怠惰な散歩  2020年11

   11月30日(月)

今日で11月も終わり。月例カレンダーは1枚残すのみとなった。ここを乗り切れば新しい年を迎えることができる。うまくゆけば73際の誕生日を祝うこともできる。これはどうなるかわからない神のみぞ知る。

「ホモサピエンス全史」の著者ユヴァル・ノア・ハラリはあらゆる動植物から見たらニンゲンは神であるという。考えてみればニンゲンはあらゆる生き物を支配しており生かすことも殺すこともできる。その裁きの手をニンゲンは持っている。思い返してみればそのようなことを何度もやってきたことに気づき唖然。

庭の菊をばっさり切る。すっきりしたが茶色の土がむき出しになり何となく寂しい。しばらくは枯山水の庭を見ながらのぼーっ生活になる。季節は巡り必ず春は訪れるとわかっていてもやはり寂しいものだ。
 
  11月29日(日)

空は弱虫だから
晴れる勇気がない

空は今日も
雨を降らせる

弱虫と勇気を
ひらがなで書くと

よわむしはよわむしで
ゆうきはゆうきを
しっているようだ
 
   11月28日(土)

朝、潮来マリーナへの郵便物を赤いポストに入れる。帰りは小松霊園を通り大きな切り株に座り一服。あたりはピカピカの一年生ならぬピカピカの御影石が朝日に照らされている。実に美しい。

「喪中につきー」というはがきが届く。今年はいやに多いような気がする。そういう年齢に達するまで生きてこられたことに感謝すべきかー。神林留学生奨学会からコロナの影響で12月19日に予定していた恒例の「年末交流会」は中止しますとご丁寧な連絡がくる。そのような案内が今年は多かった。どんな人が参加するか楽しみにしていた詩人会議の表彰式もコロナにノックアウトされた。

どちらも会場は感染拡大が続いている東京。とてもじゃないが常磐線に揺られて行く気もしない。暗い令和二年となった、いやまだ続いている。終息が見通せないだけに辛いものがある。それにもまして医療従事者は毎日が命がけのようなもの。なんともコメントのしようがない。
 
   11月27日(金)

朝、潮来マリーナからの郵便物を受け取りに行く。自宅へ帰ってから追加ページ作りに励む。頭に描いていたものが一つのたたき台となって目の前で見るようになると「あれも入れたい、これも入れたい」となる。そのたびに追加され手直しとなる。もう3度目だ。こういうのを宮沢賢治ではないが「注文の多い料理店」ならぬ「注文の多い注文主」とでもいうのかー。簡単に終わると思ったら午後2時までかかる。ああ、疲れた。

気分転換にブックオフへ。本棚の背表紙を見ながらブツブツ。おいらの現在のハート感覚ぴったりのはないかとまたブツブツ。要するに何を求めているのか自分でも分からないのだ。ただ、山ほどある本を眺めながら歩くだけだ。これも散歩のひとつと考えていいのだろうかー。

「我らが少女A」高村薫を1冊買う。2017年に毎日新聞連載された単行本。これまでの経験から新聞連載されたもするのはあまり面白くなかった。これはどうだろう。なにしろ好きな作家のひとりだから大いに期待をこめてレジで210円の支払いをする。バカ丁寧なアルバイトの女子店員は深く頭を下げ「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしています」。ハラの中ではどう思っているか知らないが何か高価な買い物をしたような気分になる。
 
  11月26日(木)

水戸で開かれている「紅雨の書」の展覧会を山王姫とかあちゃんの三人で見に行く。会場を探すのに少し迷ったが無事到着。物置きを改造したという「ゆずり葉ギャラリー」はつくば文化郷のギャラリーを小さくしたようなもの。展示作品は女性らしく細やかでなめらかな書が飾られている。南岳先生とは違った筆の運びのように感じる。

深見先生は来年の四月に「ギャラリー長や門」で展覧会を開催してくれるという。簡単な打ち合わせをする。薬膳カレーをいただく。手入れの行き届いた日本庭園を見ながら一服。こういう庭を見るとどうしても山王姫宅の庭と比較してしまう。この庭は整っているが重みというか風格が乏しいような気がする。

眩しい西日をまともに受けるというスリル満点の運転をしながら帰る。自宅へ戻ると姫丸子から九州土産が玄関に置かれている。潮来マリーナから追加資料の不在連絡票もきている。ともかく姫丸子にお礼のメールということで本日はお終いです。
 
   11月25日(水)

「探し物は何ですか?」「立原道造の詩集です」。土浦図書館に「立原道造詩集」がありました。ところが貸し出し禁止。「館内で読んでください」とのこと。そういうことでチラチラめくり読みました。何度も読み返しているのでチラチラでいいのです。ほかにも関連する本があるので借りる。

「なぜ彼があれほどまでに、4433の14行詩にのみ彼の詩型をかぎったかわからない」吉田精一。彼は二十四歳八カ月で夭逝した。

のちのおもひに」(一連目のみ)
夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかえつた午さがりの林道を
 
   11月24日(火)

今朝はよく冷え込んだ。いつも5時に見回りするのだがよく眠れたせいか目をさましたら6時近かった。簡単にいえば寝坊したのだ。それでも外は暗い。懐中電動を持って施設内外をひと回り。いつもながら特段の異常はない。もう一つの老健施設「だんらん」にいる宿直員が食事を受け取りに来る。左足のかかとが痛いと言っていたが治った様子。マスク越しにニコニコしながら「もう大丈夫」。

「知の旅は終わらばい」立花隆(文春文庫)を読む。あとがきで立原道造の詩「萱草に寄す」が好きだから最後にこれを書きたいとあった。立原の抒情詩は大好きだ。うれしくなって詩集を探すがない。手元に置いていたはずだがない。あきらめる。明日、図書館に行って借りよう。それにしても立花さんに早く書いて出版して欲しいと願う。大いなる楽しみだ。

そういうことでつつがなく今日も終わりました。
 
   11月23日(月)

わが家は三連休というのは死語に等しい。なぜなら毎日が連休続きで素潜り状態だから「GOTOトラベル」はまったく計画になし。ところがところがだ、どうぞご勝手にとノー天気なこともいってられない。このキャンペーンで明日の糧に希望を見いだそうとしている人々もたくさんいる。コロナと共生しながら経済を動かすという至難。それにもまして医療従事者の現場を考えるとー。

社会に負担をかけないように年寄りは菜っ葉飯を食べ浅い呼吸をして静かにしているべき。わが家の周りはひっそりとして静かだ。まるでニンゲンが住んでいないのではと思う時がある。

そういえばわが家の小鳥のエサ台にスズメも来なくなった。キジバトも姿を見せない。何処かの飼い猫が時々ノロノロと庭を横切っていくぐらい。それでも一日は一日であるのは確か。変化があるとすれば今晩は宿直日。そして明日を迎えることになる。今日よサヨナラだ。
 
   11月22日(日)

人びとは解放を求めている。コロナ禍という目に見えないない敵に遭い閉ざされた世界を求められ、人びとは息抜き場を求めてる。あからさまにニンゲンという哺乳類の動物性。それを見透かしたように空は限りない青さを称えている、

かあちゃんの親戚が三人も遊びにくる。みんな六十代半ばで孫がいるという。孫の保育園への送迎運転手をやっているという人もいる。さらには学校給食の会社でアルバイトをやっている人も。こうなると六十代とはいっても現役バリバリ。元気で働けるということはいいことだ。

ああでもないこうでもないと話が弾んで三時間近く駄弁っている。みんな子ども時代の懐かしい話。おいらは昔のことはわからないので時々顔を出して話を聞くだけ。合間に庭に出ては手入れ。こうして庶民の一日は静かに過ぎていくのです。
 
   11月21日(土)

小春日和というのか実にさわやかなお日柄。今日から三連休ということもあり絶好の行楽日和。コロナの第三波が襲来ということで今日の人出はどうだろう。わが町では桜町の飲食店でクラスターが発生。多くの陽性者が出ている。

土浦市役所、図書館は桜町に近い。何となく不安だが図書館に行く。広場でには出店も繰り出し客を待っているがカンコウ鳥。そもそも通りには人が少ない。その中から間違えてやってきたような客を待つのだから大変だ。ご苦労なこった。

隣りの若い姉ちゃん。パソコンにスマホ、さらには7冊も参考書を積んでいる。頑張っている若い人もいるものだと感心する。ところが1時間近くになるがまだ1冊の本も開いていない。チラチラ見るとスマホで何やらゲームをやっているらしい。耳にはしっかりイヤホン。顔には大きなマスク。世の中のことがよく分からなくなる。
 
   11月20日(金)

いつものんびりしているが、本日はかあちゃんとのんびりぼうっーと過ごす。こいうのを夫婦ぼうっーではなくダブルウルトラぼうっーとでもいうのかー。すごいものだ。

本を読んでいたらメガネが汚れ読みにくい。そこでメガネを洗う。ウワーきれいになったと喜んだがやはり読めない漢字はメガネがきれいになっても読めないことに気づく。新発見。

シイタケ栽培の成功を期待して花木センターで教わったように原木を水に浸す。これでうまくいったら派手に収穫祭をやろう。もちろん山王姫への献上を忘れてはならない。
 
   11月19日(木)

370円のレターパックを持ちカメラをクビからぶら下げ郵便局へトコトコチョボチョボ歩いて行く。わが家から郵便局までは一の坂、二の坂、三の坂を上り信号を一つ越えて20分ぐらいかかる。軽い運動にはもってこいのコースとなっている。

帰りは目指す無縁墓地(?)の一角でひと休み。一服した後、石仏の写真を撮る。思わず「墓石に訊く」の詩の1連目の言葉がが浮かぶ。メモ帳もないから憶えておこうとスタコラスタコラ帰る。自宅についたとたんすっかり忘れている。これが忘却というもかー。それも良しとしよう。

午後、昨日の約束通り美野里の花木センターに行く。百花繚乱の花にクラクラする。結局、花を買うことなくサヤエンドウの苗とシイタケの原木を買う。花より食う方が先だ。山王姫とかあちゃんは団子を買ってニコニ顔。ああ、幸せはどこにでもあるものだと実感する。

■大久保純子邸の庭 番外編


 
   11月18日(水)

この日の滝の園の朝は忙しい。数十人の職員はお揃いのハッピを着て軍手をはめゴミ袋を持ちゴミ拾いに出かけた。そのため、おいらが朝帰りする時は事務所には誰もいない。帰りの車中から「欣水会」とネームがはいったハッピ姿の人たちがゴミ拾いをしている。エライものだ。

潮来マリーナのプリントをやる。5組16ページで2時間近くかかる。明日郵送することにする。気が向いたように庭の手入れ。お隣さんも電動芝刈り機で念入りにやっている。郊外の仕事をやるにはもってこいのお天気。気持ちいい。

夕方、明日花木センターに花を見に行かないかと山王姫に電話、了解という返事。それからが大変。本を読もうとメガネを探したがない。確かさっきまでメガネをかけて本を読んでいたのだ。リビングと我が書斎を行ったり来たりして探すがない。結局、時間切れで明日の仕事とする。こまったものだ。

 
   11月17日(火)

ー グローバルな信頼関係が確立された社会が実現すれば素晴らしい — その後、私たちは何をするんか?「死や自らの脆弱さ、はかなさと向かい合い、生の意義を考えることー」。「緊急提言 パンデミック」 ユヴァル・ノア・ハラリ著。(河出書房新社)

なにが必要な情報が必要か、ということですが、ぼくはとどのつまり、生命の尊厳を伝える情報が最も必要でかつ重要な情報だと思います。「ガラスの地球を救え」手塚治虫(光文社)

いばぶん事務所へ行く。ひょっこり元相棒が参上。マスクを着けていたので最初は誰だかわからずキョトン。元気そう。ひとことふたこと言葉を交わし風のように消える。その後、潮来マリーナの社長が娘さんと来る。娘さんは社長を事務所で下すと「せっかくつくばまで来たのだから」と買い物へ。大生・大野家の最終打ち合わせを済ませる。これでようやく解放されるようだ。バンザイ。
 
   11月16日(月)

いばぶん事務所へ行く。つくば文化郷には使っていない建物がたくさんありほとんどが物置きとなっている。世代交替したこともあって今は整理に追われている。裏の蔵で3人がかたづけをしている。そこで少し手伝い不用の本を少し貰う。

先代は新しい事業を始めるにあたってたくさんの物を買ったらしい。その事業が終了すると捨てないで蔵などにため込んでいた。その数は半端ではない。こうすけさんはどんどん捨てる。今の時代はスマホがあれば何でも知ることが出来る。重い本をわざわざ開くこともなくなった。紙の文化はどんどん肩身が狭くなってきているようだ。

おいらは古い人間に属するからやはり紙文化を愛する。キンドルも持っているがほとんど利用しない。ただ、堀田善衛の「若き詩人たちの肖像」はキンドルで読んだ。電車を利用する人には便利だろうがクルマ社会にどっぷり浸かっている人には必要ないようだ。
 
   11月15日(日)

最近、足の膝が弱ってきたと感じる。歩いていると膝がカクカクと音をたてて悲鳴をあげている。新聞やテレビではサプリの宣伝が目立つ。きっと高齢者に共通する悩みなのだろう。サプリは一切信じていないから服用していない。きっと飲めば効いているという安心剤のようなものだろう。

足腰は弱っても頭の髪はそれなりに伸びるようだ。そこで床屋に行く。鏡に映った自分の顔を見て驚く。無精ひげボサボサ頭に浅黒い疲れた顔。いかにも貧くさい顔がしっかりと映し出されている。ああ、これがくたびれた老人かー。

それでも生きなければならない。物置きの整理をやる。きっと全部捨てていいものだろうがなかなか処分できない。何かの時に使うかもしれないと結局数点を捨てることにして終わり。電動自転車を掃除する。せっかく兄貴に買ってもらったのに眠っている時間が長い。かわいそう。
 
   11月14日(土)

潮来マリーナの最後の仕上げに取り掛かる。早く決着をつけたいという一念でガンバル。昼過ぎに出来上がり土浦郵便局に行き郵送する。郵便局は混んでいる。こちらは局員も客もマスクをしている。前のお客がアメリカに送るという段ボールを抱えている。担当者「船便しかないので数カ月もかかる」。渋々、ほかの方法を考えると持ち帰る。コロナ禍で飛行機が飛んでいないらしい。

飛びたくても飛べない飛行機は大きなゴミのように邪魔者扱いされ待機しているのだろうか。そうだとしたらとてもかわいそう。コロナは強い奴だとあらためて認識する。

神谷美恵子詩集「うつわの歌」(みすず書房)を読む。「絶望の門」に感動する、いやもっとたくさんある。そそくさと夕方家を出て宿直の仕事に出かける。外は真っ暗。
 
   11月13日(金)

潮来マリーナに行く。小さな仕事をもらったから勇んで行く。勇んでも片道1時間半はかかる。往復3時間クルマの中に閉じ込められているのかー。お天気がいいからドライブには最高のようなだがドライブを楽しんでいる気分にはなれない。ただ遠いと感じるだけだ。

潮来マリーナはコロナ禍の中にあっても混んでいる。屋外で魚釣りをするのだから関係ないとでもいうようにマスクをしている人は少ない。ヘラブナの釣り場を見ると2、3メートル間隔に空け釣り糸をたらしジーッとウキを見つめている。

カモとなるはずのヘラブナはどんな思いで泳いでいるのだろう。きっと水は冷たく寒いだろう。「食いが悪い」と釣り人はぼやいている。それでも何度もエサを付け替えては挑んでいる。ヘラブナだってその日によって気分がいい日と悪い日があるはずだ。ぼーっとおいらは成り行きを見ている。釣り人は釣った魚を水に戻すのだから生産性がない。おいらもない。それでうまくいっているのだ。
 
   11月12日(木)

今朝の朝日新聞に瀬戸内寂聴のエッセーが載っていた。転んで頭を打ったが「頭と右手さえ無事なら」という。98歳になつてもしっかりしている。文豪と伝えられているある先輩も、あの女流の大家も、晩年には、先月と同じ原稿を書いてきたりしたという。その人たちの年齢を越えているという。

毎日ブログを書いていればネタも尽きる。いつも同じことを書いているかもしれない。それでも書きたいから書くということに意義ありとする。これは、いわば生産性的労働のひとつと自分に言い聞かせているのだからー。

図書館でお勉強するということは最低2時間の禁煙を強いられること。これはいいことだと思うが図書館を出てクルマに乗り込むとプカプカとすぐに始める。2時間の辛抱が反動となってやたらと数からとんでもないことになる。生きていればいつとんでもないことに出くわすか分からない。そういうことで、「それでいいのだ」と、またプカプカ。こまったものだ。
 
   11月11日(水)

滝の園の健康診断日。駐車場に2台の大型バスが待機している。職員がゾロゾロやってくるが全員がマスクをしているので顔が分からない。もっとも普段は顔を合せないから名前も顔も分からないのは当然。その中で宿直職員の年寄り2人と顔を合わせ雑談。二人とも押し寄せる老いについて愚痴ることばかり。空は晴れているが会話の内容は限りなく暗い。

若い職員はキャッキャッとはしゃぎながら健康診断を受けている。年寄り3人の輪とはあきらかに違う。彼ら彼女らには老いに対する不安がない。遠い遠い未来の暗い話などはるかに縁遠い親戚のようなもの。おいらにもそういう時代もありました。

土浦図書館に枕替わりになるようなぶ厚くて重い「吉本隆明全詩集」を返しに行く。それこそ斜め読みだったがおいらには難しい。もっと優しさに溢れた詩集を読みたい。そういうことで今日は終わりです。


 
   11月10日(火)

朝5時、巡回だ。施設内は一晩中暖房をかけているが一歩外に出ると思わず「寒い!」。今朝はこれまでで一番冷え込んだのではないか。頬にあたる空気がビシビシと肌に刺さるような感じ。眠気などいっぺんに吹き飛んでしまう。

昨日は休刊日。今朝の新聞にようやく米大統領選でバイデン氏勝利の記事が一面に載っている。もう、世界中の誰もが知っていること。それでも新聞の矜持とでもいうのか多くの紙面をさいてこと細かに報じている。ご苦労なこった。

天気予報では今日は快晴と伝えている。空を見あげる。大きな空は一面青色.。どうして空は広いのか?青い空の裏側はどんな色をしているのか?ちょっとひとめくりして覗いてみたいような青さだ。破れて青ざめたトランプ大統領は「まだ選挙は終わっていない」という。世界中の了解事項と思われるがー。ご苦労なこった。
.
 

 
 11月9日(月)

久しぶりにK氏からメールが入る。入院して10キロ痩せたという。リハビリに励んでいるがいつ退院できるか分からない。面会謝絶で身内以外は会えない。毎日、スマホとにらめっこしてテントウムシの次ぎのまとめを考えているという。

平均寿命が80年というのはマジックがあり、現在70歳の人が80歳まで生きれるというのではなく、今日産まれた零歳の子が平均80年生きるという意味という。初めて知った。知ったからといって自分の寿命を操作できるわけではないから無視することにする。

今晩は当直日。夕方出かける時間は外は真っ暗。随分とお日さまはお隠れになるのが早くなった。これが段々と日がのびてくるのだから不思議。当たり前といえば当たり前だがやはり不思議だ。
 
   11月8日(日)

スマホでブログを書こうとはじめてみるがなかなか思うように進めない。慣れなければと頑張ってみるがイライラが募ってくる。イライラすることは自分の能力をさらけだしているようなものだ。まあ、これが身の丈にあったことだろうと諦める。

まあ、書いている内容がお粗末だからそれでもいいのか、爺さまは山へ芝刈りというわけで今日もビニールを敷きデンと座り込みエンヤコラ芝の手入れに励む。この時間が精神的にすごくいい。イライラしないのだ。

ラジオのニュースではバイデンがアメリカの大統領に当選、巨人の坂本が2000本安打達成を知らせる。さあ、これらの事項がおいらの生活にどのような影響があるのか。これこそ神のみが知るのみです
 
   11月7日(土)

庭の芝刈りをしているうちに「そうだ写真を撮りに行こう」。そういうことで「断捨離の祈り」の写真を撮りに出かける。いつも出会いがしらのようにして石像の写真を撮っている。祈りの石像がたくさあるのはお寺の墓地。そういうことで竜ケ崎方面の寺を目指す。

七五三のお参りに来ている人もいる。たいそうりっぱなお着物は貸衣装だろうか。足もと落ち着かずフラフラと酔っぱらいのように歩きながら参詣している。それをパパママとジイサマバアサマがスマホでパチリパチリやっている。きっと自慢げに手あたり次第に見せるのだろう。

豊かで成熟した社会というのはこういことを指すのだろうか。おいらは石仏を探し墓地をキョロキョロしながら歩く。これも豊かで成熟した社会のひとコマだろうかと考える。田んぼの中にポツンとある大きなお寺。樹木のない寺院はどこか殺風景で寂しいものだと思いました。以上、終わりです。
 
   11月6日(金)

久しぶりにいばぶん事務所へ行く。つくば文化郷事務局長が在室していたのでギャラリー申し込みの一覧表を見せてもらう。驚くなかれ来年は予約がいっぱい。5月などはすべて埋まっている。今年はコロナ禍でキャンセルが多かったというからその反動かー。それとも来年になればコロナは終息していると決め込んでいるのかー。ともかく文化郷が賑やかになり活気づくのはいいことだ。

ギャラリーの現況を山王姫に報告。山王姫の知り合いの書家が展覧会を開くということで仮予約しておく。動けば回るというが、こういうささやかなイベントをやりながらぼーっ頭に刺激を与えなければと思う。

朝、昨日プレゼントされた葉ボタンを植える。冬は花が少ないから何とか賑やかにしようとやたらめったらゴジャゴジャに植えている。そういえば、動けば回るオーナーから頂いたシイタケが実り始めた。「寒くならなければ駄目だよ」とオーナーは話していたが見事に命中。野菜作りは先人の知恵を素直に聞くべし。やはり、百姓は強い。
 
   11月5日(木)

久しぶりに山王姫宅へ。元気そうだがマスク越しでよくわからない。それでも声を聞くと元気はつらつ。晴天の空に広る。そこで花木センターへお花を見に行く。ところがおいらが目指しているのと違う。おいらは美野里の「どきどきファーム」。山王姫が案内してくれたのは「花木センター」。

初めてなのでキョロキョロする。とにかく広くてお花の百貨店さながらで圧倒される。目移りしばがらぼーっと歩く。全部見て回ろうとしするなら半日はかかるほどの花繚乱。欲しかった花キャベツを求めると山王姫が勘定を払ってくれる。ああ、ありがたやー。

最後に靴下を4足もらう。下駄ははけなかったが靴下なら伸縮するから大丈夫。靴下にはたくさんのプレゼントが入っているはずだと覗くが空っぽ。「バーカ、いつまで甘えているんだ、恥知らずのよれよれオジンよ!」今回はやや長い金魚ちゃんの声が届く。「はい、わかりました」ということで本日は終わりです。
 
   11月4日(水)

行方市の西連寺に写真を撮りに行く。お天気が良かったら写真を撮りに行くことを昨日から予定をしていたからお天気が都合をつけてくれたようだ。西連寺は何度か足を運んで写真を撮りに行った。主に新聞社時代だ。「湖とともに」の連載で住職にインタビューをしたこともある。

今日の写真撮影の目的はこれまでとは違う。「断捨離の祈り」をまとめるため。これが本当に仕上げることができるかおいらも分からない。それでも写真を撮るのだ。

西連寺境内は静かなもの。樹齢千年とイチョウの大木がデンとそびえている。とにかくデカイ。黄色く色づくのはこれから。あちらこちらから眺めその大きさに脱帽。やはり、人は逆立ちしても自然の逞しい生命力には勝てないとうつ向きながら帰る。終わりです。
 
   11月3日(火)

今日は文化の日。祝日だからといって日の丸の国旗を玄関先に出している家は見当たらない。文化の日を記念してとこだわったわけではないが図書館で「吉本隆明全詩集」を借りる。広辞苑より厚い。総ページ1883ページある。全部読み切れるわけがない。ただし枕替わりにはなる。定価は印刷されてなく鉛筆で25000円と手書き。

初版が2003年7月で12月には第2版が出ている。そんなに読み手があり売れ行きが好調なのかとネットで調べる。中古、すなわち古本で12500円也とある。おそらく購買者は図書館などの公的機関、研究者などが多いと想像する。

吉本隆明の評論はそれなりに読んだが詩編は数えるほど。詩の斜め読みでもいいだろうと悠長に構えている。人生、悠長に構えていたら終着駅が近づいていることを親しい人の逝去で知る。この辺の折り合いをうまい具合にくぐり抜けるのは難しいようだ。
 
   11月2日(月)

今夜は仕事日。体力を考慮して家で過ごすことにする。これまで翌日の宿直はなかった。今回が初めてだ。日中はどうしても夜のことを考え落ち着かない。これはいけないことだと庭の芝生を刈る。体をこうやって動かしているだけで気分が爽快になる。不思議だ。

「コンピューターは(一度インプットしたことを)決して忘れない」「ヒトは忘れるから憶えられるのである。この瞬間消却の選択機能、記憶の圧縮・濾過機能はコンピューターにはできない」「つらいこと、悲しいこと、いやなことほど人は早く忘れるようにできている。逆に楽しいことはいつまでも憶えていられる」中沢正夫著「なにぶん老人は初めてなんもんで」。

楽しいことを思い出しながら芝の手入れ。ところが楽しいことよりぼーっと過ごしてきたこれまでのことしか浮かんでこない。どうしたものだろう。人間とは面白い哺乳類だ。
 
  11月1日(日)

今日から11月。コロナ禍で揺れ動いた今年もあと二カ月だ。さて月始めということで「十一月になれば」というタイトルの詩を試みる。

十月とオサラバするが
十一月になっても
生ある人は
生きなければならない
立ったり座ったり
歩いたり駆けたり
ため息ついたり
曇る日も照る日も
生きなければならない

 



おひまな方はこちらへ