怠惰な散歩  2020年

  2月29日(土)

今日で2月も終わり。そこで、詩らしきものを認めました。

青空にウィンク

2月の月齢カレンダーはすてられる

自らの意志ですてたのではない
ひとの営みという幻惑にふりまわされ
気がついたらすてられていた
ひとよ ひとであるという定義は
どなたさまがつくったのでしょうね-

わからないことばかり
青空にウインクする 

*大久保純子邸の庭 冬 その3
 
   2月28日(金)

朝方は寒かった。寒さはひそかな作戦をたてていたのだ。もう春だと有頂天になっている人々に「寒の戻り」という言葉があることを知らせるために―。エライものだ。
今日はどうしたかといえば体を動かしたのことが大ニュースだ。桜川と恋瀬川の橋を越え石岡の山王姫宅へ。山王姫は元気なり。活発でほがらかに大笑いして意気軒高。ありがたく、オーラルを盗む。いつも到着すると庭をひと回りさせてもらいパチリパチリ。これまで何度も同じ風景を撮ってきたが毎回新しい発見をする。これが自然豊かな庭の力とでもいうのか。これからたくさんの花が咲き樹木が声を出すように緑濃い色を輝かせればとルンルン気分になる。

中原中也の詩に「ー大きく腕をふってー」のフレーズがある。思い出しながら腕を大きくふって山王姫とさよならする。追伸:たくさんの頂き物ありがとうございます。
 
   2月27日(木)

さあ、今日のことを書こう。何か他人さまに報告できるようなりっぱなことをやったのかと問われれば何もなし。まあ、他人さまに迷惑をかけるようなことはしなかったということだけだ。(あたりまえだ、誰とも会っていないのだから!天の声)

今の若い人はスマホでサーフィンをして楽しんでいるという。大人は仕事に追われおもれもがいているという。老人はコロナウィルスを恐れぼーっと家の中にこもっているという。(バーカ、それはおまえさんのことではないか!天の声)

日常をつつがなく過ごすというのは平凡のようだがなかなか難しい。なぜ難しいのかと考える。そこで、乙戸沼公園を歩きながらああでもなおこうでもないと頭をフル回転させる。結論は「ひとは何か邪心を持っているからではないか―」。(オタンコナスアンポタン。お金でも落ちていないかと散歩しているのは誰だ!。天の声)
 
   2月26日(水)

今日はつくば市教育委員会に行く。久しぶりの行政の庁舎で田舎者よろしくキョロキョロする。教育長に会いK氏自費出版「てんとう虫」の贈呈のお願いをする。K氏の希望は小中高校の理科の先生の副読本にしてほしいとのこと。承諾してくれる。

ともかくK氏の病気が治ってくれなければこまる。でも、これだけはおいらの力ではどうにもならない。無事に手術がうまくいき快復してくれることを願う。

「だからアメリカは嫌われる」を読む。ごもっともです。傲慢のなにものでもない傲慢さ。いつか、アメリカは大きなしっぺ返しがくることを覚悟しなければならない。CDでプレスリーの「アメリカの祈り」を聴きながら書く。アメリカよ祈りのままではこまるのだ。プレスリーはアメリカという国家に殺されたとおいらは思っている。指折って数えれば同様な著名人がたくさんいる。さよならだ。
 
   2月25日(火)

体のあちこちがぐじゃぐじゃしている。今日は大腸がぐじゃぐじゃしているということで検査。コロナウイルスで大きな病院の対応はどうなってるのかと注意して見ていたが、いつもと変わらない様子。ただ、マスクをしている人がいつもより多いような気がする。

お天気の方もぐじゃぐじゃして寒い。こうなると気分はどんどん落ち込む。ただ、ぼんやりと庭を見ているだけだ。小鳥のエサ台にやってくるヒヨドリを見て喜んだり鼻水をかんだりして過ごす。こういう時は本を読む元気もない。本を読むということはそれなりのエネルギーが要求される。そのパワーがないのだ。

夕方、そそくさと宿直の仕事場へ向かう。雨が降り出した。朝から夕方までぐじゃぐじゃして暗い一日だった。こういう日は早く忘れたいものだ。さよならです。
 
   2月23日(日)

頭がごじゃごじゃこんがらっているのはザンバラ頭のせいだ。決断と実行ということで1300円散髪に行く。初めて入る床屋さんでこわごわドアを開けると先客が5人も椅子に座って順番待ちしているではないか。一瞬ひるむ。なぜかといえば何分待てばいいのだろうと考えたからだ。急ぐ用事もないのに変なことを考える。やはり、何時間待ってもいいから散髪をしようということで新聞を読みながら待つ。

格安床屋だから数分で散髪が終わると思ったが意外と丁寧。何でも体験してみないと分からないものだ。髭剃りもシャンプーもないからそのままながみね温泉へ。今日は日曜日のせいかこちらも混んでいる。湯船にはくたびれたオジンさんが7人ほど顔をほてらせ黙して入っている。追加ひとりということでおいらも湯船へ。窓越しに見える青空はどことなく冷たく感じられるがとてもきれいだ。

きれいな体になったところで土浦図書館へ。文集「太陽の肖像」奈良原一高著を借りる。写真家は写真で勝負という哲学を貫いていたから文集は珍しい。読むのが楽しみだ。
 
   2月22日(土)

鼻水は引力に逆らうことなく素直に鼻孔から静かに厳かに堂々とタラリィータラリィーと音もなく流れてくる。色は限りなく透明に近いホワイト。どこかの本のタイトルと似ている。いや、失敬しただけだ。失敬しただけの生の流転。必ず終わりがある。そうなれば失敬もできない。

「だからアメリカは嫌われる」を読む。2002年の出版。それから18年も経っているから社会情勢は変わり参考にならないだろうと思ったが、アメリカが抱える問題の本質は変わらないだろう。やはり、現在でも通じることが生じていることを知る。

夕方、そろりそろりと宿直の仕事へ行く。少し、日が長くなったようだ。薄ぼんやりした明るさ。頭も薄ぼんやりとしているから、何か自然と合体しているような気がする。空気もほんのり暖かく感じる。春は確実にやってきているようだ。
そういうことで、本日は店じまいです。さようなら、お休みなさい。
 
   2月21日(金)

庭の手入れをしていたらチューリップの芽があちこちから出ている。去年、やたらめったら植えた。どこに植えたのかも忘れたがチューリップは暖かさに誘われるように芽を出しはじめたのだ。家出することもなく元の場所からしっかりと生の息遣いを見せている。エライものだ。

突然、霞ヶ浦を見たくなった。そこで湖畔の道路をクルマでのんびり走る。別にこれといった理由があるわけではない。日々これといった理由もなく生きているようなものだ。チューリップが芽を出したということはそれなりの理由があるはずだ。どんな理由があって芽を出したのか聞いてみるがチューリップは答えてくれない。ああ、世の中は謎だらけだ。

「天気痛」というのがあるそうだ。片頭痛などもお天気に大きく関係するという。おいらの頭はいつも片頭痛状態。その症状はぼーっとしていること。その、ぼーっとした頭で霞ヶ浦を見る。たおやかな湖は黙って波をゆうらりゆうらりたてている。その波に一つも同じものがない。無限のゆうらりゆうらり、エライものだ。
 
   2月20日(木)

昼過ぎ、山王姫宅へ写真を届けに行く。一つひとつ用事を済ませないと次の仕事(?)に取り掛かれない。金魚のフンのように頭の固まりついて離れず気にかかってしょうがないのだ。出かける前に電話をしたが出ない。留守なのだろうか?もしそうなら母屋の縁台にでも置いてこようと思っていたら在宅だという電話が入る。これで一つ片付く。

今日の空はどんより沈んでいる。気持ちがふさがる。そんなことではいけないと整復師会の仕事に取り掛かる。これはパソコン相手で庭の草取りとはチョットわけが違う。モニターを見続けていられるのは1~2時間。後は目が霞んで頭がぼーっとする。

ぼーっは得意とするところだが仕事となるとそうはいかない。生活のため生活のためと踏んばる。踏んばれば踏んばるほど目がチョボチョボする。心機一転ということで散歩。あっちの坂、こっちの坂を上り下りすること30分。今度は体がヨボヨボと根を上げる。年寄りはこまったものだ。
 
   2月19日(水)

草むしりしながらミャンマーに仏跡旅行したことを思い出す。「ビルマの竪琴」の本も思い出す。「日本に帰ろう!」ここだけは、よく憶えている。いろんな仏跡の前で手を合わせた。ああ、手を合わせるということはどういうことか―。

雑草を引き抜くむしり取る。まるで死刑執行人みたいだ。おまえらには罪はない。ただ、おいらの我がままだと許しておくれ。雑草を引き抜くむしり取る。

ルンルン気分で草むしりをやっていたら、タラリィータラリィーと鼻水が音もなくたれる。この鼻水は大地に恵みとなるのか―。ああ、ルンルン気分がすっ飛ぶ。大きなクシャミの連続。ああ、花粉症という武器がやってきた。きっと、同じような病気を抱えている人は全国津々浦々にいるのだろう。製薬会社は高笑い。空を見上げると大きな青い空。ありがとうございます。ということでサヨナラです。
 
   2月18日(火)

明るい火曜日だった。何しろ大好きな青空だ堂々と広がり世界の人々を見下ろしているのだから―。ひとは誰もが空から見られている。では、地下からはどうだろう。これもしっかりと見られている。これは怖いことだ。なぜなら、人々の悪さを我慢しつづけ、さらに養っているというのにとんでもない過ちばかり犯す。そこで爆発する。時には大地を揺るがしたりただらなぬ雨を降らし風とともに咆哮する。

そういえば「風とともに去りぬ」という映画があった。映画を見てから数年経って本も読んでみようとて買ったが最後まで読み切れなかった。そのことをある人に話したら「読みどきのチャンス(年齢)を逃すと読めないものだよ」と言われた。そうかも知れない。古典の名著といわれるものはそういことがないのだろうか―。

金魚ちゃんに疑問点を訊く「バーカバーカ、メンタンピンアンポンタン」と、一刀両断のお声がありました。そういうことで皆さまお休みなさい。
 
   2月17日(月)

今日は暗い月曜日だった。天気予報では昼から青空が見えると話していたがお日さまいつまでも出てこない。きっとおいらの海馬は能天気で聞いていたのだろう。

K氏の見舞いがてら所用のため筑波病院へ。K氏は突然、歩行困難となり来週手術とのこと。前回来た時より元気がないような気がする。「こんなことになるなら、早く整理をしておけばよかった」。この言葉は特老施設に入所しているYさんからも聞いた。いろいろと整理したいことがあっても体が動かない。歯がゆいというより無念に尽きるだろう。

山王姫から電話あり。特老施設で茶会の催事にお点前をしてくれたEさんの容態が悪いという。100歳に近いはずだから天命というべきか―。「みんなお年寄りだから今日を精一杯生きることに努めるべきだ」と力説。納得、納得。それにしても昨日といい今日といい暗い一日だった。
 
   2月16日(日)

暗い日曜日だった。理由は簡単で終日どんよりと曇り時おり小雨もぱらつく。こういう日はいけない。どんどん気持ちが落ち込み前向きになれない。どうしていいものかとぼんやり窓越しから見える雑木林に視線を送る。「どうしましょうか?」と声をかけるが返事はない。ますます寂しくなる。

コープが10%引きの売り出しをやっているということでかあちゃんに付き合う。簡単にいえばアッシー君。空はまだ曇っている。かあちゃんの目だけギラギラ光っている。このサービスディーにしこたま仕入れようとメモ帳を確認している。空は晴れていない。おいらの心も暗い。こまったものだ。

夕方、チビリチビリやると少し元気になる。心花壇には小雨がポツポツ降りそそぎ 乾きを癒してくれている。こうやって、市井の老いた夫婦の一日は幕を閉じる。金魚ちゃんに訊く。「今日も生きたということは明日も生きろということですか?」「ばーか、勝手にしろ。それより日々のエサを忘れるな!!」。ありがとうございます。
 
   2月15日(土)

ブログを更新しようと昨日のを見ると日付が間違っている。慌てて修正。これが新聞となると大変だ。常陽新聞で働いていた時にこういう大ポカをやった。いかに地方の小さな新聞社とはいえ許されるものではなく全体責任だ。「欄外をしっかり確認しろ」と叱責された。まあ、おいらのブログの場合は間違いはすべて許されるという編集方針。お詫びと訂正もない。

山王姫宅へパチリパチリをやりに行く。フキノトウが芽を出したという一報が入りそれではということで出かける。弟の武司さんの月命日で石岡にある墓前に手を合わせにやってきたという義妹さんが来宅している。「父は武司にはよくできた嫁さんだと言っていた。本当にしっかりしているよ。武司は幸せ者だったよ」と、しんみり。

フキノトウと白梅と藪椿の写真を撮る。山桜とヒマラヤスギの幹の太さを測る。まあまあ、よくぞ育ってくれましたというように太い。山桜が3m20㎝でヒマラヤスギは3m70㎝。これだけではなくもっとたくさんの大きな樹木がある。しっかり観察しよう。追伸:おいしいものたくさんありがとうございます。(冬その2に追加)
 
   2月14日(金)

昨晩、チビリチビリやりながら長電話したせいで本日は二日酔い。胃がずしんと重くイタイイタイと悲鳴をあげている。決してほめられたことではないが、話に夢中になり楽しくなると酒も進みプカプカも増える。体にいいことなど一つもない。

中原中也の詩集をパラパラ読む。遠藤智世子の詩集をパラパラ読む。「時間は存在しない」もパラパラ読む。パラパラした気持ちで庭の草取りもついでにやる。ああ、これがおいらの生きざまのパラパラ人生だ。

パラパラ人生花盛りのついでに図書館から借りてきた「中原中也帝都慕情」福島奏樹もパラパラ読む。福島奏樹という作家は月例短歌絶叫コンサートを各地で行っている。まだお目にかかったことはない。それでも注目している作家でこれまでに数冊読んでいるが中原中也についての著作が多いのに驚く。もっと読んでみたいとパラパラ頭で思う。夕方、姫丸子がバレンタインデーのチョコレートとたくさんの焼き鳥を持ってきてくれる。いつもありがとうです。感謝しながらさよならです。
 
   2月12日(水)

ヒマだからブログを書く。ヒマだからあくびをする。ヒマだから土いじりをする。ヒマだから本を読む。ヒマだから食べて出す。お天気もヒマそうで温かい南風を運んでくる。

とってもヒマで退屈ということで「時間は存在しない」カルロ・ロヴェッリ(NHK出版)を読む。時間というのは本当に存在しないのではと考えていたので夢中で読む。なかなか1回読んだだけでは分からない。何度もページを折り返す。でも、面白い。

遠藤智与子さんから「その先へ」の詩集が送られてくる。山形県寒河江市からひたちなか市に越してきたという。茨城詩人会議はこれからどうなるのか―。数人が集まり肩を寄せ合って再出発できるのか―。何となく明るい兆候も感じるが何となく静かに消えていくような気もする。
 
   2月10日(月)

老健施設に入所してリハビリに励んでいるよう子さんを訪ねる。久しぶりだ。もう10年も会わなかったろう。おいらも顔を忘れたがよう子さんもきょとんとしておいらを見ている。しばらく話しているうちの少しずつ思い出してくれる。昔々、よくかあちゃんと三人で酒を飲んだ。もっともかあちゃんは日本茶だったが―。

施設の窓越しに目を移すと幼稚園が見える。子どもたちがブランコに乗ったり駆けっこして遊んでいる。元気な歓声も聞こえる。これからの子どもたち、これからの老人たちを考える。空は広く青い。よう子さんは月が好きだというので「ここなら、お月さまが見える。介護士さんに頼んで見せてもらったら―」。「余計なことをいうな。小さな親切大きなお世話だろう。バーカ、バーカ」(天からの声)

いばぶん事務所へ行く。細々した雑事をする。文化郷オーナーが不在で寂しい。何となく気合いが入らない。やはり、大上段から見ていてくれる人がいないと駄目なのか―。それでもと気合を入れる。「まあ、それなりの能力でそれなりの努力することだな」(天からの声)
 
   2月9日(日)

昨日の夜はたっぷりと眠れた。東京に出かけることが大仕事のようになり疲れていたのだろう。夜中に必ず迎えがくるオシッコタイムもなく朝の6時までぐっすり、といっても起きるとすぐにトイレに駆け込んだが―。

カメラを持ってブラブラ近所を散歩する。まったく人影が見当たらない。今日は日曜日というからみんな家の中に引きこもりひっそりと息をしているのだろうか―。ニンゲンとして生まれてニンゲンとの付き合いが煩わしくなる時もあるが、ここまでひっそりと静まり返った住宅街を歩いているとチョットばかりニンゲンが恋しくなる。

「祈り」の写真をupする。これで手持ちの写真はなくなった。また写真を撮りに行かなければ―。ところがこのテーマにヘソがないことに気づく。テーマの意図が明確でないのだ。毎日のぼーっ生活を見事に反映しているようだ。フンドシを締めて考えなければ―。「バーカ、そのあたりがお前さんの限界だよ、バーカ」。天からの声が届きました。さようならです。
 
   2月8日(土)

初めて詩人会議の勉強会に出席する。1回だけいいからどんなものか現場を見ておきたいと思っていた。電車は走る。走る電車の優先席に座り揺られながらブログを書く。スマホの時代になった。

詩人会議の勉強会は静かに終わる。何か満足したような燃焼仕切れないようなぼんやりした気持ち。こんなものと思っていたから驚かない。とにかく、どんなことをやっているのかを見たかった。勉強会は東京大塚の詩人会議事務所で開かれた。参加者13人。事務所内は書類や本などで雑然としていた。懇親会でおいしいお酒を飲んで楽しく過ごしありがとうございました。

帰りの車中、目の前に立つ若い姉ちゃん三人、スマホとマスクをして立っている。襲われそうで怖い。

 
   2月7日(金)

寒い一日だった。今年一番の冷え込みではないか―。整復師会の編集会議で水戸へ行く。クルマを運転しているぶんは暖かくて気持ちがいい。これが外へ一歩出ると底冷えするような寒さが全身を襲う。寒いのは嫌いだがこれだけは逃げ道はない。冬眠できればいいと思う。もっともそのまま永遠に眠りについてもいいのだが、まだお迎えには来そうもない。

思ったより早く会議が終わり時間つぶしに土浦イオンへ。今晩は当直日だから水戸から直行しようという計画が狂い勤務時間までたっぷりある。健康マッサージがあったので利用する。最近のマッサージ機は性能が良くなり至れ尽くせり。有り難いものだ。これが無料ならもっと有り難いのだがしっかりお金は取る。

フードパークはがらがら。こんなに空いていたら暖房代にもならないのではと心配する。おいらが心配してもしょうがない。商魂たくましいからどこかでペイしているのだろう。つくづく金儲けとは縁遠い生活をしてきたと思う。そのツケがまわってきたようだ。それはそれで覚悟を持って受け入れるが体力の衰えが気になる。こういう寒い日は特にだ。愚痴を言って本日はさようならです。
 
   2月6日(木)

昨日、ぽかぽか陽気でお日がらも良さそうなので石岡の山王姫宅へ行く。先ず電話で今日の予定を聞く「元気しています。良く食べて眠っています」と元気な健康印の弾んだ明るい声。「出すものもしっかりですか?」「はい、しっかりたっぷりです」。昔、つくば市にある国環境研究所の研究員に「霞ヶ浦にいる鳥はどれぐらいウンチするのですか?」と質問したことがある。返事は明解「食っただけ出す」。

山王姫宅の広い庭をひとまわりしてパチリパチリ。白梅が咲き福寿草も黄色い可憐な花びらをひっそりと―。春の息吹が庭いっぱいにやってきて歓喜の舞いをしているようだ。手入れの行き届いた庭はすっきりさっぱりで気持ちがいい。まるで、おいらの偏平足のように真っ平な気持ちになる。大久保純子邸の庭 冬その2

帰宅する車中、考える。「セピア色の青い空」は終わり寂しいと思っていた。次に何をやろうか考えていたがなかなかアイディアが出なかった。フト思い浮かぶ。せっかく、山王姫宅の庭を一年かけてパチリパチリやろうとしているのだから、山王姫に草花や樹木についての思い出を聞いてまとめてみてはどうか―。あとで相談してみよう。追伸、お土産をたくさん頂きありがとうございます。
 
   2月4日(火)

大岡昇平が中原中也のことよく書いていた。若いころ夢中で読んだ。中原中也と小林秀雄のひとり女をめぐる経緯など―。ところがわが家には大岡昇平の本が1冊もない。小林秀雄も椎名麟三も石川達三もない。j二十代のころ眉間に青筋をたてて読んだ本はほとんどない。こまらいけれど、何か歯抜けしたような気がする。

かまぼこ屋根の彫刻家が住む家を見ながら考える。人影はないが洗濯ものが風に揺れている。ああ、ここに生きている夫婦の息遣いを感じる。そうか、洗濯ものがぶら下がっている家はどんな形であれ自分たちが生きている証でもあるのか―。

大岡昇平の書いた小説はどんなものだったのか。やはり「野火」か―。人肉を食べるシーンがあった。そんなことを武田泰淳も「光ごけ」で書いてあった。ポロポロ思い出す青春時代の読書とはなんだったのだろう。しばし黙考。眠くなる、お休みなさい。
 
   2月3日(月)

今日は節分。年男ということで小松の三夜様に行き護摩供養を受ける。年男が豆まきをするのはご祈祷料とは別口ということで断念。豆を拾う方に回る。こちらは子どもたちやベテランが白いビニール袋を手に張り切っている。とても年寄りではあぶなくて人をかきわけ拾うことはできない。かあちゃんは2個拾う。ケガでもしたら大変とそそくさと帰る。

帰るといっても宿直で滝野園に直行。一週間ぶりということで何となく気がのらない。仕事というのはある一定のリズムがあった方が体にはいいような気がする。不定期というのはなかなかリズムがつかめず辛いものがある。70才を過ぎても仕事があるだけでも良しとしなければと義兄は言っていた。そういうことだろうと思う。

中原中也は、「詩とは 所詮 もののあはれだ―」と、親愛の友高森文夫にいい遺した。そして私には、芭蕉のね、俳諧に遊ぶ。柱にもたれて座るな、きちんとした姿勢、そういうことを言っていましたよ。―福島大樹著「誰も語らなかった中原中也」PHP新書。P256
 
   2月2日(日)

蝋梅も見た。白梅も見た。春が足早やにやってきているようだ。山王姫宅へぶらりと訪れる約束をしたがキャンセル。どうでもいいような雑用が突然やってくる。これも生きている証かと素直に従う。

姪っ子のあっこから生まれてまもない三女の写真が送られてくる。元気そうでなにより。とにかくひとは元気であればいいのだ。元気であれば「動けばまわる」も実行可能だ。二本足で歩けることに感謝。

詩人会議3月号で岩波書店の岡本厚社長が「本を読もう」という特集で寄稿している。「人間にとって必要不可欠なもの」というタイトル。その中で「無知は要らぬ対立と争いを引き起こす」。おそらく多くの無知な政治家を意識した言葉だと思う。それを学び直すことは本を読むことが大切という。ごもっもな意見。ありがとうございます。

■あっこです。
三女の凛乃(りの)の写真を送ります!
生まれたてホヤホヤ〜最近の写真です。
 
   2月1日(土)

暦は休むことを知らない。今日から2月という看板を掲げ大歩きする。1月はどこへ行ったのか―。ああ、無情なり2020年1月の日々は世界中の偉いひとを集め議論しても絶対に戻らないのだ。ただ、記録・記憶として残るだけだ。これはすごいことだ。時間を逆戻しすることは誰にもできないのだ。

とにかく、詩を読むことに徹しようとランダムに詩を読む。読むことは疲れることだと知る。いろんな本を読みたい。なんでもいい、気が向いた本を読みたい。辛いのは読書に挑む集中力が陸に上がったカメのようになったこと。

昔、田中角栄が総理大臣だったころ、衆院選挙の手伝いで愛媛県松山市に1カ月余り滞在したことがあった。その時に自民党のキャッチコピーは「決断と実行」。それを鏡として実行を誓う。ところが、実行には金銭が伴う。ここが実にやっかいな問題なのだ。さてどうするか、以下は想像にまかせる。
 

おひまな方はこちらへ