怠惰な散歩  2018年11

   11月30日(金)

どういうわけか本日で11月も終り。これは世界中の人々が共通認識している。と、いうことは世界中の人々は仲よしになれるということではないか―。そこで考える「なかよしこよし」について。

そもそも人類は男性と女性の「なかよしこよし」から今日まで歴史を積みかさねてきたのではないか。ごく普通のことでいえば「なかよしこよし」は何でもないこと。では「なかよしこよし」が突然、喧嘩をして仲たがいになるのかー。

原因は簡単。考えるという知恵を習得したから。これが一番始末に負えない。良い方向に進んでいるうちはいいが、近年は考える中身があまりも愚かさが目立ち複雑になっている。原因はこれも簡単で情報過多。自己能力を超えたどうでいいことまで吸収しようとしている。無理!!無理。それを分かっている人はさっさと布団に入り眠ることです。バイバイ!。
 
   11月29日(木)

すっかり仲よしになった阿見医大へ。本日は定期検査の日。最近は病院に行くことを忘れているぐらいだから体調はすこぶるいい。先生「自分で点数をつけるとしたら何点ですか」「100点満点」と答える。先生「薬は様子をみながら徐々に減らしましょう」ということでほんの少しだけ減る。

採血室で「消化器科は混んでいましたか」「混んでいました」「今日は朝から採血が多かったから」「大相撲のように満員御礼の垂れ幕でもぶら下げたら―」「バカなことは言わないでください」。

採血が終り診察室の待合所で本を読もうとしたらメガネがない。確かにさっきまで鼻と耳を支えにして顔にかかっていたのに—。もしや採血室に落としてきたのでは―。慌てて戻ってみると受付のテーブルに見覚えのある赤いメガネケースがでんと置かれている。「椅子の下に落ちていました」。バーカな冗談を言ったしっぺ返しでした。
 
   11月27日(水)

小松シルバーセンターから依頼がある。パソコンの使用方法を教える仕事として石岡の山王姫宅へ行くように。よれよれおじんは紅葉美しいシルバー街道を北に向けクルマを走らせる。各地のシルバー人材センターでは仕事が減少したようだ。なぜなら休憩ばかりしてお喋りに熱中。土浦シルバー人材センターで働いていたころ同僚から聞いた。石岡市も同じなのだろうか―。その後の話は秘密。

さて、姫には新しく購入したパソコンを目の前にして初歩的な使い方を教える。ほとんど以前使っていたパソコンと同じといってもダメ。姫はパソコントラウマになっているのだ。トラウマを考える。虎と馬が合体した化け物か?。見たこともないし見たくもない。

図書館から借りてきた「日本写真史1945-2017」を見る。さすがに紹介されている写真にはセンスと技能がある。これらは全部おいらには欠けている。それでいいのだ。人それぞれで能力もしかりだ。手元に置いておきたい本だが5500円なり。無念なり。
 
   11月26日(火)

図書館の匂いってどんなだろうということで土浦図書館へ。館内は木の匂いでつつまれているようだが鼻が悪いのでよくわからない。本の匂いや活字の匂いがあるはずだろうがそれもわからない。これが自分で脱いだパンツの匂いだったらすぐにわかるのに―。

小春日和の暖かさが脳みそに伝染したようで頭が重く体がだるい。歩くと膝がカックンカックンと音をたてだらしなく前に進んでいる。絶対的な老人膝倦怠症がうかがえる。こまったものだと脚に目をやる。自分の脚は二本あることを確認。前へ進めと号令して前方を指差し安全OKで歩を進める。老人はこまったものだ。

図書館には匂いを嗅ぐだけでなく、めっきり活字を追うのが辛くなったので写真集でも借りようという目的もある。絵とか写真ならパラパラとめくり次ページに進むことができる。しかし、最近はパラパラとしながらコックリコックリすることが多くなった。とにかくよく眠れるし眠い。老人はそれでいいのだろう―。
 
   11月25日(月)

山王姫からもらったブランド品の「箱根駅伝」のロゴが入った防寒着を着て朝6時から霞ヶ浦まで歩く。ようやく太陽が昇り始める。明るくなるか湖面を見ながら、そういえば正月恒例の箱根駅伝まで1ヵ月余。選手たちは今ごろ練習に励んでいるのだろう。おいらは電柱と電柱の間を走るのさえままならないというのに、彼らは狂っている。そう思うと胸のつかえがストンと落ちる。

久しぶりに乙戸沼公園を散歩。イチョウ並木の黄色い葉っぱもほとんど散り裸になった。ママさんたちがうららかな陽気に誘われるように子どもを連れ遊びにきている。パパはお仕事で冷や汗をかいているかもしれないというのに―。

毎日が日曜日のような生活。終日ぼーっと過ごしていても夕方はやってくる。カラスは鳴いて自分の棲みか帰る。暗くなれば星が顔をだし大きなお月さまは空を照らす。太陽に申しわけないと思っているのかほんのりと-。そういうことで今日も終わる。さようならだ。
 
   11月24日(日)

今日はいろんな人と会い話しをする。もっとも4人だけ。普段はあまりペチャペチャ喋ることがないせいか相手の顔や目を見ながら話すことになると疲れる。やはり、どこかに気づかいがあるのだろうか―。

高安が敗れ優勝を逃す。今場所は誰が優勝するのかわからないなかで、やはり強い力士が勝つ。あたりまえのことだ。このあたりまえの道理が、こまったことになかなかうまくゆかない時もある。さりとてて身辺にそんな事件も災いがないからわが家は平和な家庭なのだろう。

庭にスズメがやってきてエサをついばむようになった。野田からは瑞惠先生と友だちがいばぶんにやってきた。来年の展覧会の打ち合わせ。4月開催でテーマは「遥かシルクロード」。まだまだ先のことだが、こういうのはあっという間にやってくる。少しづつ準備を始めよう。とにかく年寄りはスロースローにしか動けないのだからしっかり肝に銘じて行動すること。よしよし。
 
  11月24日(土)

山王姫宅へ。新しくパソコンを購入して担当者が接続にくる。ただ、ぼーっと確認のため見ていてほしいと頼まれ出かける。こうなると出張ぼーっ。それも桜川を越え恋瀬川を渡るというからすごい。姫宅の庭はすっかり秋景色。植木屋さんがチョッキンチョッキンやっている。枯葉も清掃され美しい。こういう美しさを独り占めするのはいけないことではないでしょうか―。

帰りにボリュウームと具満載のおでんと衣類をいただく。ありがとうございます。夏物がほとんどだが全部ブラランド品。馬子にも衣裳というからぼーっオジサンでも着ればそれなりか―。怪しいものだ!!。

今日は寒かった。そろそろ両脚にも下着をはかせ温めてやらなければかわいそう。その脚は少しガタがきたようだ。運動不足のせいかますますく細くなっているようだ。奮闘して鍛え直すなどということは邪道を越え不可能というより絶望的。世界は絶望という破滅に向かっている。ああ、悲しいことだ。
 
   11月23日(金)

昨日から保立道久著「老子」(ちくま新書)を再読している。再読というと一度は読了したように聞こえるがそうではない。途中まで読み部屋の片隅に追いやられた偏平の短足でたぐり寄せ再びページをめくる気になったのだ。

新書判「老子」は一般の新書判より倍の厚さがある。有に400頁を越えている。すごいものだ。このエネルギーどこからやってくるのか―。春はまだまだ遠いというのにだ!!。

『「原罪」の思想がこの国に根付かなかったことはーーー現代の歴史に至る様々な思想問題をもたらしているように思う』。おいらが生まれ育った村には神社はあったが教会はなかった。あるのは現在困窮生活進行形の日々。初めて教会を見たのは15歳の時。東京練馬のアパートから。夜になると美しいステンドグラスが輝いていた。もちろん、教会はどういうものかも知らなかった。老子を読んでいると聖書からの多く見受けられる。そういえば著者はミッション系の大学だったのでは―。関係ないか。学者はそれだけ研究しているということか。すごいものだ。
 
   11月22日(木)

そうだ、夕陽を見ながらブログを書こう、ということで西日がさす高台に行く。太陽は眩しくおいらの顔を照らす。まるで舞台に立ちスポットライトを浴びているようだ。それも大きな大きな地球より大きなスポットライトだ。

いばぶんで「霞ヶ浦の民俗」を本にまとめようと思いN氏に会う。来年の3月に新潮社から新書判を出版するそうでその原稿のチェックに追われ超多忙。さらに大学の授業と会社の営業の仕事などが重なり時間がとれないという。働き盛りで脂がのっている感じ。どうもこちらの注文は難しそうだ。

夕方、姫丸子に会いジャンバーとキャベツを頂く。今年はどういうわけか衣類のプレゼントが多い。くれるという物は何でも有難くいただくことにしている。着るものに無頓着なこともありいつも着たきり雀。よほどみすぼらしく見えたのだろうか―。それでも本人は心豊かなオジサンだと思っている。それは買い被りだという天の声が聞こえる。バーカ金魚め。
 
   11月21日(水)

今日も朝起きる。明るくなったころころ花壇を見る。寒さに震えながらさまざまな花びらが揺れている。寒さではなく微かに吹く風に揺れているのかもしれない。だが、寒さに震えているように見える。それでも健気に美しい花を咲かせくたびれた心を癒してくれる。花の命は短しど―加齢の引き算はなし、命つきるまで一所懸命がいい。

さて、今日をどう過ごしたのか。報告できるようなことはない。ただ、途中停車している数冊の本を無視して買い求めた「中国経済あやうい本質」(浜矩子)を朝早く読了したことぐらい。

そういうことで、かあちゃんとよれよれおじんは健気に生きる。金魚ちゃんは金魚鉢から飛び跳ね玄関に落下、小さな命は昇天。畑に埋葬。仲間の金魚たちは見送りもせずお悔やみひとつの言葉もない。非情な奴ら、明日はメシ抜きにするぞ!!、
 
   11月20日(火)

今日は石岡の老健施設ケアハウスゼーレの11月お茶会。写真パチリパチリのボランティア。3月のお雛さま茶会以来のせいか入居者の顔ぶれがずいぶんと変わっている。こういう施設は出入りが激しいのだろうー。職員は辛いだろうと思う。

茶会は主催者の山王姫がお運びを一所懸命にやる。そのせいか、いつもと違ってざわつかず厳かな茶会となった。こういう静かな進行が茶席にはふさわしいようだ。

ゴーンとお寺の鐘がなるではない。ゴーン会長が逮捕されたビッグニュースが飛びこむ。黒いカラスはどこへ帰るのだろう。くちばしにくわえた紙文化ならぬ紙幣文化をどこに運び何を建築するのだろう―。甘くて美しいチョコレート御殿はカラスも食わないのでは―。そういえば上海にはカラスがいないという。早朝から貧困者が残飯を確保してしまうので、早起きのカラスの取り分がないというのが原因らしい。ゴーン会長はそんな話を知っているのだろうかー。
 
   11月19日(月)

「老いの味わい」(黒井千次)をようやく読み終えた。だが、読みかけの本がこれだけある。「終わざる夏」(浅田次郎)「愛のひだりがわ」(筒井康隆)「暗幕のゲルニカ」(原田マハ)「馬を曳く馬」(高村薫)、さらに贈呈本「老子」(保立道久)。それなのに、今日新書本2冊を買った。頭がおかしいのではー。

読みかけの本は決して試合放棄したのではない。ただ、途中停止しているだけだ。けれどもいつ読了できるか分からない。めっきり文字を追いかける気力が衰えた。目が悪くなったこともある。ただ、一紙だけど新聞は毎日しっかりと読むように心掛けている。

亡くなった水戸のご老公の次男からメールが届く。いばぶん所有の茶道具の返還を求めるメールを送ってから1週間経っている。働き盛りで今が仕事をこなす馬力の最盛期。それだけ多忙な日々なのだろうが、返事が遅い。10月には決着をつけたかった事項。それでも一歩前進。少し心晴れる。
 
   11月18日(日)

笠間菊祭りをかあちゃんと見に行く。山王姫と城里町に行く途中、車中からチラリと見た。「かみさんを連れてきてやったら」の声を実行したのだ。今年で111回だというから伝統ある催事なのだろうが二人とも初めて。ひと廻りして、これならお客を呼び込めると思った。土浦の亀城公園で開かれる菊祭りiとは出品数が違うしスケールが大きい。たまげて驚きながらブラブラする。七五三の参拝客も多く来ている。華やかさに一輪添える。

この日の出し物は「舞楽祭」。かわいい踊り子たちが真剣な顔をして優美に舞う。もちろん女の子。肌がスベスベ瞳には汚れがない。パチリパチリと写真を撮る。

帰りに食用菊「もってのほか」の苗を3本を買う。菊は鑑賞するものではなく食べ物として育った山形の少年。よく菊のおひたしを食べたというより食べさせらた。少年期に味わった食生活は永遠に忘れられないようだ。来年はころころ花壇の一角を食用菊で花盛りにして大いに食べよう。さぁーて、どうなるのやら。「もってのほか」よ頼むぞ!!
 
   11月17日(土)

今日は土浦第二小学校でバザーがあるというので見に行く。荒川沖に住んでいたころは荒小でバザーがありよく見に行った。荒川沖の時は東南アジア系の人たちが目を三角にして短足全力走法で買いまくっていた。それは迫力のあるものだった。

10時開始前に長蛇の列。こちらは最後尾。開始時間とともに人が動き前に進む。ようやく会場に入ると、大きなビニール袋を手に駆け足で売り場へ行く人、人でごった返す。おいら、ポカンと見ている。荒川沖と変わらないが全員が日本人だ。東南アジア系の人は見当たらない。地域によって違うことを知る。

読書力というのはそれなりに気力と体力がなければ力は出ないようだ。最近は本を読むのが億劫になった。読み始めてもすぐに眠くなる。そこで、開いた本を手にコックリコックリ。ばたんと本を落とした音で目を覚ますことが多くなった。そのまま永遠に眠っていれば世話ないにと思うが目覚めるのだ。不思議だ。
 
   11月16日(金)

空は青く暖かさはほどほど。目的地に向かう街道は秋景色。ああ、よき日なり。ところが、本日はセピア色の青い空の密着取材。山王姫と城里町にある「やまびこの里」に行く。少しは緊張の中で頭を整理しながら到着。心身に障害があってもみんな元気に生きている。

山王姫は「先生、先生」と入所者に親しまれているが、ここへたどり着くまでの道のりは容易でなかったと想像される。
人生100年時代といわれるようになり寿命が延びたが身障者のそれにならって長生きするようになった。高齢になると施設を出なければならない。その受け皿がないことを教えられ愕然とする。

山間の日は短い。車中から眺める帰り道の冬の気配をヒシヒシと感じる。今日の原稿をうまくまとめられるのだろうかと考える。そういえば身障者は「考える」ということを考えたことがあるのだろうか―。そんなことを質問したら「愚門だ」と一喝されそう。今日は秋景色を楽しんだ一日でした。
 
   11月15日(木)

今日から大相撲のテレビ中継を安心して見れる。なぜなら、横綱稀勢の里が休場したから。今日は勝つか負けるかというハラハラドキドキがなくなったからだ。それならと、次は高安の応援に乗り換えることにする。高安の場合ハラハラドキドキ感はない。なぜだか、勝手も負けても結構。元気に相撲を取って下さい。これで終りなのだ。

図書館に行こうと思ったが霞ヶ浦を見たくなってので出かける。湖はどこまでも青く輝いている。ラジオはベートベンの歓喜の歌が流れている。これから年末になるまで何度耳にするのだろう。そして、どれだけ多くの人が口をパクパクさせるのだろう。

金魚ちゃんも口をパクパクさせるが歌は歌わない。歌えないのか。習わなかったのか。おいらが教えてやってもいいが並外れた音痴。その歴史は長く60数年になる。歴史のどんでん返しや奇跡は起こるわけがない。金魚ちゃん音痴合唱団となれば、そのユニークさから少しは売れるか―。そんな他愛のないことを考え今日も無事に終わる。
 
   11月14日(水)

稀勢の里は弱い。昔、柏鵬時代に柏戸がケガで数場所休場して背水の陣で臨んだ場所で全勝優勝したことがあった。モノクロテレビで柏戸が泣いているのを見たことある。稀勢の里にもそんな期待をしていたが残念なり。

自分の体が思うように動かなくイライラして辛い思いをしているのは稀勢の里本人だろうが、白黒がはっきりしている勝負の世界は怖い。

今日は特段やることがない。徹底したぼーっの時間をやり過ごすことになる。そこでいろいろ考えたが「ぼーっ」=「瞑想」ではないか。そういうことで今日は徹底して瞑想にふける。これが難しい。煩悩がうずいて余計なことを考え体が勝手に動きまわる。曲者だ。これは貧乏性ならぬ徘徊の兆候が表れたのか。おお、怖い怖い。
 
   11月13日(火)

野田市で開かれている光陽展を見に行く。今年で何回足を運んだだろうか―。普段は絵画や写真の展覧会を見に足を運ぶことは滅多にない。どうしてか?。見たいと思わないからだ。大きな展覧会はいろんなところから情報が入る。それで十分。ところが、今回のようなマイナーなものは関係者がワイワイやって終わる。その仲間に入りワイワイとすることは出不精になった年寄りには必要か―。

十数人の出品者はすごい。こうやって長年続けるという意志と覚悟と体力。頭が下がる。頭を下げてもどうしようもない。おいらはすべて中途半端に生きてきたツケを知ることになる。ツケ、漬物ではない、人生のツケ、灰汁を味わうだけだ。

帰ってきて金魚ちゃんにエサをやる。ハラを空かしたのか「金魚ちゃん、金魚ちゃん」と声をかけるおいらに向かって寄ってくる。全員口をプカプカ。プカプカは飼い主に対する愛情のメッセージか。よれよれと泳いでいる姿に我を顧みる。ああ、これが人生なり!!。
 
   11月12日(月)

そうだ、ブドウを食べながらブログを認めよう。きっと甘いブドウの味がする文章が浮かんでくるかもしれない。ところが頭をひねっても甘い言葉はかくれんぼしたまま。どうしてだろうと考える。考えるだけ無駄だが凡人は考えるのだ。

そういえば、今日はいばぶん事務所で山王姫とセピア色の文章をああでもないこうでもないと頭をふりふり貧乏ゆすりしながら考えた。そこで二人の頭は完全燃焼。燃えつき症候群の仲間入りして空っぽになった。それはそれでいいと納得させる。

今日の収穫といえばブドウと夏ミカン。どうぞ食べて下さいとばかりにたわわに実をつけている。彼らはひとに食べてもらうことを喜びとしている。それならどんどん食べなければ―。今日に至る生育するまでの苦労に申しわけない。たとえドロボー呼ばりされようが知っちゃことない。夏ミカンは酸っぱく、ブドウは甘い。ごちそうさん、おいしかったです。ありがとうございます。
 
   11月11日(日)

土浦川口運動公園で開かれている「土浦カレーフェア」の写真を撮りに行く。「土浦幻聴」の続きだ。8月8日、第7回をUPして以来の撮影となる。写真を撮る意志はあったが体が思うように動いてくれなかった。写真家の石元康博は、体が動かなくなったら写真をやめるといっていた。きっと、車椅子に乗り多くのアシストに支えられ写真を撮っていた土門拳を意識していたのではないだろうかー。

電動自転車で颯爽と会場に行く。人、人、人の波。ハラを空かした老若男女がどっさり。驚く。土浦の街がこんな大勢の人で賑わうの花火大会以来ではないかー。人は食べ物で誘えば集まるようだ。

山形県のコーナーもあり、カレー好きのかあちゃんにと「さくらんぼカレー」と「芋煮カレー」を買う。実をいえば、山形コーナーの人気は今ひとつのようでお客さんはならんでいない。ああ、かわいそう!!。写真のほうはどうかといえばグランド3周してパチリパチリ。近日中にUPしょう。
 
   11月10日(土)

お天気もよし体調もよしということでかあちゃんと八郷で開かれている「クラフト展」を見に行く。会場の粗末な舞台ではケーナの演奏があった。コンドルは飛んで行くなど心地よい音色が秋一色の里に流れる。とても心地よく聴き入る。会場は閉校になった旧有明中学校。過疎化が一気に進んでいるのだろう。ここなら、イノチミジカシ老人たちの終の合宿所として最適。昇天したら校庭隅にあるゴミ焼却炉で煙をくゆらせ永遠の魂をみんなで見送ればいいと思う。

火の連鎖反応を見る。実に素直だ。燃える意志ではなく仲間に入りたいのだ。これは、ひとつ考えることができた。自然災害というのはないのでは―。ニンゲンの驕りから生まれた勝手な言葉ではないのか。なにしろ、太陽は勝手に照り、地球は勝手にまわっているのだから―。

そういうことで、今晩はお休みします。バイバイ。
 
   11月9日(金)

朝から雨。これではころころ花壇やころころ菜園の作業ができない。うらめしげに空を見あげる。わが家の前にある電線に小鳥がとまっている。傘もささずにだ。傘なら土浦駅に行き拾得物から払下げしてもらえばヤマほどあるのにと思うが小鳥にはそこまで知恵がまわらないのか、先祖伝来の雨の日は濡れることを実証しているのか。鳥はさえずることを使命としているかのように甲高い声を小松界隈にふるわせているだけ。

「バァーカ、そんなに土いじりしたかったらカッパを着たりカサをさして思う存分やればいい。ああ、それができないといということはが、ふざけた精神とふやけた肉体が合体しているせいだよ。バァーカはいつまでたっても分からないのか―。もう70歳を越したというのに情けない、ああ静かさや庭に染み入る情けなさ!」。遠くの声、近くの声がこだまする。

そういうわけで今日も終り。今日が終われば明日がくる。明日は明日の風が吹くということで終りです。さようなら。
 
   11月8日(木)

いばぶん事務所に行く予定をしていたが庭の整理に没頭して中止。ひたすら雑草と土にまみれ体を動かす。米国の中間選挙の行くへが気になっていたが、そんなことどうでもいいという乗りようだった。なにしろお天気が肉体労働には最高。

真向いの家の庭は完成されている。あちらも老夫婦二人暮らし。時々仲よく雑草を取っているようだが、それ以上の艇入れは不要というぐらいな出来栄え。ところがわが家はまだまだ未完成。といっても完成図というもはないから永遠に未完成のまま。ということはいくらでも遊べるということ。ひとりでほくそ笑む。

セピア色の原稿は小松三夜様で最終稿の手入れをやる。土浦市東口方面を一望できる眺めはなかなかなものである。「推敲」という言葉があるが忘れたことにする。最後は「エイッヤァー」の気合いでOKとする。メールで送り校正をお願いする。この「エイッヤァー」の意気込みが何ごとにも大切なようだ。
 

 11月7日(水)

早朝、霞ヶ浦を見に行く。空は鈍色で薄っすらと射す光は弱い。NHKFMの「古楽の時間」を聴く。「ああ、我が愛するため息」というオペラを女性歌手がそれこそ霞ヶ浦の湖面のさざ波をも鎮めるようか甲高い声で歌っている。されど。今日という日が始まるのだ。そうかといって何も目新しいことを期待できるわけでもない。されど、今日という日の幕は上がったのだ。

庭の整理。ビニールを敷いてドンと座り込み芝生をチョキンチョキン。漢字で書けば貯金。こちらの方は縁遠いが雑草は永遠の友だち。いろんなことを考えながらのこの時間が好きだ。「嘘つけ、空っぽのくせに!!」声の主は知っているが無視。

午後、山王姫宅へ。セピア色の青い空の取材。クルマで向かう途中考える。どうやってまとめようか―。種切れというより脳みその乏しい泉が枯れたのか―。なかなか妙手が浮かばないうちに恋瀬川を渡る。とにかく雑談の中から拾うしかないとインタビュー。話題はあちらこちらに飛んで線香花火のよう。それでもなんとかするのだ!!。
 
   11月6日(火)

暮れ残る空を見あげながら考える。空には「貧乏な空」と「金持ちの空」の二つがあるのだろうか?。きっと、今日一日が辛かった人には貧乏、憎き空。そうでない人は鉛色の重い雲が垂れ込める空でもハッピーハッピーの金持ち空になるのだろうか―。

「年齢準拠型の暮らし」というものが存在するらしい。そこで再び考える。そこへ、一匹の蚊が手の甲に着陸。慌てて片方の手で叩き殺そうとしたが、年齢準拠による体力動作により見事に失敗。若手バリバリの元気な蚊は音もたてず飛び立ち行方不明。

朝から土手の整地作業に取り組んだせいか体の節々が痛い。いろいろと屈伸をやったりしてほごそうとするが体は思うように反応してくれない。理由なき反抗ではなく年齢準拠によるごく自然なことらしい。実に素直だ。メガネをきれいきれいにして本を読もうと手にしたが一行も読めず。無念なり。こうして、今日も終わるのです。さよならです。
 
   11月5日(月)

いばぶん事務所近くの道路には色とりどりの花が咲いている。さらに、「どうかご自由に取って食べてください」という顔をした長ネギなどの冬野菜が植えられている。そこで看板か立札はないもかと探すがない。うららかなお日さまを受け野菜たちがクビを長ーくしてドロボウが現れるのを待っているようだ。きっとおいらをそんな目で見ているのかもしれない。ここはガマンとただ眺めるだけにしておく。

阿見医大病院へ。難病指定の病気だけにいろんなサポートがある。そのためこれまで見たこともない書類を提出しなければならない。慣れていないから戸惑うことばかり。こんなに煩雑ならあきらめる人も―。特にお年寄りには辛い。もっともタンス貯金どっさりなら国から支給されるお金などイラン、か―。

いばぶん帰り、霞ヶ浦を見に行く。クルマを停め降りるとカモメが一斉に湖面の方から飛んでくる。きっとエサをくれる人がやってきたと思っているのだろう。ところがどっこいだ。野菜畑から長ネギを失敬しようと考えるようなよれよれおじん。手土産は何もなし。ざまぁーみろ!!。
 
   11月4日(日)

雑巾を絞っても雫も出なくなった脳みそをフル回転させる。それがままならない日は必ずある。物ぐさになるというのか何をやろうとしても億劫で面倒のひとことですべてを一丁上がりにする。老人特有の兆候で進行性老人病。うまいことをいうもんだ。日々、ブログが書けて本を読むことを目標としているが、それがかなわない日もある。昨日がそうだった。

本日はモロモロの雑用を終わらせるために潮来マリーナへ。ヘラブナの釣場のお客さんを数えたら70人ほど。昨日はブラックバス大会があり200人ほどの人出があったという。潮来マリーナは盛況で不滅なりかー。ともかく雑用を全部済ませる。年内はもうここへ来ることもないだろうと後にする。

昔、新宿のションベン横丁で食べたモツの煮込みを食べたくなり挑戦するがうまくいかない。横丁にはウナギのカブト焼き専門の飲み屋もあった。いつもくたびれた労働者で満員。ゲテモノ好きのおいらには懐かしく恋しくヨダレが出るが土浦に越してきてから一度もそういう一杯飲み屋には入ったことがない。おいらが作ったゲテモノ鍋を目の前にしてかあちゃん箸つけずため息をつく。それでいいのです。
 
   11月2日(金)

わが家の土手の雑草はこれまでトラ刈りだった。本日早朝にすっきりさっぱりと丸刈り。 雑草よ、サラバだ!!。ざまぁーみろ!!。
これで、年内の草刈りが休眠になることを願う。休眠とはひと休みだからまた目を覚ますだろう。その時は、果敢にた闘うのだ。そこで考えた公式。雑草×よれよれオジン=無制限1本勝負=勝敗不明なり。

空を見あげる。空は空の顔をしている。顔というのは自己証明かー。

午後、図書館に行こうとクルマに向かっていたら元相棒がママチャリを坂道を押しながら上がってくる。ハアハアと息を切らしている。この坂は健康坂というよりスパルタ坂、もしくは筋肉アップ坂ともいわれる難所坂。みんな修行するように挑む。ニヤニヤしながら挑めているうちはいい。「年齢とは常に初体験なのである」(黒井千次)。写真は小松三夜様付近
 
   11月1日(木)

11月の朝日はどうかと霞ヶ浦に見に行く。快晴なり、波静か、冷たい風が湖面から吹いてくる。横着なよれよれオジンはクルマの中から日の出を仰ぐ。そんなこんなで何でないよという顔をして太陽はまん丸顔をだす。顔が丸いということはやはり地球と縁戚関係にあるのか?

東京医大での定期検査日。心かろやかに出かける。決まっている。順調に回復に向かっていいますという言葉を先生から聞きたいのだ。先生が男でも女でも構わない。「順風満帆なり。あなたの進む道には小石ひつもない。おめでとうございます。ただし、この部屋から退出後の責任は負いかねます」。ということはなく「このまま様子を見ましょう」で終わる。

ようやく、アサガオとニガウリのネットをかあちゃんと整理。ひと夏、ありがとうございました。歳月はあっという間に過ぎていく。時間の長さは宇宙、地球誕生から寸分の違いも続いているのだよ~。ああ、こわい、恐い。
 
mizue
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