怠惰な散歩  2020年

   3月31日(火)

S氏来宅。いばぶんの事務的なこと。役員改選に伴い本部住所をおいらの住所にしたらと相談。役員改選と一緒にやったらというアドバイス。そうしましょう。

S氏、たくさんの本を持ってきてくれる。古本屋に売れば高価そうなものもある。ところが社会状況が変わった。本を触らない、見ない。当然ながら読まないの文化が盛況。すべてそれらはスマホでカバーできる社会。紙文化は消えるのか―。ああ、淋しい。

よーく考える。無敵コロナ軍団で追いつめられた人類はスマホに救いを求める。スマホはすまし顔で応じる。この世界は安全地帯だよ、部屋にこもって飽くことなく時間をやり過ごしなさいと言っているようだ。今日で3月も終わり、どうもありがとうございました。
 
   3月30日(月)

斎藤キャプテンの校正を山王姫とココスでやる。姫、老眼鏡をかけ赤ぺンを持ち真剣な顔でやる。直しを待つ間おいらはブログを認める。まぁ、年寄り二人のお勉強会のようなもの。

店内では子どもがゲームをやりながら時間をつぶしている。外で遊べないフラストレーションがたまっているのではないか―。ニュースによれば外出できないので夫婦ケンカが増えているという。出口の見えない新型コロナ。これまでも疫病でたくさんの人命が奪われたのを歴史から知ったがその渦中に巻き込まれるとは想定もしていなかった。

これからどうなるのか―。いつ終息を迎えることができるのか―。このまま進行して人類滅亡の道を辿ることになるのか―。これからの人たちはかわいそう。分からないから人生は面白いとは言えなくなった。
 
   3月29日(日)

終日、パソコンとにらめっこ。キャプテン齋藤の終末病状を見るようだ。ひとが死ぬことを日を追って観察するというのはそういうことか―。黒沢明の映画「赤ひげ」を思い出す。死期迫る患者を目の前にして赤ひげが若い医師に「死ぬということはこういうことだ」と話しているシーンだ。

おいらの家から見える雑木林の中に一本の大きな山桜が咲き出した。こんな遠くから見ても大きいからどれぐらいの幹回りだろう。山王姫宅もりっぱな山桜だった。気になるのでカメラを持って天気のいい日に出かけよう。

ミミズのダンスの文字を追い頑張るがなかなか終わらない。首、肩コリコリカリカリパリパリ。まるで堅焼きの煎餅のよう。煎餅は食べれるが肩こりは食べられない。こまったものだ。
 
   3月28日(土)

朝早くからキャプテン齋藤の介助日誌を清書する。大型のカレンダー余白に書きこまれた文字は小さく枠から飛び出しいらぬところでダンスをしたりと忙しい。それを老眼たれ目が読み取り整理する。疲れる、頑張る。疲れる、頑張る。肩コリコリ、眼チカチカ、鼻水タラアーリ。こまったものだ。

これは精神を集中してやらなければといばぶん事務所へ。自宅ではいろんなことが目に入り甘えが生じてしまう。文化郷は土曜日だというのにひっそり。仕事をやるにはもってこいの環境といえるだろうが、やはり人の気配が感じられないのは寂しい。

今日中に決着をと思ったがそう簡単に終わりそうもない。そこで作戦変更。のんびりやろうということでそそくさと文化郷を後にする。
 
   3月27日(金)

潮来マリーナに文化郷オーナーの息子と行く。ヨットの譲渡を受けて実物を見たいという息子の道案内のようなもの。潮来マリーナの広い敷地を見て息子は唖然。いろいろ楽しそうな事業ができそうでワクワクする。当人は現在経営しているフォンテーヌの森の経営で手一杯。ただ、唖然とするだけ。

世の中は総評論家時代。あちらこちらの情報をコピーしてただのがきをもっともらしく言うだけ。おいらもその一人。楽しそうなアイデアは浮かぶが全部蜃気楼のようなもの。外野は黙っていろという声が聞こえそうなので途中でやめる。

帰り、稲敷台地をクルマで走っていると強い西風に舞い上がった土埃で前が見えない。スリルのあるドライブを楽しむ。お疲れさまでした。
 
   3月26日(木)

山王姫こと、いばぶん理事長が吉瀬の事務所に来る。故キャプテン齋藤のことでいろいろ話し合う。いろんなことがあった。それにしても10年も全身全霊で面倒をみた山王姫には敬服する。後始末がまだ残っておりその相談。山王姫は春を迎え怒りが燃えてきたのか闘志満々。そういえば詩人会議4月号にキャプテン齋藤をヒントにした詩が載っている。

「かわいそうな人」というタイトルで ― 細くなった皺だらけの腕に/高価そうな金ぴかの腕時計と指輪をつけている― こんな書き出しだ。とにかく頑固で個性豊かなキャプテン齋藤だった。

本日、また詩人会議に一編の投稿する。いつも採用されるか楽しみしている。採否は審査員によってどうなるかわからない。例えば、選考日の朝、カミさんと大喧嘩してイライラしていたとか―。これが面白いのだ。
 
   3月25日(水)

滝の園の桜は満開だ。おそらく開所した時に植えたのだろう。今ではりっぱな大人となり入所者の目を楽しませてくれるまでに成長した。エライものだと思いながら朝の巡回を終えマスターキーをカギ箱に返そうと思ったらカギ束が無い。ナイナイバァーではないのだ。

確かにポケットに入れたと思った。それが無いのだ、さぁー大変。一度巡回したコースをもう一度まわり探す。ああ、ボケてきたなぁー。フト、ポケットを探ると入っているではないか。ああ、金魚ちゃんの天の声が届く前に自分を「大バカメ!」

山王姫から昨日頂いた芋焼酎「赤霧島」を飲みながら書く。これはとつてもなく旨い。ペンが進み段々ハイになり気宇壮大な夢を描く。ここで天の声が届く「バーカ、おまえさんはもう終わった人だよ」「ハイ、分かりました」それにしてもおいしいお酒です。ありがとうございます。■山王姫宅の春その2
 
   3月24日(火)

クビの痛みがやわらいだ。いつも体調に戻ったようだ。先週の火曜日からおかしくなったから約1週間で全快したことになる。最初は一晩寝れば大丈夫だろうと思っていたがとんでもない。これからはこういう事態になったらすぐに専門医に治療してもらおう。

元気も出たので山王姫宅の満開になったという山桜の写真を撮りに行く。山桜は堂々と見事な美しさを見せて青空に映えている。太い幹にたくさんの枝を張りめぐらせ数えきれない。その小枝の先に白い花びら。時おり吹く強い風に揺れ青空を泳いでいるようだ。

広い庭内をひと回りすると春を待ち遠しそうにしている花々が色あざやかに咲き出し春の装いの身支度に忙しそう。春はいい。風は冷たいがはこの自然いっぱいの庭を見て歩くだけで元気がもらえそう。ああ、金魚ちゃんにも見せてやりたいぐらいだ。「バーカ、おまえさんに花を愛でるハートがあるとは信じられない。ウソだろう」という声が返ってくる。
 
   3月23日(月)

昨日は暖かくとても過ごしやすい一日だった。それに続いて安心快適の今日を期待したが寒い終日だった。おいらのころころ花壇の花たちも寒そう。ころころ菜園の大根やキャベツも寒そう。震える寒さをこらえ春は静かに緞帳をあげるのです。

山王台の姫から電話が入る。泰然とそびえている山桜が咲いてきたという。すぐにでも行きたいがモロモロの事情で行けない。近いうちにうちに行くといってサヨナラする。山王姫はクビコリコリを心配してくれいろいろアドバイスをくれる。ありがたく傾聴する。

それにしても、桜の花びらはなぜ散るのか考える。きっと大きな理由があるはずだ。今は分からない。明日も考えてみよう。必ず答えはあるはずだ。
 
   3月21日(土)

高橋医院から市川接骨院へとハシゴだ。クビの痛みが取れない。以前、高橋医院で治療してもらい不思議なほど痛みが消えたことを思い出したのだ。そこで午前中は高橋医院へ午後は市川接骨院へ。どちらの先生もすぐに治療にくればこんなにひどくならなかったという意見。ごもっとも、これからそうします。

アタマを支えるクビの筋肉が弱ってきたのが原因ではないかと素人診断をしている。原因が老化からくるもの。筋肉が老化した老人は廊下を走ったり跳ねたりできないのだ。誰にでもやってくると分かっていても自分は大丈夫だと思っている図々しさ。こまったものだ。

シナリオは決まっている。東京オリンピックは中止か延期。その損失を誰が被るかというのが陰で議論されているだろう。それこそ寝違えるほどの痛みを背負って練られているはずだ。人類が滅びるかというこの事態にオリンピック開催などとんでもない話だ。「そうです。たまには正論を言う時もあるのだね。感心感心」と、天の声あり。
 


   3月20日(金)

寝違えて傷めたクビの痛みはなかなかとれない。昨晩はきつかった。爆睡したのはよかったが夜中のオシッコタイムで起きようとしたがクビが固まったようになり起き上がれない。その苦痛といったらたまったものではない。

翌朝、すぐに市川整骨院へ。電気やらマッサージを受ける。少しは良くなったが著しい回復まではまだ遠い。先生曰く「昨日より少し良くなったが体全体が固い。1週間ぐらいかかるのでは―」がっくり。外へ出るとこれがまた寒い。これもよくない。体が縮こまる。

「安静していた方がいい」という先生のアドバイスに従い部屋で本を読む。また読んでいる本がいけない「夕映えの道」(ドリス・レッシング)という英国の作家の作品は、誰もが辿らなければならない普遍的な老いをテーマにしたもの。非生産性的人間の老い模様を描いており辛いものがある。ますます暗くなる。
 
   3月19日(木)

市川整骨院に行く。肩こりコリコリカクカクしてしょうがない。原因はなんだろう。貧乏でクビがまわらないのは生まれた時からだから免疫になっており除外できる。電気や吸引などで筋肉をほぐしてもらう。最後に手によるマッサージ。これが一番気持ちがいい。「疲れからきているかもしれません」と、先生。

そこで考える。知的生産性労働も肉体的生産性労働もそんなに根を詰めてやった記憶がない。自分では抑えめにやっているつもりでも、やはり体が衰え悲鳴をあげているのかもしれない。

金魚ちゃんに訊く。これまで肩こりならぬ尾ひれ背びれのコリコリはあったのか?。どういう原因でそういう症状が出たのか?「バーカ、おまえさんがエサやりを忘れ腹を空かしイライラした時だよ。よーく観察していろ。もう何年一緒に暮らしているのだバーカ」。「はいわかりました。これから気をつけます」。さよならです。
 
   3月17日(火)

金魚ちゃんに訊く「新型コロナウィルスの終息はいつごろだろう」「バーカ、そんことは分かるはずがないじゃないか。コロナちゃんに訊くのが一番しっかりした答えを出してくれるよ」。名解答ありがとうございます。

本県にはまだ患者が出ていない.。これは知名度が全国最下位というのと大きく関係があるのではないか。これも全国最下位で一番最後になるのでは―。それは喜んでいいのではと思っていたら今日、発症者が出たというニュース。外国人の研究者や学生の多いつくば市かと思ったが日立市。こまったものだ。

昨晩、寝違えたせいかクビが痛い。クルマを運転する時の左右確認も容易じゃない。そこで湯楽の里でさまざまな湯船に入りほぐす。いくぶん良くなった。加齢による肉体のボロはいつどこからやってきて顔を出すかわからない。こまったものだ。
 
   3月16日(月)

終日、体が重く気怠かった。気晴らしにと歩くがこれも足が重くなかなか前へ進まない。お天気のせいではないか。昨日はあんなにルンルン気分だったのに一晩でこうも変わるものかと歩く。途中、コブシの白い花を見つけて少しは心が晴れる。

スマホの歩行計で距離を測ったら約4000歩。目標は7000歩とある。あと3000歩をどうするかと考える。「バーカ、考えなくてもいい歩けばいいのだ」と、天の声あり。

滝野園の当直に持っていこうと用意した本を忘れたことを気づくが時すでに遅し。ところがスマホでキンドルを開ければどーんと本が現れる。そこで立原道造の詩をチラチラ読んでNHKFM放送を聴く。とにかく、この世はスマホがすべてをカバーしてくれる、ああ、恐ろしき世の中、この時代を生きるには団塊の世代では辛いものがある。
 
   3月15日(日)

本は読まなかったがそれなりに充実した一日だった。まず、花壇と菜園の手入れが順調(?)に進む。順調の疑問符というのは素人にわか百姓。これが怪しいのだ。すべて自分のカンと気分でやっているからこの先どうなるか分からないということ。

お日がらもいいということでつくばの植物園で昼食をとなり出かける。手作り弁当はなし。セブンイレブンでサンドウィッチと菓子パンを買う。途中まで行き、もしや、コロナ騒動で休園かと思ったらやはり休園。どこもかしこも自粛モード全開なり。

そこで、乙戸沼公園に方向転換。こちらは駐車場が満杯。みんなどこへも出かけられずやってきたらしい。穴場の駐車場の車をとめベンチに座り昼食。おいら夫婦のような年寄りは見当たらず。子どもと若いパパとママが遊技台のまわりで遊ぶ。ああ、平和を実感する。
 
   3月14日(土)

寒い一日だった。ストーブを点けて読書。辻邦夫の「のちの思いに」。タイトルは立原道造の「のちのおもひに」から採っている。「夢はいつもかへつて行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち ―」。立原道造のこの詩は大好きだ。

しばらく読んでいると、あれ、これはいつか読んだと気がつく。S氏からたくさんの本を頂いた中にあったものだ。静かに本棚に戻す。次は「夕映えの道」(ドリス・レッシング)を読みだす。2007年度ノーベル文学賞受賞だそうだ。まったくそのことは知らない。しばらく読むと、これはフンドシをしめて読まなければと―。そこで、ゆっくり再び読みだす。すぐに眠くなる。

本読みに励み疲れ散歩がてらハリガエへ。ブリの荒物を買う。ストーブの上でことこと煮るのが好きなのだ。村山さんにもらったシイタケとチャーコにもらって長ネギも加える。あとは、煮えるまで待つのだ。それで、今日はお終い。
 
   3月13日(金)

山桜の大木一本
樹齢幹高わからず
幹回り3m20㎝

幹にはいのち
小枝にもいのち
葉っぱにもいのち
花びらはいのちだらけ

山王姫宅の庭にでんと構えている山桜の印象だ。これまで何度も伺っているが特に気にすることもなかった。それが、最近山桜だけでなく樹木や草花に興味を持つようになった。これは、庭造りやミニ菜園に汗を流すようになったせいかも知れない。

それにしても自然の生命力はすごい。芝生の手入れをしていると雑草があちこちから顔を出している。それを引んぬく。それでも次から次へとあいさつもなく顔を出す。キリがないとあきらめるが気になるとまた引んぬく。結論、要するにおいらはヒマを持て余したよれよれおじんなのだと気づく。これも我が人生なり。
 
   3月12日(木)

「呼ばれるまで待つのだM先生」。通院している東京医大病院へ行く。先般行った大腸内視鏡検査で盗んだポリープの案配を聞くのだ。かしこまって拝聴する。細かいことは分からないがガン予備軍のポリープではないとのこと。

しかし、のんびり屋のおいあらでも予約から2時間も待たされるとくたびれる。そこで、勝手知った病院内を散歩。背伸びしたり屈伸したりしながら歩く。行き交う人はほとんどが白いマスク。これじゃ、美人もイケメンも分からない。かわいそうと無念が交差する。そして思う、おいらは歩くこととぼーっだけの人生か―。それもよしとするか―。

午前中は庭の草取りと金魚ちゃんのお住まいの大掃除。金魚ちゃん気持ちよさそうにゆらりゆらり。ああ、ささやかな満足感。世の中これでいいのだと思う。
 
   3月11日(水)

潮来マリーナに行く。村山社長にキャンプ場造営の進み具合を案内してもらう。実に多彩な仕掛けで驚く。これなら子どもたち大喜び、うまくネットで紹介されれば拡散間違いなし。部外者のおいらもワクワクする。

新利根川で真珠養殖をやっているK君に会いに行くが不在。オフクロがいるということで作業小屋へ。デカイ猫が四匹ウロウロしている。オフクロさんの主人は今月4日に亡くなったという。90歳で最後までしっかりしていたの良かったという。おいらが撮った写真を遺影に使ったというが、いつどこで写したのかも憶えていない。

そういえば、おいらが撮った写真が遺影に使われたというのが数人いる。どれも、いつどこで撮ったのかわからない。それでも、仏壇にあるということは何らかの関係を示す証拠。やはり悪いことはできないものだ。
 
   3月10日(火)

山王姫宅の庭の写真を撮る。雨は降っている。この風情も見ておきたかった。長ぐつを履いているが足もとが悪いうえに傘をさしてのパチリパチリ。雨はカメラを濡らしレンズを曇らせる。写真撮影には何かと不自由だがそんなことでは負けていられない。

「世界一美しい大陸-南極図鑑-」という南極探検隊に随行したカメラマンの本を読んだばかり。その撮影条件は最悪で自然との闘い。寒さで凍えたシャッターが作動しないこともしばしば。南極の景色はそれこそ美しい。

山王姫と話していたら花粉症で鼻水がチュルチュル。たくさんのティッシュをちょうだいする。それに焼酎とおいしいおしんこ。これは絶品。花粉症で頭はどうなのかと聞かれ「ぼーっとする」「そしたら365日花粉症じゃないの」。ガクリ。見透かされたか―。◆大久保純子邸の庭 春景色
■かなわぬゆめと ちきゅうぎまわして せかいいっしゅう 
 
   3月9日(月)

心地よい日和の一日だった。ごみ袋を運ぶついでにそのまま散歩に行く。「バーカはクビからカメラをぶら下げている。大きく腕をふって足早に歩くという定義にはずれている。カメラを持つということは散歩を楽しんでいないんじゃない?」と天の声。

こういうのを欲張り散歩というのだろう。ああ、情けない。案のじょう天からの二度目の声が届く。「ヨレヨレオジンよ。おまえさんはあれも欲しいこれも欲しいの七十一年だった。もう、畳六尺の世界でいいのではないか」。はい、分かりました。

S氏よりメールあり。「ひよどり、つぐみ、あおじ、です。ひよはまわりを蹴散らします」。おっしゃる通りひよどりは他の鳥がえさをついばんでいると甲高い声で鳴き蹴散らす。それを蹴散らすのは黒の野良猫。餌台にはパンの耳を置いておく時もある。それを狙っているのだ。その野良猫を蹴散らすのはおいら。いろいろと面白いことがあるものだ。S氏よありがとうございます。
 
   3月8日(日)

朝からぐずついた天気。こういう日は気分が滅入る。当直明けで頭がぼーっとしているから余計に頭といい体といい重く感じられる。

潮来マリーナの社長から電話あり。つくば文化郷オーナーの体を心配してくれる。リハビリに励んでいるようだと伝える。社長も毎日、接骨院に通院してリハビリ中のこと。キャンプ場は順調に工事が進んでいるとのこと。今週、一度見に行くと伝える。

ぼーっとした体をシャキットしようとながみね温泉に行く。残念ながらコロナウィルスの影響で臨時休業。コロナウィルスは高みの見物とばかりに成り行きを見ているが、いろんなところでこまっていることが起こっているようだ。かあちゃん畑に大根を取に行き滑って転ぶ。たいしたことではなければと願う。
 
   3月7日(土)

インドのパピアからのメールではコルカタにある印日文化センターはうまくいっているとのこと。彼女は7年前にオープンした時から日本語を教えている。ジャイカに招聘されて埼玉で日本語の勉強に半年滞在したこともあった。ローマ字だと思ったら英語で書かれている。翻訳をグーグル先生にしてもらう。便利になったものだ。

マラプユのISKCON寺院(クリシュナ意識国際協会)に行ってきたという。一度見学したような気がするがよく憶えていない。戒律が厳しく不正な性行為、ギャンブル、陶酔物、肉食は駄目。とてもおいらには無理なことばかり。2022年に大聖堂ができるという。コルカタを訪問する予定はあるかというが、諸般の事情でとても無理。

午後、ヤギ一家の主人と姫丸子に会う。姫丸子は転んで足にヒビが入っているという。みんなよれよれおじんとおばん。ご用心、ご用心。
 
   3月6日(金)

朝、起きて書きかけの詩をやっつけてやろうとパソコンに向かう。10分もしないうちに疲れ庭へ出る。空を見上げると野良仕事にはもってこいの日和。長ぐつをはいて始めたら止まらない。安っぽい詩のことなどすっかり忘れる。

庭づくりのコンセプトは「花盛りの園」。滅茶苦茶な花の競演。泳ぐような花壇にしたい。ただそれだけが願いを込め頑張る。しかし、悲しきことに花のことも土のことは何も知らない。花がうまく育ってくれるか分からない。分からないから面白いのだ。

途中、藤沢周平の「漆の実のみのる国(上)」を読みだす。先だってもらった本の中の一冊。おいらの故郷である山形県米沢の上杉藩の話。数分もしないうちに眠くなる。躊躇することなくお休みする。詩も消えて、なんなく上杉藩も雲隠れした一日でした。
◇追伸:インドのパピアよりメールあり。左右の写真も添付されている。
 
   3月5日(木)

I・S氏よりたくさんの本を頂戴する。なんともありがたいプレゼント。いただいた本をざっと見まわして、さて全部読みきれるかはなはだ不明。それでも本棚にならべて背表紙を眺めひとときを過ごすのも悪くないではないか―。

茨城詩人会議会員のH・Eさんにショートメールを送る。迷惑なメールと拒まれ返信はないと思っていたら届く。なんとなくとても律儀なひとのようだ。

今、世界中からのおせっかいが増えた。いつのまにか届いたりする。これがうまく騙されているということもある。無言の発信は慎むべきだと思うが便利さに負ける。これが、世界の趨勢、こまったものだ。

 
   3月4日(水)

「樹についてついて静かに語りたい。ただみつめているだけでもよい…そのような時間を持たずに人が死んでゆくとしたら全く残念なことだ。決してあわただしく、激しく語るべきことではない。それは人々が死に至ったのちとまでもひとつ所にじっと根を下ろして何百年もそびえ立っているもののことについて語るのであるから…」奈良原一高「太陽の肖像」

そういうことで、雨上がりの夕方、樹を見ようとトコトコ散歩に行く。枯れ葉を落としたエノキは曇天の空に精一杯の枝をのばしている。ああ、天に向かい刃を突き刺すような生命のたくましさに感動。

散歩から帰ると感動を胸にチビリチビリ。だんだん酔いがまわり言動あやしくなる。いつものことだ。窓越しに空を見るとこまったような顔をして曇天の空をを漆黒の闇へと誘っている。そういうことでお休みなさい。さようならです。
 
   3月2日(月)

午前中、いばぶん事務所に雑用を済ませに行く。雑用というのは金銭の帳簿整理。これが苦手だ。どんぶり勘定で金を算段して生きて70数年、その手垢がどっぷりからだにしみついている。これは洗ってもこすっても落ちない。みごとなぐらい頑強だ。それでもなんとか終える。但し、数字が合っているかは疑問だ。

お天気が悪く大好きな土いじりもできない。そうなれば残されたの読書しかない。奈良原一高「太陽の肖像」を読む。疲れるすぐに眠くなる。目が覚めると向井敏「傑作の条件」に浮気する。また眠くなる。そんなこと繰り返しているちに当直の仕事の出番となる。

外は霧雨が降っている。新宿三丁目の飲み屋でバイトをやっていたころと同じ時間だとを思い出す。店の従業員のあいさつは「おはようございます」だった。「おはようございます」に向けて自宅をサラバする。
 
   3月1日(日)

今日から3月。草花が芽吹きだす弥生の季節だ。だから、どうなのだと聞かれても返答にこまる。ただ、つつがなく毎日を送りたいと願っている。このつつがなくというのが曲者で突然よからぬことが舞い込んでくるのだ。それが浮世というものだろう。

プロ野球オープン戦をテレビ観戦する。無観客試合ということでスタンドには人っ子ひとりいない。ずらり並んだ椅子だけが行儀よく観戦している。歓声はなく選手のヤジだけ聞こえる。やはり、どこか間抜けしている。

間抜けな奴にも春はやってくる。ふぬけな奴にも春はやってくる。わが家の金魚ちゃん四匹に春はやってくる。春はどんな奴にも平等にやってくる。エライものだ。
 

おひまな方はこちらへ