怠惰な散歩  2020年5

   5月31日(日)

今日で5月も終わり。6月になれば衣替えの季節。そしてアジサイ。あの大きな花。土浦の蓮河原に住んでいた頃、自宅前の農業用水路の脇の道をよく歩いた。その道路際には大きなアジサイの木がたくさん植えられていた。朝露に濡れたアジサイの花房に顔をおしつけよく顔を洗った。実に気持ちのいいものだった。その季節はがやってくる。

日本の梅雨時を第五の季節といったアメリカの写真家もいた。そういうふうに考えればジメジメしていやな季節ともいえないのかー。

しかし、この雨で雑草たちは一段と元気になり一気に成長する。そうなるとわが家の草取りが大変だ。炎天下の中での草取りを想像するだけで思いやられる。そこで、今年はコツコツやっつけてやろうとヒマにまかして草取りオジサンをやることにした。
 
   5月30日(土)

滝の園の当直室からきれいな夕焼けを見た。水を張った田んぼにも茜色の空と雲が映っている。太陽が沈むのは自らも眠りに入るためだろうかー。日本と反対側の国では太陽が昇りはじめているはずだ。セブンイレブン並みに24時間休みなしで働いているのだからすごいパワーだ。

今日は久しぶりに散歩をした。しかし、体が重く気怠い。お天気は爽やかな朝で寒くも暑くもないから最高のはずだが、どうしても体が重くなかなか前に進まない。後ろから歩いてきた二人連れのおばあちゃんたちに抜かれ後ろ姿がどんどん小さくなる。あのパワーをもらいたいと深いため息つきながらトボトボ歩く。

今日も新鮮味もなくトボトボ生きて終わる。大病を患い、もう我が人生も終わりだからと「残照記」というタイトルの自伝を書いて逝った人がいた。でも、出版してから3年ほど元気にしていた。人それぞれいろいろあるものだと思う。
 
   5月29日(金)

いばぶん事務所で朝から頑張る。K氏に頼まれたCDの焼き込み。これは時間がかかる。1枚ずつ出し入れしてやらなければならない。こういう仕事をいつまでも引きずっているのは嫌だから早く終わらせようと家を出たのはいいが、やはり飽きっぽい性格が災いする。もう少しで終わりとなるが、明日にしようということで帰る。

つくば文化郷がある吉瀬集落は実に静かなものだ。東京に住んでいたころとは雲泥の違い。思い出してみても20年暮らした自宅の周辺には人があふれていた。それも名も知らぬ人ばかり。そういう環境もいいだろうが、年寄りになると、やはり静かなほうが落ち着く。

落ち着くという言葉に安堵してチビリチビリやる。スズメがえさ台にやってきて忙し気にエサをついばんでは飛び立つ。あれでは消化不良を起こすのえではと心配になる。「ばーか、スズメの心配をするより自分のことを考えろ。鼻の煙突からプカリプカリと煙をあげているオマエさんだよ」天の声あり。無視する。
 
  5月28日(木)

朝からK氏に頼まれたCD作りに励む。励むことはいいことなのか。とにかくパソコンが離れることはできないのだ。チャップリンのモダンタイムスの映画のようだ。画面にあらわれた指示に従いクリックしては待つ。終了のサインをもらい、同じことを繰り返す。ああ、無情なり。おいらはパソコンにもてあそばれている。

めげてはいけない。これが終わればコロナも終わるはずだと反復作業に没頭する。飽きると庭の草取り。雑草は迷惑そう。気晴らしに生きているんではないぞという雑草の声が聞こえそう。草取りをしていると名前も知らぬ虫が次々と現れれる。ああ、こいつらも生きているのかと恋しくなる。

筑波研究学園のS女史から電話が入る。明るく澄んだ懐かしい声。元気そうで安心。しかし、寿印のケーキはまだ届かないようだ。男性諸君よ頑張れ!!。上高津あたりに許嫁としてふさわしい女性がいるよ!!

 
   5月26日(火)

久しぶりに歯科医院に行く。半年ごとの定期健診。先生、ブツブツ「全体に細くなっているな-」。どういうことかと聞こうと思っても口をアングリあけているから聞き返しようがない。勝手の想像する。歯茎の山が緩やかになっている。歯そのものが退化して細くなっている。まぁ、いいでしょう。

〇遠い空
〇近い空

この二つを考える。空というのはとんでもない遠くにある。人間の手では掴めないほどの遥か遠くにある。しからば近い空とはなんぞや? 実に簡単だ。鼻毛の下にぶら下がっている空、すなわち空気。結論、日々を営んでいくうえでは実につまらない論考。論考までいかないトコロテン。お休みさなさい。
 
   5月24日(月)

毎日ブログを更新するというのはそれなりにエネルギーを要するものだ。昨日は途中まで書いてやめてしまった。これといった理由があるわけでもない。芥川龍之介流にいえば「ぼんやりした不安」。

そう書くと何とも高尚に受け取られそうだが理由は簡単、途中に眠くなっただけだ。しかし、継続とは力なりというが、これの実行となるとなかなか難しい。そもそも飽きっぽい性格のせいか何をやっても長続きしない。但し、ぼーっと過ごすことだけはできる。

夕方、山王姫から電話あり。キャプテン斎藤はまだまだ終わらないようだ。これまでの経緯を振り返れば疑問点が山ほどある。そのカギを握る人物と会うそうだ。真実が分かるような玉手箱を持参してくるかも知れない。楽しみだ。
 
  5月23日(土)

「今日は死ぬのにはもってこいの日」
ナンシー・ウッド著 金関寿夫訳 フランク・ハウエル画(メルクマール)

今日は死ぬのにはもってこいの日だ。
生きているものすべてが、わたしの呼吸と合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった
今日は死ぬのにはもってこいの日だ。
(本文より)

■とても感動する詩集に出会った。こういうハッピーなこともあるものだ。
 
   5月23日(土)

梅雨入りしたのでは感じるような日々が続く。昨日と同じように①草取り②読書③祈りの整理に励む。潮来マリーナの社長から久しぶりに電話が入る。稼ぎ時の連休は休みにしたという。体調は今のところ良いという。そのせいか声に元気がある。キャンプ場の整備は順調。モロモロの話をして終わる。

お隣さんも暇なのか夫婦で草取りをしている。ダンナは庭木の剪定も始める。高台のわが家から見下ろすような形になるのでまる見えだ。広い庭の手入れはのいつも行き届いている。もう、手を加えるところがないくらいに整理されている。残された整理はと考えてしまう。

久しぶりにビートルズの「レットイットビー」を聴きながら書く。この映画を見たのは東京銀座のみゆき座だった。友人と食い入るように見ていた。ともかく若かった。何をやっても許されると思っていた。懐かしい時代だ。暇な老人というのは良き青春時代を思い出しなが獏と生きるものだろうかー。
 
   5月22日(金)

朝、今日の予定を決める。①草取り②読書③断捨離の祈りの整理。HPと冊子作りに着手する。この3つを何回か繰り返し行う。そして、夕方のカラスの歌を聴きながらウーロンハイを楽しむ。ヨシ、それで行こう。

ともかくルンルン気分で草取りに励む。まずは急斜面の土手から始める。ここは草取りというより草刈り。この草刈りのために大枚6000円も出して買った大型のカマは大きく重く使いこなせない。今はベランダの端で眠っている。そこで、両刃の草刈りかまでチョキチョキ。

断捨離も少しは作り方を覚えうまくいっている。ところが読書だ。久々に買った新刊本、姜尚中著「朝鮮半島と日本の未来」集英社新書。これが睡眠導入剤よろしく眠くなる。眠ると気持ちがいい。それなら無駄な抵抗をやめ、ひたすらの眠りの世界に入ればいい。みなさま、お休みなさい。
 
   5月21日(木)

いばぶん事務所で細々とした雑用をやる。山三印刷のNさんが納品で来る。印刷屋さんの営業は重労働。納品の時は結構な重さの印刷物を運ぶ。そのため、彼も何度かぎっくり腰で苦労したという。その予防のため登山とランニング、定期的に整復院に通っている。日ごろから注意を怠らないという。「姿勢よく!」これが彼のアドバイス。

「姿勢よく」というのは万事に通用する。すべてがそこから始り終わるのがベター。ところがその間にさまざまなことが絡み複雑にしてこんがらかせる。こんがらせてはいけない。今、人は一つにならなければならない。それなのにバカなオオカミがいる国がある。あれはベランダで静かに夕焼けでも眺めていてくれればいい。

特別給付金は生活費に全部回る。整復師会の仕事はない。だけでど、臨時ボーナスということで少々本を買いたい。そこで、予行演習といことにし土浦イオンの未来屋書店へ。1時間もウロウロして1冊買う。「今日は死ぬのにもってこいの日」インディアンの死生観を語ったもの。初版は1995年。まったく知らなかった。世の中、そんなものだよ。
 
   5月20日(水)

肌寒い朝だった。昨日は終日、部屋にこもりぼーっとしていた。これではいけないと今朝は歩くこと決意。外に出れば首筋あたりがうすら寒い。マフラーをまいてくればよかった。歩けば暖かくなるだろうと少し急ぎ足で歩く。静まり返った道路からズルリーズルリーという音が聞こえる。本人は急ぎ足のつもりだろうがとんでもない話。

山王姫宅へ修正版の写真を届けに行く。誰かに白い胡蝶蘭が贈られたから見てという。美しいとすかさずパチリ。さらに山王姫もパチリ。こうなると山王姫胡蝶蘭子(サンノウヒメコチョウランコ)という呼び名もいいのもしれない。

茶室のまわりの草取りしたのできれいになっているという。そこで足もと注意、小雨注意、よれよれ注意しながら石畳をソロリソロリ。間違いなくきれいになっている。そこでまたパチリパチリ。怪我もなく無事に帰還。そういうことで本日は終わりました。■大久保純子邸の庭 夏 その3
 
   5月19日(火)

わが家にハエが出没するようになった。神聖なるおいらの書斎を通称、便所バエと嫌われているハエだ。そこで一刀みとも流皆伝の当主、山新で買ってきた超安のハエたたきで身構えハエを待つ。

宮本武蔵が箸でハエを捕まえるほどの腕前はない。それでも、高齢者とランク付けされたおいらでもハエ一匹を退治する自信はある。部屋を飛び回るハエに声をかける。「ああ、もうしばらくのイノチだ。たんと遊んでろ」。

暇にまかせじっと待つ。しばらくぶりの仕事らしい仕事がハエ叩き。これも人生だと目の前のテーブルに着地するのを待つ。あっ、ボールペンに停まった。バシーン!ハエは一瞬にして開けっ放しの部屋から外に逃げる。ボールペンも外に飛び出す。慌ててボールペンを拾いに行く。まったくお粗末さまでした。
 
   5月18日(月)

キャプテン斎藤がまた追いかけてくる。(バーカ、おまえさんがミスったからだよ、金魚ちゃんの声。)今度は場所を変えいばぶん事務所。山王姫とパソコンの画面を見ながらああでもないこうでもないと修正。夢中でやったせいかクビがコリコリする。「これで終わり」と、山王姫からお墨付きをもらう。後はプリンターのお仕事。エッチラコッチラと働いてもらうしかない。

それを終えると昔お世話になったCROSS事務所へ。こちらはkさんのお手伝い。ああ、おいらの人生はなんなのだろう。ここで考える。いろいろと頼まれるのはまだ華があるからだ。そう思うと少しはコリコリクビの痛みも少しはやわらぐ。

帰り、霞ヶ浦を見に行く。空も湖もねずみ色。水かさが増している。お天気が悪いせいか釣り人もいない。世の中はコロナの影響で閉塞状態だが霞ヶ浦も落ち込んでいるような寒々しい景色。これは、精神的によくないとそそくさと帰る。本日はこれでお終いです。
 
   5月17日(日)

キャプテン斎藤からようやく解放される。長い闘いだった。どうしてまとめていいか分からず苦労した。やはり根気がなくなったのかー。「バーカ、能力不足だよ!」という金魚ちゃんの声が聞こえる。

気分一新にと散髪屋に行く。ボサボサ頭でイライラしていた。もしかしたらこのボサボサ頭のせいで作業が進まなかったとさえ思ったり。散髪屋は混んでいる。ドアは開けっ放しで外にも順番待ちの椅子を用意している。ともかく、バッサリ髪を切ってもらいサッパリする。

来週の月曜日まで宿直の仕事は休み。それなら海を見に行こう。週間天気予報では今週はあまりお天気は良くない。それでも海を見たい。ともかく行くことにする。いつかは決めていないが、必ず行くぞ!!
 
   5月16日(土)

久しぶりに小松の三夜様に行く。早朝のせいか人っ子ひとりいない。もっともいつもひっそりしている。境内の空気がどこか深く沈んで重く感じる。きっと湿気が多いせいだろう。こういう日は体は怠く気分は沈む。

ふさぎ込んでばかりいられない。帰宅するなりパソコンとにらめっこ。キャプテン斎藤の最後の仕上げに没頭。夕方、ようやく全部終了。さて、次のお仕事は宿直。小雨がぱらついている。ここしばら出勤日は必ずといっていいほど雨。巡り合わせが悪いのだろうか。何かとんでもない悪さをしているのだろうかー。胸に手を当て考えるが心当たりなし。金魚ちゃんに訊く。

Tさんから「ここから」詩誌集が送られてくる。読む。会員名簿は14人。そのうち1人は休会とある。きっと高齢者ではないかと思う。Tさん、コロナは「サリン事件」の著者で、生物・化学兵器権威の杜祖健博士が述べている武漢人工説が不気味である。もしそうなら、ワクチンか治療薬を開発してからでないか?。何らかの不手際が発生したのか?。ともかく、早い終息を願うだけだ。
 
   5月15日(金)

早朝、電動自転車で颯爽と霞ヶ浦運動公園までペダルを必死で漕ぐ。爽やかな風が柔肌にあたる。ああ、健康という名を背負いぼーっオジンは生きている歓びを感じる。多くの知人が病と闘っているのを知っている。それを思えばおいらは何とも幸せ者だろう。

公園は7時ごろになると、ポツポツと人がやってくる。ジョギングしたり走ったりと思い思いだ。若くて元気があるプリプリおしりの女性が現れないかと期待するが、やってくるのは圧倒的にオジンとオバン。きっと、先行き短いのを悟り朝早くから起きだして一日一日を日延ばしているのだろう。おいらもそうかも知れない。

詩人会議のテーマ募集「平和」に「平和への通学路」を投稿する。メールで応募だからアッという間に着くはずだ。ペンを持って書くことも、切手を貼って投函することもない。いつか、超便利という高速船の甲板から振り落とされるような事態になるかも知れない。それを考えると辛い。
 
   5月14日(木)

早朝、滅茶苦茶に歩く。歩数計を見たら目標の7000歩を越え1万歩も越えている。わが家周辺は坂道がやたらめったら多い。くたくたになって帰る。

昼過ぎ山王姫宅へ。母屋の居間が夏向きに整理されすっきりしている。庭に目を向けると緑葉がうっそうと迫ってくる。池のアヤメも黄色い花を咲かせている。広い庭の樹木は活気づきすっかり夏景色。

緊急非常宣言が全国一律とはいかないが解除された。少しは冷え込んだ世間は活気を取り戻すことができるのかー。これからの2週間後にどうなっているかだー。とはいえ、ヨレヨレおじんは山王姫から頂いた「霧島」のウーロン割りをチビリチビリやりながら考えている程度で緊張感がない。こまったものだ。

   5月13日(水)

なんでもない日。なんにもない日。石岡そば街道の「ふるさと」にドライブ。朝日トンネルを抜けると四方八方が小高い山に囲まれた旧八郷町、現在は石岡市に入る。川端康成の「雪国」ではないが、緑の大きな茶碗に囲まれたようなこの佇まいの景色は好きだ。大きな背伸びをしたくなるような絶景。ここに幸ありという感じ。

どんぶり盛りの冷やしたぬきを食べていると電話が入る。相手は詩人会議編集長。「おっぱい」という詩を投稿した。「長すぎる。1、2連をカットした方がいい」「はい、わかりました」。原稿が手元にないからよくわからない。後で知ることになるのだが、前半の2連7行をバッサリ。

おいらの詩は長すぎるとは薄々感じていた。だらだら書くと間抜けしたような詩になる。書いたものをバッサリと長刀でバッサリ切ること。これからの課題だ。
 
   5月12日(火)

当直明けの朝、巡回という仕事でどれぐらい歩くのだろうと測ってみたら約2400歩。ほう、そんなに歩くのか。おいらの歩行計の目標は7000歩。普段でも2000歩を越すことは少ないだけに驚く。

「起き抜けのぼーっアタマよ目を覚ましておくれ」と念仏を唱えるように指定以外の所まで歩いているから歩数が延びるのだろう。施設入所者はほとんどが車椅子だ。いつかはわが身と悲しくなる時がある。そして、ほとんどが居眠りしている。いわば夢の世界で遊んでいる。

あの夢は何なのだろう。若かったころの楽しい夢を見ているのだろうか―。もはや人間世界とサラバしたようにして生きている。ということは意識がはっきりしているあいだに、人間はたくさんのいい思い出を作りなさいということか―。正岡子規のように畳一枚だけの生活者となっても生きる。素晴らしいことだ。
 
   5月11日(月)

宿直室で本を読んでいたら「バッチン!」とともに電気が消える。今晩は、施設の電気工事があり夜8時頃までかかると事務局から申し送りがあった。業者の人が工事をやっているのを目にもした。「さては、工事ミスでもやったのかー」。懐中電灯を手に現場に行ってみると作業員があちらこちらの分電盤を見回り点検している。原因がなかなか分からない。

そうこうしているうちに情報が入り、この地域一帯が停電になっていることを知る。しばらくすると理事長をはじめ数人の施設関係者がやってきた。このままでは水洗トイレが使えないということで数人でポリタンクで水を運んでくるという。

なんでおいらが当番の時にこんなことになるのだと右往左往する。おいらが騒いでもどうしようもないのだが懐中電灯を持ちウロウロ。それにしても停電の時間が長い。土浦イオンは明々と灯りが点いている。電気の幹線が違うようだ。ポリタンクに満タンの水が届くと同時にパット明るくなる。初めての経験だったが、入所者は黙って成り行きを見ているだけ。泰然自若の世界に浸っている。エライものだ。
 
   5月10日(日)

月刊誌「文藝春秋」6月号を手にする。月刊誌は図書館で読むことにしようと固い決意をした矢先のコロナ。そういうことで購入した。やはり特集はやはりコロナ。これから、コロナに関連する書物がたくさん出回るだろう。「風が吹けば桶屋が儲かる」というものだ。

コロナウィルスには人との共生を考えてほしい。居心地のいい住処とする主が死んでしまったらウィルスも同じ道を辿ることになるのだからー。それを、どうやってコロナウィルスに伝え納得させるかだ―。神は沈黙したままだ。それではこまるのだが、あらゆる宗派の神は一言も発信してしない。神は死んだのかー。

キャプテン斎藤がなかなか進まない。どうしてだろうと金魚ちゃんに訊く。「気力の減退、能力不足に尽きる」「カバーする方法はあるでしょうか?」「簡単だ。高級和牛の隣で小さくなって売られているブタの細切れのように、細かに休みをとってやるべし」「はい、分かりました。さようならです」。
 
   5月9日(土)

「空白の天気図」という本があった。柳田邦夫が書いたノンフィクションだ。その空白を見るのが楽しみにしている。新聞に載っているコロナ感染者数の都道府県別の表組だ。その空白が日々増えていっているようだ。もとより岩手県は論外。井上ひさし著「吉里吉里人」によれば日本政府に愛想をつかし「吉里吉里国」を宣言した県だ。東北の一寒村というのは岩手県なのだ。(これは勝手な解釈で何の根拠もないことをお断りしておく)

それと「空白の天気図」の因果関係を問われても分かりません。ただ、ここ数日、感染者ゼロの県が増え白くなっている。ああ、乙女の美しき白いパンツよといううれしさだ。そういえば「真白き富士の嶺」という童謡があった。富士といえば武田泰淳の小説に「富士」があった。その中に「愛を持って接しなさい」とあったが、今は「愛を持って離れなさい」。コロナめ。

そういうことで、すべては白から始り白で終わるのだ。さっぱりすっきりと終わるのだ。ああ、草むしりに励んだせいかさわやかに一日を終えることが出来た。ああ、ありがとう。金魚ちゃんもありがとうです。
 
   5月8日(金)

薄ら寒い朝だった。それでも散歩することにする。昨日の検査で先生に「血糖値が少し上がっている。運動をするように。コロナで大変な状況ですが―」。薬局では「三カ月分も処方してくれたのは、きっと良好な状態ということでしょう」。不安にさせたり喜ばしたりいろいろあるものだ。

あの先生の言葉が効いていたのだろうかー。ともなかく歩く。スマホをポケットに突っ込み歩く。早朝の散歩をしている人数人とあいさつする「おはようございます」。この言葉のやりとりはいい。清々しい。スマホで写真を撮っていて気付いた。タテ写真が少ない。それなら訓練をしよう。やはり、タテ写真はなかなか難しく慣れるまで時間がかかりそう。

昼過ぎ、アルバム作りの打ち合わせで山王姫宅へ。数十年前に漬けたという梅干しをいただく。ものすごく酸っぱい。半分残す。姫はペロリと一個食べる。ああ、恐ろしや恐ろしや。帰りに気づく。あの梅干しをウーロンハイに入れてみたら―。それなら健康にもいいのではとー。勝手なものだ。
 
   5月7日(木)

本日は定期健診なり。東京医大病院に参上することとなる。2カ月ぶりで参勤交代のような心境。病院の玄関を入るなり、「体温を計らさせて頂きます」これまで目にしたこともない体温計がソロリと額にあてられる。数分もしないうちに「大丈夫です。どうぞ」。ここは病院、「いらっしぃませ」の商人あいさつはなかった。病院は神経質なぐらいにガードを固めているようだ。それでもウィルスは伊賀流古賀流よろしく忍び足、差し足、つまずき足で侵入してくるかも知れない。

血液検査で採血室へ。担当者は女性だが若くはなさそう。マスク越しでよくわからない。「珍しい名前ですね」「葬儀場に行くとたくさん見られます」「まあー、嫌だ」体をのけざせマスクごしに笑う。「どちらの出身ですか?」「山形です」「向うでは多いんですか?」「いや、そうでもないです」。「あら、珍しいバックですね!」「インドです、200円です」「インドはよく行かれるんですか?ニュースでは街の空気がきれいになったようですけど」「インドは汚い、臭い、うるさいです」「まあ、衛生状態はどうなんですか?」「悪いです」「沐浴している川の水はどうなんですか?」「聖水です。ただし、信者にとってはです。衛生的には最悪だと科学者は言っています」

担当のM先生が6月で退職されると聞く「えっ」、絶句。一瞬、凧の糸をバッサリと切られたような感じがする。なぜだろうと考える間もなく診察を終える。薬局で象か馬にくわせような山盛りの薬を手にする。どうともいえない青空と雲がなびいてばいる。スマホでパチリパチリ。なんなのだろう。心底から自然の逞しさ、そんな空が動いている。こういうこともあるもだと、それでいいじゃないかと納得して家路を急ぐ。終わりです。
 
   5月6日(水)

ゴールデンウイークも今日で終わり。いや、まだまだという人もいるだろう。正直いってもう飽きあきした人も大勢いると思われる。テレワークに勤しんでほしいというお上のお達し。ならばと取り組んでもそれはごく一部の人だけ。ほとんどは汗をかいて働いている人のはずだ。

ゴミ出しに行くとやたらとゴミ袋が多くなっている。そこで勘ぐる。さては外出自粛で家でゴロゴロしている。突然の暇な時間がバーゲンセールのワゴン車にのってやってくる。それならば家の中の整理をして不用品を捨てよう。そこでゴミの量が増えたのではー。最大のゴミはゴミ袋を運んでいるニンゲンであるときづいている人はいないだろう。

台風や大雨などの大災害に襲われた地域の後かたずけをテレビで見たことがある。ゴミの集積場はひょっこりひょうたん島のようになっている。今から100年前なら半分に満たないのでは。消費は美学の時代はもう終わったと思うがー。ニンゲンの欲望は無限大に近い。こまったものだ。

写真はキャプテン斎藤が作ったという「浮き球一輪挿し」。なかなか洒落た花瓶。
工夫すればいろいろ楽しめるという一例かもしれbない。
 
   5月5日(火)

今日は子供の日。だが、自宅周辺には子供に限らず大人も見当たらない。部屋から通りを眺めるが滅多に人影は現れない。歩いているのは老いたワン公と老いた婆さんか爺さん。ヨタヨタと進んでいる姿を見ているとおいらを見るようだ。ただ、犬を連れていないというだけ-。

クルマの往来もぐっと減った。ガソリンスタンドの価格表の数字は下がりっぱなし。県境を越えないようにとお達し。まだ関所のようなものは出来ていないようだが、市町村にバリケードが築かれ、そのうち小松3丁目に入らないで下さいという立て札まで現れるのだろうかー。

出口なしというのでは希望の光も見えない。つくづく思うのだが医療従事者は大変だ。「人の命を救うこと」を使命とする職業。みんなで渡れば怖くないとはいかないだけに辛い。
 
   5月4日(月)

行方知らずに輝く緑の林。どれほどの生命力があるのだろう。日を追うごとに濃くなる緑。イノチとはこうあるべきだと訴えているようだ。

いろいろな打ち合わせに山王姫宅へ。車中から見る雑木林、果樹園、田んぼ、畑はただならぬ緑の饗宴。ああ、人もオープンでおおらかなふれあいができればと願うが―。三密を避けるようにというお達し。人と人がスキンシップできないような社会になったら、人は地上がオサラバしたほうがいい。

山王姫から数々の宿題を頂戴する。なかなか思うようにはかどらない。今度から通信簿をつけてもらおうかー。A=よくぞぼーっとしていました。B=まだまだ、ぼーっへの努力が足りません。C=ぼーっへの理解不足が顕著です。家族で取り組んで下さい。ああ、これが我が人生なり。バイバイです。
 
   5月3日(日)

おつまみ昆布をつまみにチューハイを飲みながら今日は何の日と考える。そうだグーグル先生に聞いてみよう。「憲法記念日。1947(昭和22)年、日本国憲法が施行されたのを記念して、翌年、国の成長を期する趣旨で設けられた国民の祝日」とある。

おつまみ昆布は「北海道産で厚葉昆布を使用。かむほどに味が出てくる」とある。我が日本国憲法は世界遺産に登録したいような「戦争放棄」がある。厚葉こんぶより超厚でかめば噛むほど濃厚な味が脳天に染み渡る。

元相棒にパソコンを修正してもらう。元気そうでまだまだフットワークはよさそう。ママチャリで早手のようにやってきてママチャリで颯爽と帰る。こうして、わが家の憲法記念日はつつがなく終わったのです。おいらのブログは一羽からめての類。3日分まとめてアップ。

■大久保純子邸の庭 夏その1
■詩人会議6月号(花いちもんめ)
 
   5月2日(土)

昼近く、おいらの部屋の温度計を見ると30℃。暑い暑いと庭を見れば風もぴたりと止んでいる。この暑さに加えてのコロナ騒動で世の中がどんどん沈んでいく。部屋からあたりの住宅を見まわしてもどこもひっそりしている。引きこもり症候群が大量に発生したようだ。

今晩は当直日。老健施設だけに何となく気が重い。お日柄もいいようですからとはいかないのはどうしてだろうかと考える。神経質なぐらいに施設では感染を恐れガードが固くされているせいのようだ。

入所者は一日に一歩も施設から出ない。もし、施設でコロナ騒動が発生すれば外部からの侵入しか考えられない。その外部の一人としておいらが入る。みんな被害者で加害者でもある。「マスクで平等になった社会」なったという韓国人もいる。それは本当かもしれない。
 
   5月1日(金)

今日から5月。日本の景色が一番美しい季節。それなのに人は移動してはならない。この足踏み状態の先行きがわからないというのが不安を助長する。

疫病で人類が滅亡に向かうことは過去に書かれた文章などで知る世界かと思っていた。それが科学万能のこの時代に自ら遭遇するというのは信じがたい。しかし、現実に起こっているのだ。気休めに書いているブログもこのへんでひと休みして、しっかりとこの状況を個人的にでまとめておくことも必要かと考える。

そこで、5月からは「わたしのコロナ日記」として、私事の仔細を書くことにする。決意は固さと柔らかさとモロさの両刃の剣。簡単に打ち破られる。朝から「キャプテン斎藤」に取り掛かる。途中、山王姫に不明なところ電話でして確認する。空は晴れている。ゴールデンウイークという呼称は心をうきうきさせるが今年は無理のようだ。
 

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