかり)アップは翌朝。写真は当日のもあれば数日前に撮ったのもある。

そういうわけで引きこもりオジンの一日となる。ひたすら本を読む。これが、気分がすぐれない時にはふさわしくない「天才と発達障害」岩波明(文春文庫)。統合失調症の診断帰順が示され項目をを見たら該当するのがある。これはヤバイ。金魚ちゃんに相談する。「まあ、酒でも飲んで寝ることですな!」。ありがたき忠告を頂く。おやすみなさい。
 
  12月24日(木)

ラジオからやたらとクリスマスソングが流れると思ったら今晩は「クリスマスイブ」だそうだ。おいらが訳すると「苦しみますの夜」となる。そういうことでまったく関心もない。東京に住んでいるころシャンパンとターキーを買って祝ったこともあったが今では夢幻。

兄貴に貰った本の整理をする。興味ありそうなのを数冊除いてほどんどブックオフに売りに行く。兄弟のせいか読む本にはおいらと傾向が似ているよう。兄は設計屋だからそれに類する本はどんどん段ボール行となる。さようならだ。

土浦の大きな古書店で売上代金655円を全部使う。ここは広くてたくさんの本がある。興味津々だが駐車場がないのでなかなか足が進まなかった。それが思いがけない解決策を発見した。これからは、この店を利用しよう。ブックオフよりはるかに品揃いが豊富だ。ただ、あまりの多さにどこにどんな本があるのか探すのに苦労する。足げに通って覚えるしかないだろう。
 
  12月23日(水)

今日は今年最後の診察日。診察は11時となっているがいつも1~2時間近く待たされる。待たされるのは苦にしない。雪国で育ったせいか春になれば雪は自然と溶けてなくなる。それまではシンシンと降り続く雪をただ見ているしかない。とにかく春まで待つ。それに尽きることを嫌というほど経験したせいかもしれない。

ヒマつぶしに「武漢日記」を読む。これまで知らなかったが、武漢では医療従事者が大勢亡くなっている。医師や看護師など多岐にわたっていることに驚かされる。これらの人々もコロナ感染死者数の統計の中でカウントされるだけかと思うと何とも悲しい。

そもそも、こういうを本は病院の待合室で読むべきではない。どんどん待合室が暗くなっていく。先生に「武漢日記」を読んがと尋ねる。先生はポカンとしている。こういう質問もするべきではない。先生、「血液検査の数値からは100点満点です」。ありがたきお言葉を頂戴して「先生も気を付けてください」と言って診察室を出る。金魚ちゃんの声、「 ああ、天文学数値にバーカ」。
 
   12月22日(火)

電話はかかって来ない。メールも受信箱を見れば宣伝だけ。郵便物は公共料金の催促のみ。新聞は休刊日以外はきちんとポストに配達される。テレビはほとんど見ることがない。見るとしたらドキュメントかスポーツ。ただ、FMラジオはよく聞く。こんな寂しい生活をしていると閉塞感で息が苦しくなりそうだ。

そのさ中に「武漢日記」を読むとますます呼吸困難になりそう。どうやらネット社会は中国の方が日本よりはるかに進んでいるようだ。作者のファンフアンの情報源はほとどんどスマホ。後は豊富な人的ネットワーク。新聞もあるが国営テレビはほとんど出てこない。

おいらの情報源といえば、庭の餌台にやってくるスズメやキジバト。エサをたっぷり用意してやったというのにそれもここ数日はやってこないますます孤独感が襲ってくれる。これを「ウツ」というのか。気晴らしに刈り取った雑草を燃やす。赤い炎を見ながら考える。燃え尽きる「ウツ」とは何か?。結局、分かりませんでしたということで終わるのです。さよならです。
 
  12月21日(月)  

ゴミ焼き場を作った。なぜこんなことをやらなけばならないのかわからない。暇をもて余しているとしか思えない。とにかく、枯れ草を燃やすゴミ焼き場を作ったのだ。

そして、枯れ草で燃やしたのだ。そして、武漢日記を読んだ。そして、思い出したように三日ぶりに金魚ちゃんに餌を与えた。そして、二ランジョンの案山子の詩「かかし ひもじ さみし」を拝借して詩を一編まとめた。

「武漢日記」の方方(ファンフアン)は書いている。「ああ、中国人は自分の誤りを認めようとしない。後悔することも稀で、なかなか罪悪感を持たない。これは文化と習慣に関係しているのだろうか?」。これは日本人にも同じことが言えるのではないか。いや、世界中の人々は本能として生まれた時から持ち合わせているのではないかとも思う。
 
   12月29日(日)

「たとえ書くたびに削除されても、私は書く」「武漢日記」方方(ファンフアン)(河出書房新社)を読む。おいらの場合は「たとえ書くたびに読む人がいなくも私は書く」ということで本日もブログを書く。この本は中国では出版差し止めだという。やはり、言論の自由は尊重されるべきだ。

削除されるということは削除をするニンゲンがいるということ。どんな基準で決めどんな顔をして削除するのだろう。残虐なシーンの投稿を削除する担当者は毎日世界中の残虐な行為を見ているうちにノイローゼになって辞めたという話を聞いたことがある。

おいらのブログの場合は削除される心配はないと思う。何しろ内容が乏しい。書いている本人は暇つぶしとボケ防止のためと決めている。さらに「無害無臭」のブログなど誰も見ないのだ。それでも一日は終わるのです。ひたすら「武漢日記」を読もう。
 
   12月19日(土)

詩を一編書く。そして草刈りに全力投球。なぜ、よそ様の空き地の草刈りをしなければならないのかを考えながら草刈りをする。無償の行為、無意味な行動ということを考えて草刈りをする。根っこをむしり取るたびその強靱さに圧倒される。自然の無償の行為。それはただひたすらに生きるということを貫くことだ。自然は強く偉大でとてもかなわない。

詩は昨晩から書き続けているがまとまらない。いつものことだがフイに自分でも驚くぐらいのイメージがわく時がある。その言葉を拾い集め後は切ったり貼ったりのペッタンコペッタンコ。

これでお終いではない。漬物ではないがしばらく寝かせておく。一週間だったり二週間だったり。決して長く漬けたからいいというものではない。それで失敗することもある。一編の詩を第三者に読ませるというのは難しい。最初で最後の読者が自分で終わるなんていうことはザラだ。それでもいいのだと満足している。
 
   12月18日(金)

「自分の頭で考える 日本の論点」出口治明(玄冬舎新書)。出口氏の著書を初めて読む。働き改革「メシ・フロ・ネル」から「人、本、旅」の生活を替えること.
。ところがコロナ渦の影響で人に会うことも遠慮がちになり、ましてや旅となれば県境を越えた移動はできるだけ自粛するように。旅はお金もかかるから財布との相談もある。読書なら他人に迷惑をかけずに時間をやり過ごすことができる。それじゃ読書となるとそれなりのエネルギーと集中力が要求される。近頃は視力が衰え細かい字をおっていると睡眠導入剤の効果がてき面。

それでも眠くなったらウトウトすればいいと本を読みだす。数分読んではウトウト。こうなるとウトウトの時間の方が長くなり本当に本を読んでいるのかと疑いたくなる始末だ。それでもせっかく新刊本を手に入れたのだからと気合を入れて読んでもまたウトウト神がやってくる。

そんなウトウトタイムに溺れれてはならないと気を取り直して草刈り。この作業をやっているとウトウト神がやって来ない。なぜかといえばボーッウトウトしていればケガをして痛い思いをするのを本人以外にないことを条件反射的に知っているからだ。そういうことで本日は終わりです。
 
   12月17日(木)

何の気なしにスマホでみともページTOPを見ていたら「菅原道真」が「菅原文章」となっていた。老眼鏡もかけずにPCに向かっていたせいだと思ったが、もともと「菅原道真」という漢字を知らないのだ。おいらのブログには誤字脱字などはオンパレードだろう。一度書いたら見直すこともないからどうなっていることやらー。それでもブログは毎日更新するのだ!!。

久しぶりにキンドルを取り出し「群棲」黒井千次を読みだす。これをスマホでも読めるのだからすごいものだ。スマホを思い通りに使うことができたら人生は変わるのだろうか。それがいい方向に進むならいいのだが、どうもスマホバカになりそうな気がする。クワバラクワバラ。

霞ヶ浦を見る。風が強く湖面には寒さに震えるように小刻みな波を立てている。枯れすすきも風を受け大きく波打っている。空は強い風に洗い流されたように澄み渡り雲が悠々と泳いでいる。こうして夕方になり陽が落ちる。そして、つつがなく一日は終わる。さよならです。
 
   12月16日(水)

 干し草に眠る

こんもり山の
干し草の上で
空を見上げて寝よう

うつうつしながら
いつかの日に
思い巡らしてみよう

ああしたこと 
こうしたこと
まぶたを閉じ
語りつづけてみよう

そして
果たせなかった
夢の数々を
干し草の
甘酸っぱい匂いに
みんな
包みこんでしまおう
 
   12月15日(火)

「一手一手、その瞬間に一番評価値の高い手を選んでいくことの繰り返しです。だから、人間から見ると、時系列がつながらず全部が点」羽生。「日本は極端に言うと、鎖国しても平気な国なんですよ。石油だけです。依存せざるをえないのは」養老。「医学が統計学になった?」井上。「医者は目の前の人じゃなく、情報を見ているんです。検査の結果ですよ」養老。

「A1にも幸福が感じられるか?」岡本。「便利だったり、快適だったりすれば幸福感が上がるというもんじゃない」養老。「人生を、経済的、合理的、効率的に生きるっていうなら、生まれたら、即、死んだらいいだろう、ということになりかねない」養老。「みんな子どものときは自(おの)ずからの世界で育ってきたわけでしょう?でも、どこかで自らになったわけで、誰しもどこかで転換が起こっているんです」養老。

以上は「A1の壁」ー人間の知性を問いなおすー養老孟司からの抜粋。本を読んで草刈りに精を出し、うつらうつら昼寝をしてそのほかはぼーっの一日でした。あっ、近所に住む赤ちゃんの写真を撮りました。終わりです。
 
  12月14日(月)

「A1の壁」養老孟司(PHP新書)を読む。面白い。ところが老眼鏡が顔を動かすたびにずり落ちる。そこで眼鏡屋にゆき直してもらう。原因をいろいろ考えたら横になりながら本を読むクセがある。メガネにとっては苦痛を強いられる。頭の重さにこらえ切れずフレームは悲鳴をあげ歪む。かわいそうなメガネちゃん。

さて、今日をどう過ごしたと聞かれれば「前略 かあちゃんと一緒につつがなくぼーっに徹しました。後略」ということです。

しかし、寒さだだけは特急列車でやってくる。おいらのおちんちんも寒さで出口をしめているか元気がない。かわそうと思うがおいらにはなす術がない。「A1の壁」に既得権の話が出てくる。誰もが既得権に執着し固執する世界。さあ、どうしたらいいかー。これがみごとなぐらいにさっぱり分からない。金魚ちゃんに訊く。「分母と分子。よーく自分を考えなさい」。ありがきご教示だがこれもよく分からない。それさえも明日の朝はすっかり忘れている。お疲れさまです。
 
  12月13日(日)

朝4時45分に目覚める。まだ真っ暗だ。5時の巡回。パジャマを脱いで着替えをする。懐中電灯を手に園内を回る。まず1階のフロア。ここは入居者が食事、お喋りやゲームをしたりする広い談話室。その談話室を取り囲むように設けられ風呂場や洗濯場などを見回る。調理室には灯りが点り朝食の準備の音が聞こえる。職員は朝5時が定刻の出勤時間だそうだ。

さて外回りの点検。2階の廊下やベランダを周回する。明けの明星と弓なりの月を東の空に見る。ああ、美しい。視力が衰えぼんやりと霞んでいるが美しい。そして寒い。乾いた皺を震わせる。それから玄関前の落葉の掃き掃除。とても疲れる。今朝はしんどかった。

ニンゲンは便利なものになびくようにできているようだ。ブログ用の写真も本文もスマホ一台で済ますようになった。スマホは怠け者や横着者にはなんとも心強い味方だ。柳田邦夫の小学4年生の孫は30分でしっかりした小文をまとめるという。本人は今でもマス目の原稿用紙に文字をうめている。時代は完璧なほどに変化してしている。「精一杯頑張るんだな」金魚ちゃんの声。
 
   12月12日(土)

朝から雑草と暁の決闘だ。もっともこの戦いは試合を始める前から勝負はついている。雑草の方が強いのだ。まるでジャングルのように延びきった草は茎が堅く太い。刃を新品と交換したがおいそとは倒れてくれない。しぶとい奴めだ。それでも30分ほど刈払機をふりまわす。それで午前の部は終わり。

「我らが少女A」を読んでいるうちに気がつけば眠っている。寝る子は育つというが年寄りの場合はそのまま永遠ということもある。ヨダレをたあらして目覚める。昼食は野菜たっぷりラーメン。

午後はかあちゃんも手伝う、夫婦草刈り、とはいかずジジババ草刈り。これも30分ほどやり本日は終わり。今日は仕事。財布には5000円の図書券がある。早めに自宅を出てイオン土浦の未来屋書店に立ち寄り本を買うことにする。4册を買う。久しぶりに新刊本を手にする。細かく計算して求めたわけではないが、レジは4992円。もう8円しか残っていない。「バーカ、お金は使えばなくなるのだ!!」金魚ちゃんの声が聞こえそう。
 
   12月11日(金)

わが家の隣の空き地の雑草が胸近くまでに伸びている、畑の仕事をしながら見あげては何とも目障りで気になる。年に二度ほど近所のオジサンが刈っていたが今年は春先に一度やったきり。病気にでもなったのだろうか?。そこで持ち主の了解を得て刈り取ることにする。

こちらも年寄り。体調のいい時にソロリソロリとやることにする。そして、本日は晴天で気分もいい。実際に始めてみるとこれは容易なことではないとわかる。雑草は実に伸び伸びと成長している。とても一日や二日で終わるものではない。もっと体力があった時なら一気呵成に終わらしていただろうがーと思う。たっぷり休憩をはさみながらやる。

わが家から一段高い場所にあるだけに普段見ている眺めとまた違う。それにしても静かだ。本当にこの住宅街にヒトが住んで居るのかと思うくらい静かだ。しばらくはぼーっと歩く非生産性的な運動ではなく少しは生産性のある運動ができそうだ。
 
   12月10日(木)

霞ヶ浦のベタ凪のようでもあり、色は薄墨をぶちまけたように濁り、においといえば無臭。これが我が愛する人体に組み込まれている頭の海馬の状態。昨日も今日もそうだ。明日もかと想像するだけでぞっとする。

詩人会議会員が自費出版した詩集が送られてくる。今年に入って4册目だ。今回は四国の高松から。作者は元炭鉱夫。ひととおり読んでお礼の手紙を書いて赤いポストまで歩いて行く。空は鈍色、日本画の美しい切手をはったというのにー。心は炭鉱の坑道のように暗い。

夕方、歩こうと防寒コートに帽子、手袋とがっちり寒さ対策をしてすたこら歩く。歩けば棒にあたる。そうはいかずボーッ頭を引き連れて歩いているだけ。これはこまった年寄りだ。なんといっても明日への明るい歌が聞こえてこない。淋しいものだ。
 
   12月9日(水)

暗い水曜日。どこまでも暗い。明るい話題といえば詩人会議から詩を一編書いて送れとのメール。テーマは「コロナ」「冬」「文化」となっている。重いテーマは苦手だが承諾の返事を送る。こういうのを執筆依頼というのだろうかー。

本日もこれといった変化はなく思い出したように本を読んだり、かあちゃんの買い物のアッシー君をやって朝昼夜と食事をして出すものは出して寝る。コロナ禍という閉塞感に覆われた社会でともかくもつつがなく毎日を生きていることに感謝するべきかー。

インドのオロクさんからメールが来る。「お久しぶりです。いつもお世話になります。時々メールで便りを下さい。いつも気をつけてね」。コロナのことは一言も書いていない。インドのコロナ事情は新聞で時々見るだけ。内実は日本と同じだろうか。
 
   12月8日(火)

今日は太平洋戦争開戦の日、空はどこまでも明るいブルー。遠い昔の出来事だが忘れてはならないことです。それにしても青空がどこまでも澄み渡りきれいなのです。あの日の真珠湾は晴れていたのだろうか?。青い空と赤い血が混ざったら紫色。真珠湾は紫の色に染まったのだろうかー。

詩人会議から表彰状と5000円の図書券が送られてくる。有り難いことだ。詩を書いてお金をもらえるとは思わなかった。想定外のお金だからいくらでもうれしい。もっとも、想定外の出費もあるからお相子だろう。

今日の朝、滝野園から見た朝陽をうけ輝く二番穂の田んぼが黄金色に輝き感動するような美しさだった。遠くの吉瀬方面の雑木林に目をやり、ああ、根本さんはもういないのかとしんみりする。自然の美しさにはニンゲンは逆立ちしてもかなわない。
 
   12月7日(月)

霞ヶ浦からの朝陽を見たくなった。歩いて行こうと朝六時前に家を出る。外は真っ暗で明けの明星が見える。シンシンと足もとから冷えてくる。まだ道路は寒さに震えているようだ。寒い、帽子と手袋を持ってくれば良かった。もう坂道を二つも越えてきた。引き返すのも面倒とそのまま霞ヶ浦を目指す。

だんだんと空が明るくなる。霞ヶ浦に到着したころに案配よく太陽が昇り始めた。凍える手を動かしパチリパチリ。ああ、いつも見ても美しい。お日さまは毎日休まず顔を出してくれる。ただ、その瞬間をなかなか見ることができない。

さあ帰ろうとしたら足が痛い。股関節が氷ついたように悲鳴をあげている。もうかれこれ一時間は歩いている。これが老いたる肉体かー。ここから自宅まで一時間近くかかる。果たして辿り着けるだろうかという痛さだ。ともかく歩を進めなければ前に進まない。小学生が列をなしてスタコラスタコラと追い越して行く。ああ、無念なり。
 
   12月6日(日)

甥っ子は言う「ただ走っているだじゃないか。そんなの見ていてどこが面白い」。そうただ走っているだけの福岡国際マラソンをテレビで見る。確かにただ走っているだけのスポーツだ。だが、おいらには見るスポーツとし十分楽しめるのだ。

選手の動きを見ながら心理状態を読む。そしてにわか素人解説者となってああでもないこうでもないとご託をならべる。それを2時間余、ただ駆けているだけの選手を見ている。これが楽しいのだからしょうがない。甥っ子は勉強はできるらしいがスポーツは苦手としている。

おいらの姉と兄もスポーツは得意としていないがみんな見るのは好きだ。かあちゃんの家系は全員スポーツを得意としている。かあちゃんは短距離を得意としており小中時代は何度もリレーメンバーに選ばれたそうだ。甥っ子もその血を受け継いでいるはずだがからっきし駄目なようだ。だからといって「ただ走っているだけー」とは。ニンゲンそれぞれ好みが違うものだ。
 
   12月5日(土)

小雨がぱらつき寒い。こういう日は気持ちがどんどん沈む。お天気によって気分が良くなったり悪くなったりする。これはニンゲンだけだろうかー。ニンゲン以外の哺乳類も同じなのだろうかー。そして、そういう時はどうやって解消するのだろう。そもそもストレスというものがあるのだろうか、と考えてみるがわからない。

潮来マリーナへ行く。クルマを運転していても気分が晴れない。雨が降っているせいか眺める景色もどこか全体に霞んでいる。ぼーっ運転は事故を招く。慎重に慎重にとクルマを走らせる。潮来マリーナの釣り堀では小雨の中テントをはり釣りをしている。驚く。マニアというのはスゴイと思う。

帰りの車中、フト、思いだす。詩人会議の伊那かっぺいという詩人は日記を欠かさず書いているという。それも楽しかったことだけ。楽しいことがなかった日は創作するという。つくづくあやかりたいものだと思う。
 
   12月4日(金)

お日柄もいいので山王姫宅に紅葉狩りに行く。色は匂いどの樹々の葉っぱはどこかくすんで見える。まさかコロナ禍の影響を受けたのではー。山王姫は元気なり。ぴーちゃんはひたすら縁側で暖かい冬日を受け過ぎし日の思い出にひたりスヤスヤと眠っている。まるで、これが自分の仕事だといわんばかりだ。

山王姫はぼートリオに包囲され悪戦苦闘のよう。ぼーっトリオというのは利根川を越えた「柏のぼーっ」さらには多摩川を越えた「横浜のぼーっ」、身近な所では恋瀬川を渡り桜川を越えた「小松のぼーっ」。よくぞ、こんなぼーっトリオを相手に付き合っているのかと感心するが、そこは気丈な山王姫だからメラメラ燃える。色づいた紅葉のように闘志満々。ガンバレとエールを送る。

帰り、遠回りをして常陸風土記の丘に立ち寄る。すっかり葉っぱを落とした桜並木の小枝が西日を受けキラキラ輝いている。ああ、美しいひとりうっとりする。そこには枯山水の寂しさを感じるが春になればという沈黙の美しさがある。再び、山王姫よガンバレとエールを送る。そういことで本日は店じまいです。
 
   12月3日(木)

「本日は同下なり」。さて、今日のブログを書こうと考えるが何も変化はない。そういうことで「同下」となる。これはどういうことかと頭をフル回転。壊れそうなぐらいにアクセルを踏む。しかし、踏んでも踏んでも空吹かし。スカッペのおならと同じ。ニンゲンはエライものですべの思考回線と肉体は密接に連絡を取り合っている。これはすごいことだ。なぜなら、スカッペにも哲学があるらしいことだ。

今日も寒くて暗い一日だった。高村薫の「少女A」を読む。物語の舞台は昔住んでいたアパートから近い。懐かしい風景に出会ったように読みだす。これは面白そう。しばらくは楽しめるとニタニタする。

潮来マリーナの憎冊分の仕上げをして土曜日に行くと連絡。太い声で「ああ、居るよ、いいよ」で電話は切れる。男同士の電話はあっけないものだ。これがかあちゃんとなると延々と長い。今日も奈良に住む姪っ子と長電話。女はお喋りをしてストレスを解消できるらしい。素晴らしいことだ。
 
   12月2日(水)

寒くて暗い一日だった。どこへも出かけたくない。家にこもってパソコンの整理と潮来マリーナの憎冊分の印刷と「立原道造」宇佐美斉著と「手紙」谷川俊太郎著と月刊誌「選択12月号」を読んで平穏な一日は終わるのでした。

寒いせいか庭に据え付けた小鳥の餌台にスズメもやってこない。やってくるのは限りなく透明なあくびだけ。米国の大統領の動向など気にせずコロナの心配したほうがいいと思うがそうもいかない。事の成り行き次第ではわが家の家計に大きく作用する。ウソダァー!。そうです、嘘です。

赤ちょうちん「ぼーっ」の突き出しは、寒いせいか大根の煮物と菊のおひたし、おまけにチーズひときれ。これで少しは暖かくなるか。それにしても終日寒かった。山形だったら夜は雪になるはずだ。ところが茨城県は優しいからこれ以上冷えずに雨で終わってしまう。日本列島はつくづく細長いものだと感心して本日は終わりです。
 
  12月1日(火)

本日から師走となる。「ジングルベルジングルベル金もって来い」の12月でもある。しかし、コロナ渦の中で世の中が冷え込んでおり手放しでは喜べない。これは、世界中で起こっていることだから何とも恐ろしいことだ。

月曜日にアルバイト先の施設で従業員全員がPCR検査を受けた。今日電話があり全員陰性という結果を知らされる。最近、ウィルスがどんどん忍び寄っているような気がしてならなかった。それだけに職場でPCR検査を受け晴れという結果をもらい何かハレバレした。

これで油断をしてはならぬ。これからも深く潜行して息を殺すように生活することにこしたことはない。何事も慎重に慎重にといってもどこに潜んでいるかわからないから防ぎようがないというもの。
あまり深刻に考え神経質なるのものとも思う。ともかく今日のお天気のように晴れの気持ちだけは大切にしよう。
 

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