怠惰な散歩  2020年10

   10月31日(土)

「疲れを知らない子どもを見て元気をもらおう!」ということで晴天の空の下をクルマを走らせ乙戸沼公園に行く。爽やかなお天気に誘われやってきたパパとママと子どもたちが遊んでいる。中には小さなテントを張りハロウィンを楽しんでいる家族もいる。

滑り台には「2メートルあけて遊んでください」という横断幕。そんな呼びかけに応じる子どもなどいるわけがない。マスクもせず伸び伸びと走り回っている。行政としての責務遂行の横断幕だろうがどこか間抜けのピエロのように見えてくる。

ピエロはお道化てヒトを喜ばせるのを職業としているから、それを見習っての横断幕だとしたら土浦市も粋なことをやるものだ。漫画家の手塚治虫は「ガラスの地球を救え」の中で「子どもというのは、生命力に満ちているし、その可能性は無限です。ただし、豊かな美しい地球あればこそ、の話です」と述べている。子どもよ遊べ!だ。
 
   10月30日(金)

わが家の小鳥の餌台にスズメとキジバトなどがやってくる。最盛期にはスズメが15羽もやってきてピーチークパーチークをついばんでいたが最近はたまに数羽しかやって来ない。そのたまにしかやって来ないスズメを狙って猫がやって来る。

花壇に咲いているコキアの陰に隠れたりしてジーッとスズメが来るのを待っている。その忍耐強さは見習うべきかー。スズメは不意にやってきて餌をチョイとついばんでは慌ただしく飛び出すので、とても攻撃する時間などない。それでも次にやって来るスズメを待っている。

おいらは暇人だからその成り行きをぼんやりと眺めている。決して高尚な考えに浸り眺めているわけではない。ましてやスズメを捕まえるなどという生産的な考えもない。ただ、ぼーっと眺めている。閑静な住宅街だからぼーっという音が聞こえるほどだ。ああ、有り難き我が人生よ!!
 
   10月29日(木)

インフルエンザの予防接種を受ける。仕事が老健施設の宿直だけに健康には何かと気遣う。焦っているわけではないが一番乗りだった。注射器を見ただけで寒気がするという職員が目を閉じて順番待ちをしている。世の中にはいろいろな人がいるものだ。

いばぶん事務所へ。銭のなる仕事に没頭、といっても1時間半ほど。庭に置かれているモニュメントで隣の家の猫が気もちよさそうに眠っている。うたた寝というのだろうかー。その環境を整備した主人は亡くなってしまった。世の中の儚さを感じながらぼんやり眺める。

今年は少しはおいらの部屋も暖かくしたいと電気カーペットをケーズデンキで買う。ついでいに葉物の野菜を植えようとほうれん草などの苗をジョイフル本田で買う。何かを買えばお金が出る。世の中、お金があれば何でも買える。買いたいものを買えるわが家は裕福、幸せ者か。ただ、一番廉価なものにこだわるのは筋金入りの貧乏人根性というべきかー。それでもいいのだ!!
 
   10月28日(水)

潮来マリーナに行く。マリーナでは釣り堀の桟橋を修理をしている。広い土地と建物を所有しているだけにその維持管理も大変だ。お金もかかるからその分稼がなければならない。娘たちは現状の商売だけで生活が落ち着いているから充分という。ところが「動けば回る」と85歳になっても意気盛ん。

大生殿神社に写真を撮りに二人で行く。神社というが本来なら大生殿のお墓がある塚。人気もなく人家から離れているから悪い奴から狙われ拝殿の銅板張りの銅板が全部盗まれたという。ブタが盗まれたり果物が盗まれたりと世の中が変になっている。

帰り、玉造の道の駅で鯉こくを買う。これは山形に住んでいた時は大変なごちそうだった。近所のスーパーでは売っていない。鯉の養殖が盛んなこの地方特産だ。鯉こくをつまみのチビリチビリ。のどをごくりとさせて帰るのでした。

インドのパピアかられメールあり。元気そうでなによりです。
 
  10月27日(火)

大きい涙
小さい涙
水玉に写る
悲しみの連鎖

雫はみんな
透明だけど
悲しみの色で
呼吸をしている
時おり 流れたり
立ち止まったり

悲しみは
風に吹かれ
静かに去って と
歌っている
 
   10月26日(月)

コロナ禍とは関係ないが、「コロナ後の世界」(文春新書)で、ジャレド・ダイアモンド氏は「振り返ってみると最も生産的だったのは七十代でした」と述べている。氏は現在82歳で、アメリカの地理学者。おいらは七十歳を過ぎた頃から、「もう終わった人」「もうこれが限界」と常々考えていただけに驚きより感嘆。

滝の園で車椅子を余儀なくされ余生を過ごしている高齢者をたくさん見ているせいかも知れない。しかし、アメリカの大統領選は七十歳を超えた二人が争っている。どちらがか勝つにせよ七十過ぎのジイサマが一国を背負い闘おうとしているのだ。高齢社会だ。70歳を過ぎても頑張っている。マイナス思考の修正が必要のようだ。

詩人で翻訳家の谷口女史より突然の電話。「今、谷田部にいる」。気分転換に朝6時に家を出てひたち海浜公園にコキアを見に行くという。今日は義兄のお通夜と伝える。一方的に詩人クラブや近況を話し慌ただしく切れる。詩人の戯れとでもいうのか、これこそ不可解な人種。今晩は当直日で出棺だけで済まさせてもらう。
 
   10月25日(日)

快晴の今日は納棺の日。お別れの儀式を一つひとつ済ませて行く。朝、山之口獏の「告別式」の詩を読む。明るい貧乏、暗い貧乏。どちらがいいかといえば明るい貧乏に決まっている。長編詩の「沖縄よどこへ行く」は圧巻だ。返還前に書かれた沖縄人による沖縄人の切ない素朴な言葉が痛々しい。

故人の子供たちは葬儀社とお通夜や告別式の段取りの打ち合わせをやっている。それでも明るい声が食堂内に広がる。もう、みんな全部ふっ切れたのだろう。ふっきれるというのは当たり前のこと。時間は戻らないのだ。

ながみね温泉に行き疲れを癒す。閑散としている。当たり前のような気がする。こんな晴れた日に年寄りだけが利用する施設に年寄りも遊びに来たいとは思わないはずだ。本当に、今日の青空は疲れた心を白い雲で洗ってくれる心地よいものだった。青空よ、ありがとうございます。
 
   10月24日(土)

山王姫から貰った下駄をはいてみる。下駄をはくなんて何年ぶりだろう。中学生の頃はデカンショと呼ばれた下駄をはいていた。田舎の砂利道では下駄の歯に石がはさまりそのたびに下駄を脱いで石を取ったものだ。さあ、わが家の前の健康坂をカランコロンと音をたて歩いてみたらどうだろう。

ところが下駄が小さい。弟さんがはいていたというがこんなにかわいい足をしていたのか。ともかくはいてみると踵が5センチほどはみ出している。おいらの足はバカの大足だからこういう時にはこまる。俳句には字余りというのがあるが、この場合は足余り踵余りとでもいうのか。もう一つおまけにあしからずもある。

今日はお天気が良かった。土に誘われように畑を耕すといっても十数分。息切れがするのだ。寺山修司の「田園に死す」という映画があった。このままパタリといっていいような心地良さ。お天気は人々を曇らせたり晴れたりさせる魔物だ。
 
   10月23日(金)

義兄が昨晩11時ころ亡くなったと今朝知らされる。82歳だそうだ。あまり深い交際もなかったから、静かに逝って欲しいという子供たちの声を聞いていたこともあり、ああ、静かに旅立たれたのかと驚きもなく聞いた。

近しい人が次々と亡くなり順番が近づいているように感じる。終わった人は今日の霧雨のように静かに消えていくのが摂理というものだろう。誰にでも平等にやってくる宿命。これは人間界に限ったことではない。

カレーを作りたくなったので具材を買ってきてコトコトコットンまな板の音色も美しく始める。何かに没頭していればいい。「性格とは何か」小塩真司(中公新書)を読んだりカレーの味具合を確かめたりして一日は終わる。
 
   10月22日(木)

「コロナ後の世界」ジャレド・ダイアモンド他5人著(文春新書)を読む。それぞれのテーマで読みごたえがあり一気に読み終える。コロナがいつ終息するか世界中の知恵者が知恵を絞っても分らない。それならコロナ後の世界など誰にも分らないのも事実。だからこれはあくまでも予測、憶測、推定となる。結論からいえば「コロナのことはコロナに聞いてくれ!」となる。

久しぶりに山王姫宅へ。ピーちゃんは炬燵に入ったまま姿見せず。人間でいえば90歳を超しているという。滝の園の10月の誕生日一覧では最高は103歳、最下位は84歳。90代が圧倒的に6人ほど。本当に長寿社会になったものだ。

山王姫、ピーちゃんの介護のための部屋作りに奮闘中。頭の中でいろいろとシミュレーションしているようだ。ただ、体が思うように動いてくれない。こういう場合は火事場の馬鹿力に登場を願うしかない。それがどこかでサボっているようだ。怠け癖のついた馬鹿力をどうやって呼び戻すかー。おいらには分からない。いろいろなお土産ありがとうございます。
 
   10月21日(水)

いばぶん事務所へ行く。つくば文化郷は水曜日は定休日だから誰もいない。いつもウロチョロしている近所の猫もいない。秋晴れの爽やかな風が吹き庭には暖かい光が射しこんでいる。S氏との簡単な用事を済まして帰る。昼を過ぎたというのに当直明けのぼーっが続いている。

昨日、久しぶりに最新の新書版を2冊買った。新聞広告で読んでみたいと思っていたがなかなか手が出なかった。それにしても本屋さんにはたくさんの本がならんでいる。とても全部を見て品定めとはいかない。それにしてもこれだけの本が出ていて買って読む人がいるのだろうかと心配になる。

そんなことを心配するな、と天の声。財布の中身を心配しながらレジへ。今回は間に合ったが足りなくてレジでに返本したことも何度かあった。ノー天気だからこういうことができる。神経が図太いというか金魚ちゃんの言うようにただ「バーカ」なのか分からない。
 
   10月20日(火)

「いつか だれかに わたしの思いを」ー第5回長瀬清子現代詩賞2020ーが送られてくる。入賞者全員の詩が掲載された記念冊子。ページをめくり自分の名前を探したらない。確か入賞の通知はもらったはずだがー。あれは何かの手違いだったのだろうかー。よく見ると見覚えのあるタイトルがあるが氏名が違う。ページをめくって見ると載っているではないか。誤植だと気づく。

昨年も入賞したので2冊目。昨年はページに自分の名前が記載されていた。そういえば正誤表がはさんである。コロナ禍で編集に支障をきたしたのかも知れない。それでも400編の応募があったという。その中の29編の詩が掲載されている。

県別に応募者を記載してある。北海道から沖縄まで日本各地から寄せられ一番多いのが東京45で地元の岡山は30。おいらの住む茨城県は7。詩を書いているひとなど絶滅危惧人種のように思っていたがそうでもないらしい。若い女性が長瀬清子賞。読む、とても瑞々しく言葉の感性がいい。
 
  10月19日(月)

体調良し、お天気良しなら早朝から写真を撮りに行くと昨日の夜に伝えていた。これが気分次第だから当日にならないと分からない。それでも、そういうことを伝えておけば行方不明者として心配をかけることもないいだろう。

今朝、目をさましたら外は真っ黒、時間は午前5時、体調はプラスでもマイナスでもないぼおっーの状態。タバコをを吸いながらどうするか考える。朝は思ったより寒い。

ここで決断。この気分を逃したら後悔する。そう、これまでも後悔の連続。昨晩カメラの準備は整いておいた。おいらはクルマを走らせる。霞ヶ浦に広がる美しい朝焼けを見ながら目的の普門寺を目指す。ああ、幸せなり。きっと、母ちゃんは一心不乱に眠っているだろう。それでよしということ。
 
   10月18日(日)

柿の種をつまみにチビリチビリやりながらブログを書く。背中をかく恥をかく書く書く。キーボートをポツンポツンと打つ。不思議にも文字がモニターに出てくる。四角四面の漢字やくのくのいち忍法のようなひらがなにカタカタとカナ文字も交じる。そして句読点や数字も現れる。ふしぎ不思議。

宿直明けの午前中はウルトラぼうーっとなる。寒さもあっちに行ったりこっちに行ったり。寒くなれば厚着をするが、おいらの場合はぼうーっぼうーっの重ね着。身も心も厚着でころころ太りで動くのが容易ではない。

そういうことで本日も終了。昼、女子駅伝をテレビで見た。脱水症状でフラフラの選手も。アスリートはそこまでして戦うのかー。どんな戦いにも挑戦することはぼうっーおじんでは絶対に無理。それを確信してぼうーっと一日が終わるのでした。さようならです。
 
   10月17日(土)

朝から雨。雨はどうして空から降るのか。雨の色はどんな色か。暇だから考えるが分からない。そんなことは知らなくても雨は少しもこまらない。こまらない雨は夕方まで降り続けるとラジオの天気予報士がはつらつと自慢げ自信たっぷりに伝えている。そういうことで雨は降りやまない。

「戦争に負けはしたが、奴隷になったわけではない。言うべきことは言わなけばならない。」「戦争放棄の条項などその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではないだろうか。」白洲次郎の「プリンシプルのない日本」から。これは1950年代に書かれたもの。半世紀を過ぎた現在でも生きている。

それでも雨は降る。今晩は当直日。外の見回りは傘をさしてかー。きっと、星も月もみえないだろうなー。それでも雨は降る。「バーカ、あたりまえだ!」金魚ちゃんの声が聞こえてきそう。それでも雨は降る。
 
   10月16日(金)

村山さんにたたき台を郵送する。80歳を超しているからメールでのやりとりなど無理。FAXは使いこなせると思ったが何となく郵便の方にロマンチックを感じる。ロマンがあった方がいい。郵送した旨を電話で知らせる。「ああ、ああ、どうも、どうも悪いね」の数秒で終わる。男同士の電話にはロマンなどひとかけらもない。無念なり。

仕事がひと段落してお日柄もいいので畑仕事に息切れしながら励む。この季節になると土も休暇は欲しいのかカラカラ乾いて元気がない。みんなコロナ禍の影響で疲れているんだね。

山王姫がわが家に来る。これはビッグニュース。ソロプチの役員会帰りに買い求めたおいしいお菓子を早く食べさせたいう愛情こもお土産をいただく。すると大家さんのチャーコも登場。女3人と男1人。負けることが明々白々、そおうっと退散。庭仕事に励む。負けてはいけません。
 
   10月15日(木)

やはり手軽さには勝てないのかー。スマホで写真を撮るのは気楽でいい。ポケットからチョイと取り出しパチリとやれば写真が出来上がるのだからこんなに便利なものはない。文字も風景も何でも記録してデータ化する。恐ろしい奴だ。

きっと、おいらのあらゆるデータを千秋楽までどこかに隠しているのではないか。それはそれで良しとしよう。なぜなら、どうせ真っ白でどうでもいいことばかりだからー。

さて、本日は寒かった。それほどの気温の低さではないが昨日が暖かったせいかやけに寒く感じる。生理現象にモロにあらわれる。チョロチョロオシッコの呼び出し音が頻繁にかかってくる。これ電話は留守電とか無視とはいかない。パンツ濡れ濡れの証明書をすぐに発行してくれる。こまったものだ。
 
   10月14日(水)

二度目の受賞記念ということで茨城陶芸美術館に行く。生活は生息吐息だが企画展「青か、白か、-青磁×白磁×青白磁」を観る。こういう場合の年寄りの入場料は格安となる。老い先は短いのだからせめて冥途の土産とでもとご配慮をしていただいているようだ。

子どもたちが課外授業で見学に来ている。列をなして作品をを見て歩くのは数分。ただ恐る恐る観て歩いているだけ。会場を出れば楽しい昼食のお弁当が待っている。何が大事かといったってママが愛情をこめて作ってくれたお弁当を友だちと一緒に芝生の上で食べること。青磁も白磁もどうでもいいのだ。

さて、最後はお土産店での買い物。予算は1000円。買い物かごを片手にあれもこれもと探す。なかなか決まらない。予算と制限時間という数字が追いかけてくる。あっという間にレジには長蛇の列ができている。こうやって子どもたちはいろんなことを学んでいくのだろう。ガンバレ!!だ。
 
   10月13日(火)

昨晩、滝の園から見上げたお月さまは三日月だった。星もチラチラトボトボ光っていた。夜空を焦がすような星くずのオンパレードはもうしばらく見ていない。ニランジョンが住んでいるシャントニケトンはど田舎だ。そこで見た星はそれこそ星が降ってくるのではという輝きだった。

山形に住んで居た時も冬の星は夜空一面に広がりきれいだった。雪原は星くずに照らされ青白い光を放っていた。家を一歩出ればいつでも見られたので驚くこともなかった。今思い起こしてみると素晴らしい星のプレゼントをしてもらっていた。

土浦の大都会(?)は、星の代わりにネオンで夜を楽しませてくれればと思うがそれは叶わない。土浦市役所がある大きなビルの点滅する赤いランプぐらいだ。もっとも、赤ランプが灯るころになるとおいらは就寝体制に入っているからそれすらも見ることができない。悲しいことだ。
 
   10月12日(月)

いばぶん事務所へ。村山さんの仕事に励む。どう考えても進み具合が遅い。理由を考える。気力の減退、コロナ禍による社会の閉塞感。この閉塞感はマスクをつけないと反社会的な人間に見られるという被害者意識があるからではー。日本人はみんなと同じ行動を取らないと村はじきにされるという強迫観念が強い。きっと、それも影響しているのかもしれない。

斎藤環筑波大学教授は、『引きこもり=楽園という誤解=コロナ禍が人から「社会性」を奪ってしまった。社会との接点とは、人間にとって呼吸するようなものです。その「社会性」を失えば、人の心は簡単に退行化してしまうー』(文藝春秋11月号)

要するに毎日が日曜日のような三食昼寝付が楽園だと思っていたらとんでもないこと。実際に引きこもってみるとストレスがたまる。それで村山さんの仕事が先に進まないのかもしれない。目には見えないバリアで体全体が包囲されているのだ。そうやって言い訳をするのです。
 
   10月11日(日)

「こどもは大抵の場合、詩人である。しかし、こどもは大抵の場合、詩の読者ではない」寺山修司。ごもっともなことです。子どもはいつも詩人であるが日々成長していくことに忙しく詩を読んでいる暇がないのです。

バーカな大人がしかめっ面をしてもっともらしい言葉をチンポコポコポコポロリンポロリンピンポンパンピンとならべた詩など読み人は我一人。これは寂しいことだが現実。毎日の生活にどれほど役立っていることやら。「そんな時間があるならパンを求めて働けばいい。それが市井の素直な生き方だよ。静かに深く潜行して毎日を過ごしなさい」と金魚ちゃんの声が。

本日、久しぶりに土いじりをして気分爽快。やはり自然相手に黙々と体を動かしていた方が精神衛生上いいようだ。ただ、体が思うように動いてくれないのが辛い。
 
  10月10日(土)

白洲次郎が文藝春秋に1951年から約5年間書いた「白洲次郎 プリンシプルのない日本人」を読む。これまで白洲の書いたものがないと思っていた。「育ちのいい野蛮人」と評される人物は歯切れがいい。「武相荘」に行きたくなる。クルマで約2時間。意外と近いのに驚く。村山さんの仕事がひと段落したら行こう。

今日は詩人会議の優秀賞を頂いたお祝いの食事会。そんなに威張れるものではないがともかくお祝いということで山王姫とかあちゃんの3人で寿司屋重兵衛でおいしい寿司を食べる。これに酒が付いていれば最高なのだがクルマを運転すること、さらに昼間から酒を飲んでもいしくないということで日本茶で乾杯。

腹一杯食べたせいかお腹が苦しい。そこでながみね温泉へ。本日は終日雨が降っていたせいかながみね温泉は空いている。お仲間のジジババが少ない。大広間に二人だけ。みんな耳が遠くなったのでテレビのボリュウームは大きい。そして話している声も大きい。マスクなど付けているわけがない。大声でのやりとりはコロナなんて知らないとばかり。


 
  10月9日(金)

買い物ついでにブログを書く。スマホも使って使って使いまくれば慣れてくるはずだ。若い人のようにスパスパてはいかないがそれなりなりに文字を打てるようになった。文字を打っているだけだから内容は乏しい。

台風がきているせいか天気は悪い。「からゆきさん」を書いた森崎和江の詩集を読む。お天気と同じで暗い。しかし、女の執念のようなものひしひして伝わる。詩人というのは女性のほうが言葉を鋭く切り込むようだ。これは普段から抑圧されているという意識が心の奥に潜んでいるからではないか。

「女は嘘をつく」で物議をかわしていたが、女だけでなく男も嘘をつく。これは男女共同参画みたいなもの。これで世の中が成立しているから面白いのだ。要は嘘を見抜けるかだ。中国人があまり嘘をつくのでハラがたった社長はお抱えの中国人弁護士に聞いたそうだ。弁護士いわく、「最初から嘘だと思って聞いているからハラもたたない」。世界の嘘は広い。
 
   10月8日(木)

つくば文化郷の二つの会場でイベントが始まった。どちらも女性向きの展示内容。ポチラポチラでもお客さんがやってきて少しの賑わいがあるからいい。マフラーも売っていた。期間中に買おうと思っているが、お洒落に関しては無頓着。どうなることやら。

毎日、「一日一章」を更新しているが意味が理解することができないのもある。本日付けはそのもっともなるもの。なんとなくぼんやりとそれなりに理解できるがこれも怪しい。それでもへこたれないで続けている。図々しいというのかノーてんきなのか自分でもわからない。

おいらお人生はきっと自分でも掴みどころなくぼんやり終わっていきそうだ。それでも死ぬまで生きてゆけるという平等な運命を与えられていることに喜びとしなけらば—。そんなことを考えながらチビリチビリやりながらブログを書く。これいかに?というべきか?。金魚ちゃんに尋ねるが返答なし。バーカは相手にしないよ、という顔をしている。エライものだ。
 
   10月7日(水)

今日は定期検査日。新型コロナウィルスの院内感染があったという阿見の東京医大病院。どうなっているのだろうかと思ったが通常と変わらない様子。ただ、来院者が少ないように見える。自粛しているのだろうかー。病気は休んでくれないから、おいらはイノチがけで診察してもらえばいいとハラをくくっているが世間はそうでもないようだ。

予約時間から1時間半は待たされる。本でも読んでいようと2冊持参。「私とマリオジャコメッリ」。読み始めは「生に依存した死、死に依存した生」。これはまずい。病院の待合室で読む本ではない。こういう場合は「ゴルゴ13」のようなものがふさわしい。主人公は不死身のスーパースパイナーだ。どんな困難な状況境に遭遇しても死なないのだ。

そこで次の本にする。詩人・小説家の小池昌代がコルカタを題材にした詩集「コルカタ」。 — 締め切りに遅れても/催促するような人はいない/そもそも読む人が。/詩は/書いた本人が 最初にして最後の読者なのだ ー (朝五時に)より。これもまずい。すべてがぶち壊れそう。ただ、白衣を着たイケメンの先生が「100点満点に近い数値です」と、笑顔で言ってくれたのがうれしい。
 
   10月6日(火)

今日は当直の日。やはり、どこかに縛りを感じる。要するに今日は仕事をするという使命感のようなもの。それでいいのかもしれない。ヒトは適度の緊張感を持っているのが健康的にもいいようだ。

潮来マリーナを今週中には何とかメドをつけよう。固い決意でいばぶん事務所へ。根本さんの奥さんが庭の草取りをしている。腰にはガンベルトを巻いている。上から下までスタイルは完璧なプロスタイル。いろいろあったけど気持ちが吹っ切れたのだろうか。元気そう。

山王姫からメールが入る。「おめでとう、お祝いを!」。ああ、おいらのブログを見ている人がいるのかとうれしくなる。世の中には「見ざる聞かざる言わざる」の情報があふれている。おいらのブログなどその典型的なもの。それでも見ていらっしゃる方がいるのだ。感謝感激。
 
   10月5日(月)

お知らせ 「詩人会議」は自由のひろばへのご投稿掲載作品から、選者推薦により、年間の最優秀、優秀作品を表彰しています。12月号へ作品が再掲載されます。左記のとおりお知らせ申し上げます。
〇年間最優秀作品(図書カード1万円)雨野小夜美 「南スーダン」(4月号)岐阜県〇年間優秀作品(各図書カード5千円)木﨑よしお 「痛い言葉」(2月号)大阪府 御供文範 「乳房(おっぱい)の重さ」(8月号)茨城県 田村きみたか 「聖歌」(11月号)千葉県 二〇二〇年一〇月五日 月刊詩誌『詩人会議』編集長 秋村宏
そのようなわけで優秀賞を頂きました。こういう場合は素直に喜ぶべきだと思います。そういうことでありがとうございましたとメールを送る。

フランスの詩人ヴェルレーヌの「智慧」という詩の一説で、「選ばれてあることの恍惚と不安の二つ我に在り」というのがあります。太宰治も「葉」の冒頭で引用しています。まあ、「おっぱいバンザイ」といったところですな。「バーカ、それぐらいで気取っているんじゃないよ!」とは、金魚ちゃんの声。
 
   10月4日(日)

今日、ハエたたきでハエを二匹仕留める。わが家は庭に肥やしを撒いているせいかハエが多い。昔はハエ取り巻のようなものがありハエが出そうなところにぶら下げていた。そのハエ殺しには真っ黒になるほどハエがくっつきご臨終となっていた。あれほどの数ではないが部屋をチョコチョコ飛びまわりうるさい。そこで必殺ミトモ流ハエ返しで退治するのだ。

ハエといえばインドでは人間と友だちのようなものでいたるところにいらっしゃる。朝市の魚売り場などに行くと真っ黒な魚が売っている。手で払いのけるとハエが一斉に飛び立ち新鮮な魚が現れるという具合。あれを思えばかわいいものだ。

殺虫剤で一網打尽すれば簡単だろうが、そこは健康を考慮してのハエたたき。まず、目をかっと見開く。次にハエが止まった場所をに照準を合わせ狙いを定めるという集中力。そして一気に必殺ミトモ流ハエ返しで天国か地獄に送る。この一連の流れには健康促進に必要とされるものが全部は入っている。バンザイだ!。
 
   10月3日(土)

マリオ・ジャコメッリという写真を知ったのは辺見庸著の「私とマリオ・ジャコメッリ」~生と死のあわいを見つめて~で知り写真も初めて見た。生と死を凝視したモノトーンの世界が見る者を惹きつける。

「カラーよりモノクロームの世界のほうに、私は深みと広がりと映像言語とでもいうべき『語り』の豊穣さを感じる。ジャコメッリは、『白、それは虚無。黒、それは傷痕だ』といみじくもいっているが、わたしもまた虚無と傷痕があればあとはいらないとおもう。じじつ、私の記憶の根っこにはモノクロームの映像があり、それにつよいノスタルジーを感じる」

軽いジャブのようなつもりで投稿した詩が「詩人会議11号」に掲載される。思いついたのをパッパッと書いた。ほんの数分だった。推敲に時間をかけることもなかった。装飾されない素直な言葉というものが誰にでも受け入れやすいのだろう。

■「ことばスープ」
 
   10月2日(金)

「抹殺」川崎洋

両親がいて
わたしは生まれた
それは祖父母がいてのこと
さらに曾祖父母がいてのこと
そうやって十代さかのぼると
両親を始めとする先祖の総計は
1024人となる
この中の一人が欠けても
今のわたしはいなかった
(部分)

目覚めに川崎洋詩集を読む。こんな日は体調がいいに決まっている。まだ太陽は昇らず薄暗い。それに急に朝夕が冷え込んできた。うすら寒さを感じる。そろそろ暖房器具を出す準備をしなければー。

エシャレットを作付けする。作付けなどというといかにも農家の大仕事のようだが家庭菜園にパラパラと植えただけ。なぜエシャレットかといえば味噌をつけてナマで食べると酒がおいしいから。要するに酒のツマミにしようという魂胆。初めて植えるだけにうまく成長してくれるかだ。「バーカ、おまえさんの愛情次第だよ。しっかり管理しろ」とは金魚ちゃんの声。
 
  10月1日(木)

本日、アケビ狩りをする。場所は石岡市に邸宅を構える山王姫の裏庭のりっぱに育った一本のアケビの蔓。今年は豊作のようで鈴生り。脚立に昇りチョッキンチョッキン。欲張ってたくさん取り持ち帰っても食べきれない。10個ぐらいにする。山王姫が助手として大活躍。何をやっても手際がいい。いつも感心する。

お土産に羽毛布団とナシにカキまで頂戴する。わが家はモノが少ない方だと思うが山王姫からの頂き物でどんどん増えている。その分年齢も増えていくような気がする。これは仕方ないこと。年齢を重ねても健康で元気であれば幸せ者。山王姫もたくさんの元気印を唐草模様の風呂敷に包んで背中に背負い頑張って欲しいものだ。

今日は朝から気分が重かったがアケビ狩りと山王姫の顔を見たせいか元気になる。気分というものはお天気に左右されるようだが、何か気分転換をすればハレになるようだ。やはり動かないと駄目だということらしい。
 

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