怠惰な散歩  2021年11

   11月30日(火)

今日で11月も終わり。月暦も残るのは1枚だけとなった。いばぶん理事長と石岡の小桜小学校へ。児童文学作家、今西乃子さんの著書贈呈と課外授業を5、6年生の児童と受ける。捨て犬のミライちゃんを通して命の大切を学んでもらおうという授業。とても勉強になる。

途中、動物の安楽死についても出てきてびくりとする。ただ今読書中が「安楽死」という重いテーマ。そうか、ニンゲンだけでなく動物の世界でもあるのかー。これは一筋縄ではいかない難しい問題だ。

(公)財団法人日本動物愛護協会の理事長も来ている。全国組織だがなかなか普及していなくて関東地方が主な活動の場だそうだ。今西さんも全国を飛び回りイノチの大切さを教えているという。熱心に一つのことに打ち込み活躍している人はキラキラ輝いて見える。
 
   11月29日(月)

山猫が贈ってきてくれた長野特産の長芋を使った長芋そばを食べる。長芋はおいらのハートのように真っ白ですべすべ。温かいそばにすりおろした長芋をたっぷりのせる。そしてスルスルと食べる。これなら歯が悪くても平気。これは年寄り夫婦への思いやりのこもった贈り物。山猫は優しい。バンザイだ。山猫じゃなく優猫と呼ぼうかー。

一年ぶりのご対面となった股引きをひっぱり出してはく。やはり暖かい。これなら少しぐらいの寒さでも平気だ。フットワークよく動けそうだが体は寒さで硬直しているのが分かる。骨身に染みるということはこういうことかー。

「安楽死」を読む。当事者でないととても理解できないだろう。第三者がどうしたらいいとかこうしたらいいとか判断できるものではない。訳者の北岡恭彦先生と友人Oさんの5人で今瀬文也理事長の案内で県西の歴史巡りをしたことがあった。その運転手がおいら。北岡先生は当時は日赤病院院長。昭和天皇の手術執刀。半年間は公安の警備がついたという。お礼に三越から長芋じゃなく紅茶が届いた。もう、10数年前の話だ。
 
   11月28日(日)

昨日は「茨城民俗学会」の談話会。コロナの影響で2年ぶりの開催となった。今回で60回目。おいらは数回しか出席していないような気がする。とても真面目な会員とはいえないが理事という肩書きがついている。それらしきことは何もしていないからこういうのを幽霊理事というのだろう。

談話会は「茨城のまつり見聞」。かすみがうら市の「平三坊」も紹介していた。この祭りは数回写真を撮りにいったことがある。大きなおちんちんが出てきてとても面白い祭事。チャンスがあればまた行ってみたいと思うがなかなか思うように体が動いてくれないのが残念。

股引きの季節になった。一度はいてしまうと暖かくなる来年まで脱げない。そこでガマンをしていたのだがもう限界だから素直にはくことにする。
「バーカ、やせ我慢しないでさっさとはけ。役立たずおちんちんも待っているぞ!!」金魚ちゃんの声あり。
 
   11月26日(金)

「エイャー」と気合を入れた詩人会議に投稿。なにしろ12月号はボツになったから気合が入る。気合で掲載されるなら何度でも叫んでやろうと思うが、世の中はそうじゃないようだ。

これで一段落したので「大生ものがたり」の準備を始めることにする。山猫から鼻水タラタラを見たくないからとマフラーとともに資料も送られてきた。フンドシならぬマフラーを巻いてガンバロウ-と気合を入れる。

ところがポカポカ陽気に誘われ写真を撮りに行く。阿見町の寺院を二つ巡り好みの石像を探す。だが見当たらず。それにしてもりっぱな墓石ばかりで驚く。あんなりっぱな墓石では先祖はさぞかし重たくて辛い思いをしているのではー。「バーカ、貧乏人のやっかみだよ!!」金魚ちゃんの声なり。
 
 photot₌山猫(長野)  11月25日(木)

朝5時に起きて見回り。外に出ると朝焼けが美しい。空気が乾燥して湿気がないからどこまでも澄み渡っている。朝陽が昇る前の数分間だけの美しさだ。これを曙ともいう。曙といえば曙という横綱がいた。相撲取りは体を鍛えるため曙前に起きだし稽古をする。彼らなら二日続けての当直でも平気だろうが年寄りには体にこたえる。

久しぶりに図書館に行く。自宅ではなかなか精神を集中して仕事はできないが図書館なら落ち着く。だいそれた仕事に取り組んでいるわけではないが周囲で黙ってそれなりの顔をしてパソコンを打っていると仲間に入らなくてはとなる。

「ドキュメント 安楽死」イゴール・バレール/エチエンヌ・ラルフ 森岡恭彦訳を読みだす。森鴎外の「高瀬舟の」の世界。テーマが重くて何度もため息をつきながら。訳者の森岡先生とは少しばかりの縁があった。これはいつか書こう。
   
滝の園の朝
   11月24日(水)

今日は定期検診の日。予約は11時たが軽く1時間は待たされる。診察は3分。会計で30分。さらに薬局で40分.ひたすら待つ。暇だからキンドルで立原道造詩集を読む。山猫の初雪の動画を見て山形時代を思い出し詩を書いて返信する。スマホはすごい奴だ。

結局、全部終了したのは午後2時近かった。まあ、暇な退屈オジサンだからいいようなものバリバリ働いている現役ならイライラするだろう。しかし、ここで良く考える。おいらは病院で診察を受けたが自宅に戻れる。病室のベッドで治癒している病人は自宅に帰りたくてもも帰れないのだ。

今晩は連ちゃんの当直が待っているということでさまざまなクスリをもらいそそくさと帰る。クスリ同士がケンカしないもかと不思議に思う。そういうことで本日は終わりです。
 
   11月23日(火)

「詩人会議」12月号には全国詩誌代表作品が載っている。その数は79数冊。ひとりで年数回発行している人もいる。きっと知り合いや友人に配っているに違いない。今はパソコンがあれば自分でも簡単に作れる。ネット印刷で格安に1冊から数百冊まで印刷することも可能だ。

そこで考えるのだ。毎日ブログを更新したり詩を書いたり写真を撮ったりして何になるのだろうーと。きっと毎日が退屈でしょうがないから時間潰しをしているだけじゃないかー。詩誌代表作品の作者も同じではないのかー。

こうやって残された時間を静かに潰しながらカーテンの幕が下ろされるかと思うとなんとなく淋しくなる。「バーカはそれで充分なのだ。詩人の金子光晴は言っているじゃないか。ニンゲンにはそうたんとやることななんかないのだーと」。ハイ、分かりました。
 
   11月22日(月)

朝から冷たい小雨がぱらつく。なんとなく一年の終わりを感じるような寂しい薄墨色の空が広がる一日だった。こういう日は静かにしずかに本を読むべしと、昨日図書館から借りてきた「現代詩の鑑賞」中村稔著(青土社)をパラパラめくり読む。

現代詩とはどうも鮎川信夫あたりからをさすらしい。この詩人の本を手にしたのは高田馬場駅前のパチンコ屋だった。同駅は早稲田大学に近いせいかパチンコ屋の景品として文学書があった。運よく儲け鮎川信夫詩集をせしめた。もう40数年前のことだ。しばらくおいらの本棚にあったが今はない。パチンコ玉のようにコロコロ転がり家出したままだ。

さらに続いて小池昌代まで27人の詩人が取り上げられている。その中で知っているか読んだのは10数人。詩人の世界にはまったく疎いのだ。その疎いおいらは詩人会議運営委員に承諾メール。まったく恥知らずというもの。「バーカはそれでいいのだ!。たんと恥をかけ!!」金魚ちゃんの声。
 
   11月21日(日)

早朝5時からよく歩いた。約1万3千歩で2時間近くひたすら歩いた。その間に写真を撮ったりメールのやりとり。電話もかかって来た。ベンチに座って話していると寒さで鼻水がスルーリスルーリと流れてくる。ああ、寒い季節になったものだと実感。

つくばのみずほ市場で無料で土壌検査やってくれるというので畑から土を取りノコノコ出かける。判定は石灰のやり過ぎでペーハー(?)が高いという。素人は肥料のやり過ぎることが多いらしい。石灰ならぬお節介焼き、。ど素人とはいえこれはこまったものだ。

長野から雪囲いをしたという写真付きのメール。山形で暮らして時はわが家でも雪囲いをした。わが家は祖母と二人暮らしでおいらは年少で役立たず。集落の大人たちが集まりやってくれた。長野の写真を見る限りとてもチャチな雪囲い。きっとそれほど降雪ではないようだ。ただ、北風はどうだろう。冷たい隙間風は辛いものがある。茨城の風土は優しいとつくづく感じる。
 
 
photot山猫
 11月20日(土)

「SNSの時代、その通信の自由、伝播力の大きさはすごい。裏腹に、ことばや思考、想像力が一方では日々、個人化され、孤立化させられるのも事実。嘘や詐欺の手段にもなる。世論を支配することにもなる。状況をどのように捉えるか、認識するかは、詩人に限らない。あえて詩を書こうとすれば、いつも手持ちの知見で間に合わせようとすると、どこか現状、事態の本質からずれる恐れがある。」【「詩集に見る現実と未来」青木みつお】詩人会議12月号。おいらは詩人じゃく痴人。

久しぶりに一眼レフカメラを持って写真を撮りに行く。ここ一カ月はスマホが主体だった。何となく写真らしきものをー。観音寺に行き墓地を歩きながら石仏をパチリパチリ。なかなか気にいったのはない。これこそ出会い頭の偶然。ともかくひと回りして帰る。本堂から読経の声が聞こえる。どうやら法事らしい。それはそれは結構なことでー。
 
photot山猫
 
photo山王姫
 11月19日(金)

70歳を記念して2019年9月から詩を書き始め2年4カ月。その間に258編の詩をこしらえてきた。今年はこれまで101編。3日に1編の割合だ。(バーカ、数多く書けばいいというものじゃないよ!中身が問題なのだ。バーカはウルトラバーカは永遠なりかー。ああ、かわいそう」金魚ちゃんの声。

詩人会議から運営委員推奨のメール。運営委員とはどんなことをするのかと会則を見る。北海道から沖縄まで70名で構成され、年1回東京で開催される運営委員会に出席するとある。おいらは茨城だから交通費は少なくて済むが遠方の運営委員はどうするのだろう。どう考えても交通費は出ると考えられない。

神林留学生奨学会からコロナ禍で年末交流会中止の知らせがくる。去年も中止だったから二年続けてだ。おいらはすっかり忘れられた人になっていると思っていたから正直驚く。年末交流会は留学生の家族も参加するから100人ほどになる。中国、韓国、台湾などアジア各国の出身者が集まる。こうなると交流会どころではないだろう。コロナとの共生生活といっても相手は悪さをするのでなかなか難しい。
 
   11月18日(木)

忘れようとしたことさえ
忘れようと湖岸に立つ
打ち寄せるさざ波に訴える

なんでもないこと
なんでもないこと
さざ波はただ繰り返すだけ

なんでもないことでないから
波に運んでもらおうと
息急きってきたのに

なんでもないことの反復に
忘れようとしたことさえ
思いだしてしまい悲しくなった
 
   11月17日(水)

朝早く山猫から「閃いた!」とメールがありサブタイトルのコピーが送られてくる。いつどこで閃いたのかあまり出来がいいとは思えない。きっとおしっこでもしながら思いついたのだろう。厠という個室は思考の場でもあるがそうでもないこともある。

芝生にでんと座り草むしりをしていたら甥っ子夫婦が突然来る。いろいろ話を聞いていると娘の子供が来年は小学生だという。驚いてたまげる。そうか、もうそんな歳になったのか。まったく月日の経つのは早いものだ。みんな気がつけば棺桶だ。

立原正秋はすごいコンプレックスとエゴを持った作家だったようだ。そして出自が韓国人なので必死に日本人になろうとした。「兄は見栄ぱっぱりでしたね。毅然としていたとも言えるが」弟、金井氏。まだ途中までしか読んでいないのでよく分からないが爆弾を抱えた自信家とでもいうべきかー。まあ、あの高レベルの作家は誰もがどこか狂っているのは間違いない。
 
   11月16日(火)

山猫から電話でスマホを持ち喋りながら朝を歩く。これは散歩に真面目さがないということだ。歩くということは無我になること。頭をまっさらにして歩くことと信じていたが目的を逸脱している。「バーカは無理だよ!」金魚ちゃん声。

土いじりをやる。まるっきりどうでいいようなことだが精神衛生上には素晴らしい。黙示、黙示する。さて、どこまで黙示しているかというと怪しい。「バーカ、ヒマでタイクツだからだろう!!」またまた金魚ちゃんの声。

「茂吉晩年」北杜夫著を読み終えたので「立原正秋」高井有一著(1991年11月発行、新潮社)を読み始める。いずれも土浦図書館から頂戴したもの。最後のページに新潮社発行純文学作品が載っている。こんなものもあるから読めという宣伝。懐かしい作家の名前がズラリ。 三浦哲郎、大庭みな子、小川国夫などなど。みんな物故者。ああ、時間は戻らないのだ!!
 
   11月15日(月)

穏やかな天気だ。11月中旬にしては少し暖かいではないか。地球温暖化のせいなのだろうかー。素人のおいらにはよく分からないが年々暖かくなってきているような気がする。暖冬だと高熱費が安く済んでいいと喜んでいる。一方で、このまま温度が上昇してニンゲン滅亡なんてなればそれどころではないだろうがー。

昨日は精一杯頑張って写真を撮ったので今日はゆっくりする。それでも頑張って写真整理と詩人会議主催の憲法九条アンソロジー詩の校正をして訂正なしで送る。村山さんに頼まれた写真も送る。

わが家から郵便局までとぼとぼ歩いて往復約3366歩。コンビニにタバコを買いに来たオジサン「健康のために歩いて来た」アルバイト若い女子店員「それならタバコをやめたらどうですかー」。これは理にかなった返答。オジサン一本やられたということかー。こういうことはよくある。おいらも用心用心だ。
 
   11月14日(日)

今日は大生神社の秋の例祭。写真を撮らなけれと朝5時に家を出る。あたりはまだ真っ暗。神事は10時30分からからというが朝方の北浦の風景を見ておきたいということもあり日の出前には北浦大橋を目標にする。ロケハンも兼ねているのだ。

北回りコースから北浦に向かう。霞ヶ浦大橋まで約50分で着く。だんだん東の空が明るくなってきた。クルマも空いているからスイスイだ。北浦大橋に着いた時にはもう明るくなっていたが雲に覆うわれ太陽は見えない。霞ヶ浦の朝焼けは何度も見ているが北浦は久しぶりだ。

パチリパチリやりながえら釜谷から鹿島に向かう。清織姫の教えてくれた釜谷の水神様を振り出しに跡宮、甕森神社、大生神社と回りパチリパチリ。村山さんと会いラーメンをごちそうになる。少し、村山節を聞いて帰る。帰宅したのが午後3時近く。10時間近く動き回っていた。ああ、疲れた。まだまだ動けそうだ。バンザイ。
 
   11月12日(金)

瀬戸内寂聴さんが亡くなったニュース。99歳だという。死の間際まで原稿用紙に向かいペンを走らせていたというからすごい。しばらくは書店の本棚を賑わすだろう。林真理子に「作家というのは死んでしまえば、次の年には本屋から本が一冊もなくなってしまうものよ」「私の本で残るのは、おそらく源氏物語の訳だけでしょうね」と語っている。

きっとそんなものだろう。作家でなくてもわれわれ庶民にしても著名人にして同じこと。過ぎ行く日々の中にいとも簡単に埋没され忘れ去られてしまう。

いばぶんの用事で山王姫宅へ。山王姫は少しは元気を取り戻したようだ。大変辛い思いをした体験を聞かされてもなかなか理解できない。何事も当事者でないと真実はわからなものだろう。今日も穏やかな日和でした。
 
   11月11日(木)

長野の清織姫=山猫=メル友=パートナー+茨城民俗学会会員からジャンバーとベストが送られたくる。ジィジィ頑張れというメッセージか?。「大生ものがたり」物忌の順路がメールで送られてくる。だんだん燃えてきた。やはり、未来形に向けて生きるべきだ。

ひたすら土いじりに励む。暖かな日和だ。こういう日は外に出てひたすら歩く。汗ばむぐらいの陽気。何を考えて歩いているのか?。今日の秋晴れのように空っぽ。こうなると空っぽバンザイとなる。

午後、S氏が来る。人材派遣会社に勤めていることから専門学校で掃除人を探しているという。以前、シルバー人材センターで掃除人として働いていたおいらから情報を得ようということ。役に立つようなネタは持っていない。結局、雑談をして別れる。平穏な一日でした。
 
   11月10日(水)

今日はイノチ短し恋せよオジンの健康診断日。滝の園の駐車場で小春日和の下で行われ職員やパートなどの老若男女が健診を受ける。驚いたのは視力検査で若い人が圧倒的に注意されている。これはスマホの使い過ぎの影響かー。瞳はパッチリと美しいが内情は厳しいものがあるようだ。

健診でこまったことがひとつあった。検便があるのでよいこらしょ便器に座ったのはいいがウンチが出ない。食生活が貧しいので大腸の中は空っぽのようだ。お願いだからウンチ様よ少しでいいから顔を出しておくれ!。けちんぼなウンチ。ウンウンうなってほんのチョッピリ。大切に容器に収めた。ああ、疲れた。

秋の空があまりにも美しいので帰りに霞ヶ浦に立ち寄る。ああ空は広くて湖は青くみごとな眺め。うっとりしながらスマホでパチリパチリ。羽根を休め日向ぼっこしているミヤコドリの姿も見える。実に平和な風景。
 
   11月9日(火)

「詩人会議」12月号が送らてくる。これでもう一年が終わったような感じ。おいらの詩は載っていない。寂しい。毎月、画数の多いおいらの名前が出ているとうれしい。悲しき詩人会議12月号なり。詩の投稿は3年を区切りにしばらく休もうと考えていたが来年も頑張ろう。11月8日ここまで書いてブログずっこける。

ここから9日となる。「秋の葉は掃(はら)はず」と中国の詩人白楽天は詠んだそうだ。そういうことでわが家も散った葉っぱを掃かないでしばし秋紋様を楽しむことにする。

詩人会議は年12回のチャンスがあったが本年は9勝3敗の成績だった。数多く掲載されればいいというのではないだろう。やはり内容そのものだ。第三者に読んでもらうということ、読んでもらえるということにはそれなりの説得力がなければならない。それには書き続けるしかない。そういうことで来年は年間をテーマを設け投稿しようと考えている。さて、どうなるのやらー。
 
   11月5日(金)

朝を歩く。午前五時過ぎ。みんな死んだように寝ている時間だ。歩きながら新聞配達をやっていた頃を思い出す。蓮河原町に住んでいる時だ。地方新聞社で働いていたが人減らしでクビになり、さあ、何をして稼ぐかとなり経験豊富な新聞配達を選ぶ。あの頃は毎朝4時に起きていた。そんなことを思い出しながら歩いていると太陽が東の空から顔を出した。

こうやって歩けるのは健康だからだ。滝の園の入所者はほとんどが車椅子。それも自分で大きな車輪を回して動けない人が多い。あの人たちと比較したらこうやって五体満足で歩けるという事に感謝をしなければならないのだろう。

小春日和の一日。本を読んだり、土いじりをしたり。パソコンに向かって仕事をしたり、かあちゃんの買い物のアッシー君をして一日は終わるのです。今晩は当直日バンザイです。
 
   11月4日(木)

テレビを見ながらスマホでブログを書けないものかと指を動かす。ソフトタッチが求められるがなかなかうまくいかない。酒を飲みながらだから最後までま書き続けられる怪しいが老人のささやかな挑戦だ。ここまで5分。それでお終いとなる。目がショボショボしてきたのだ。

久しぶりに山王姫のお顔を拝見に行く。愛猫ピーちゃんが亡くなった。20数年の長いお付き合い。生き物はいつかは命を失うのは宿命と分かっていても淋しいものだ。山王姫の体もあまり調子よくないという。われわれの年代になれば何らかの病気を抱えている。いかに上手にお付き合いするかだー。

長野のメル友は所用があって横浜までクルマで行ったという。一家の大黒柱と自負しているだけに行動力はすごい。それが出来るのは元気な体があってこそ。ともかく現状維持を保つことが大切だとおいらは本日もたくさん歩く。疲れた。
 
   11月3日(水)

今日は行楽日だというのに図書館に行く。なぜかといえばただで不要になった本をくれるというイベントをやっているから。さあ、欲しいような本と出会うことができるか?。秋晴れの爽やかな日だというのに部屋にこもって読書なんてニコニコ笑顔のお天道様に失礼というもの。

失礼を承知で「リサイクルブックフェア」の11時45分組にならぶ。順番からすれば三周遅れ。マニアはもっと早い。どこの自治体の図書館でも行っていることだろうが参加するのは初めて。

品棚は圧倒的に雑誌が多い。それには目もくれず単行本を狙う。お一人様10冊とあるがベテランは大きなカゴにどっさり。退出する時に冊数を調べるのかと思ったらフリーパス。そうか、役所仕事のバカ丁寧さでデカデカと貼り紙をしているだけかー。納得。若いパパママはたくさんの絵本を求めていた。「どうぞ、好きなだけ」と声をかけたくなった。晴れた一日でした。
 
   11月2日(火)

「哲学の使い方」鷲田清一(岩波新書)を読む。そもそも哲学とはなんぞや?となるわけだ。ひとは休みなく何かを考えながら行動しているのだから常に考えていることになる。簡単にいえばいつも哲学をしているわけだ。

ところが哲学者という学者がいる。そこで哲学者というものは何者かとなる。「自分たちの問題をいつもよりちょっと過剰に考えたい人びと」科学哲学の戸田山和久氏は述べている。

過剰に考えるということは終着点がないのだ。どんな問題でも考えれば考えるほど堂々巡りしてしまう。そういうことを考えると頭がこんがらかってくるのでコロコロ花壇の手入れに集中する。ヤギ一家からもらってきたもみ殻を撒いて「どうか、土さん元気になっておくれ!」と励ます。これを「行動哲学」とでもいうのだろうかー。終日、暖かく過ごしやすかった。お日さまよありがとう。
 
  11月1日(月)

さあ今日から11月、フンドシを締めて張り切って行こう。そういうことで歩くことにする。ただ歩くただ歩く。何も考えずに小松界隈を歩く。すれ違う人はいない。サイフも落ちていない。スズメが電線にとまっている。限りなく静かだ。なんだか町が死んでいるよう。

整復師会から連絡あり。記事は全面差し替えという。新広報部長がこれまでのカラーを打ち破ろうと紙面作りを大胆に変えたが総スッカン食ったらしい。どうなることやらー。

清織姫が「黒ニンニク欲しいか?」の電話あり即座に「欲しい!」といったら本日たくさんの食料品とともに送られてくる。かあちゃんと二人で拍手して大喜び。食べられるものなら何でも大歓迎だ。わが家の食生活の貧しさを白状しているかもしれないがとにかくあり難いのだ。同封されていた彼女の小論文をフンドシ締めて読む。物忌を勉強しなければー。さて、どこまで頑張れるやらー。
2021年
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