怠惰な散歩  2018年

   6月29日(金)

朝からギンギンと強い日ざしが降りそそぐ。どうして夏は暑いのか。きっと冬という対語があるからだろうと考える。こういう日の避暑地は公共施設に限る。そういうことで土浦図書館へ。平日ということもあり閑散としている。書架の本も職員もパソコンに向かっている人も読書をしている人も館内全体が居眠りしているような静かさ。半醒半睡(はんせいはんすい)。夏の見果てぬ夢でも見ているのか。

わが家の40数本あるヒマワリは強い南風にあおられ帯状になって左右に揺れる。音楽は新垣勉の「さとうきび畑」が流れる。今から50年前、さとうきび畑もこんなふうに波うっていた。沖縄の夏は暑く陽射しが強い。浜辺で地元の若い人たちと泡盛をしこたま飲んだ。腰が抜けて立てずさとうきび畑をはいつくばって宿舎に帰った。、19歳の夏だった。「ザワワ~ザワワ~ザワワ~ 緑の風がうねる~」

本日は、かあちゃんといろんな店に買い物。いろんなものを買うが安いの狙っているから時間もかかる。クルマで移動するのだからどれぐらい安い買い物をしたのか不明なり。これがつつましい生活というのか―。
   6月28日(木)

今日は木曜日。黙して草取りをやる。この黙するということはどういうことか。誰とも口をきかず言葉を交わさない。かあちゃんとも会話がない。別に夫婦喧嘩をして剣呑の状態でもない。ただ、喋る用事もなければどうしても声をかけなければならないこともないの。大きな理由はないがそうやって草取りをしていると精神的に落ちつく。不思議なものだ。

草取りを終えていばぶん事務所の吉瀬へ。つくば文化郷オーナーと久しぶりに会う。体も順調に回復しているという。それはいいことだ。何をやるにも体力と気力。はやく全快となり活躍することを期待。展覧会の話を少しする。留学生による絵画展。うまくいくだろうか―。

夜、弱いジャイアンツを応援。広島カープが強すぎるのかジャイアンツは3連敗。こまったものだ。ここでも黙することになる。
 
   6月27日(水)

年をとるということは「不可避的規約」であるそうだ。なるほど、ウンウン頷く。さしずめ「不可避的規約」の遂行には生きていなければならない。そんなことを考えモップかけに励む。さらに、ころころ花壇のこと茨城民俗学会総会や整復師会の仕事のこと。

朝のうちは曇り風もさわやかで過ごしやすかったが、本日いちばんの暑い時間に外に出て草取り。空を見あげればソラ見たかというように太陽がギラギラ輝いている。梅雨明け宣言は出ていないがまぎれもない夏日だ。

新しく処方してもらった薬を服用しているせいかお腹の具合は良好。このまま完治してくれることを願う。そういえばわが家の金魚ちゃんは病気知らず。これは飼い主の心温まる愛情のせいと思っていたがそうでもないらしい。とにかく、暴飲暴食など一切行わないというという摂生に徹している。おいらも見なわなければとは思いません。そんなつまらない人生は考えられないからです。ヒトはハメを外す宿命を背負っているのです。
 
   6月25日(月)

朝を散歩。久しぶりに昔住んでいた蓮河原町に向けタラタラ歩く。体がガチガチに固くなり自分の体ではないようだ。足がスムーズに進まない。膝がガクガクとまるで操り人形のピノキオのような動き。思いだしたように両手を振ったり屈伸。そして蓮畑の見ながら歩きパチリパチリ。「どれか一本に絞り集中しろ。真面目さに欠ける」。小松3丁目の高台に住む金魚ちゃんの声だ。千里眼だ。何もかもお見通し。コワイ、コワイ。

フェルメールの画集を見る。有名な「牛乳を注ぐ女」。その解説に「生産性的生活」「瞑想的生活」という言葉が出てきた。そういう表現もあるのか―。さしずめおいらは「生産性的生活」。

午後、かかりつけ医院へ。大腸の調子が悪いのでその検査。5年前に潰瘍性大腸炎に罹って治療した。完治したと思っていたが再発したらしい。国の難病指定のお墨までついている。下痢がひどくトイレ回数が多いのが特徴。5年前はインド旅行中だった。インドのトイレ事情は最悪。あの時は辛かった。
 
   6月24日(日)

使い慣れた老眼鏡を紛失した。そこで、大枚をはたいてかあちゃんの知り合いの眼鏡店で作ってもらったメガネをかける。ところが度が合わず強すぎる。これはこまったものだとダイソーで100円で買った老眼鏡をかけてみる。すっきりよく見える。安物のニンゲンにはそれでいいのだとメガネが笑っている。

庭の草むしりに精を出す。疲れると長田弘詩集に目を通す。ピカリと光る言葉に出会うたびに深いため息。ため息は過去に向かっているのか未来に向かっているのかと考え、また深いため息。

土浦図書館に行く。日曜日のせいかいつもより来館者が多い。こんな晴れた日に図書館という密室にこもっていないで外へ出たらと思う。「書を捨て街に出よう」そんなタイトルの寺山修司の著書があった。昔読んだが今は何も憶えていない。考えてみれば昨日という時間は消滅しているのだから数十年前のことなど白骨化した死体のようなもの。みんなみんな忘れ、忘れたとことも忘れてしまうのが老いを知ることだろう。サラバだ。
 
   6月23日(土)

メガネがないと新聞も読めない。大見出しと小見出しぐらいはメガネなしでも判読できるが本文になると活字とお目めのお見合いはぐっと狭まる。少しの時間ならなら読めるが長時間は無理。みんな紙屑にしたくなる。紙屑は泣く。6月の雨音に悲しみが募る。

いろいろと書くことに挑戦したが、なんとなく詩を書くと精神がすっきりしてすっぽりおさまる。言葉は生きている。死んだ言葉が蔓延するネット社会。これは虚しく悲しい。言葉を噛んで咀嚼しろ。咀嚼できないまでも果敢に挑戦せよ!!。

金魚ちゃんはそんなおいらを何も語らず見ている。ただ、見ているだけだ。これが恐いのだ。言葉なくても地上には明日を生きようと踏んばっている草花や小動物の世界の逞しさにたまげる。これは草取りをしながら学んだこと。お休みだ!!。
 
   6月22日(金)

なぜおいらはブログを書くのだろうと考える。書かなくてもころころ花壇のヒマワリは五つの大輪を咲かせた。書かなくても筑波石の餌台にはスズメがやってきてコメヌカをついばんでいる。空は晴れてブルー。心地よい風は書かなくても吹いてくる。考えてもわからないので今日も認める。

昼過ぎ、石岡の特老施設ケアハウスゼーレへ。今日は入居者とジョン君のご対面。犬と触れ合うことで閉じこもりがちな心の窓を開いてもらおうというイベント。

訓練された真っ黒なジョン君はお年寄り一人ひとりの膝を上に顔をのせご挨拶。おとなしくフレンドシップ。入居者は満面の笑顔でジョン君をなでたりさすったり。こうして時間は過ぎて行く。こんなことを書いてブログは終わる。少しはぼーっの時間も癒される。皆さまお疲れさまでした。
 
   6月21日(木)

東京へ行く。アートコンプレックスセンターで今日からオープンする「Art&DesignFeir2018」を見るためだ。この会場に神林留学生たちの作品が展示されている。この絵画を吉瀬のながや門ギャラリーで開催できないかと考えたのだ。会場には理事長も姿を見せる。5月の採用式で下話をしておいたのでスムーズゆく。センター長は担当者と打ち合わせしてくれということ。さて、うまくいくか。

つくば文化郷のオーナーも行く予定だったが体調に自信がないということでひとりでトコトコと電車に乗り東京の街並みをポカンと口をあけ窓越しに見る。こんなにビルが立て込んだ都会で大阪のような地震が起きたらどうなるだろう。パニック状態の人たちが目に浮かぶ。おいらも遭遇したとしたらぼーっと見ているだけなおだろうか。

東京は疲れる。いつも長閑な田園風景に囲まれ生活しているとやはり東京は疲れる。展覧会で見た絵やデザインを思い出そうとする何ひとつ浮かんでこない。みんな、20代の若者たちの作品群。当然のようにチンプンカンプン。ただ、印象に残った絵もあった。明日はワンちゃんとご対面。お休みなさい。
 
   6月20日(水)

大ホールからベートーベンの「歓喜の歌」の合唱が聴こえてくる。おいらは小ホールステージのモップかけをする。1週間ぶりのシルバーの仕事。ぎっくり腰が治るまで1週間を要した。その間、二日出勤日だったが仲間に頼んで休みを取った。金も欲しいが「御身が大切」。

朝から雨。大ホール玄関前には高校生が傘をさして続々やってくる。お揃いの制服に背中にお揃いのバッグ。なにもかにもがお揃いだがピーチくぱーちくの声と顔はそれぞれ違う。頭の中はどうなのかわからない。

仕事帰り図書館に。本を前に完全熟睡している人がいる。とても気持ちよさそうな寝顔。ひとは寝ている時の顔を自分で見ることはできない。不幸な顔をしている幸福な顔をしているのか―。きっとわからないからみんな生きているのだろう。
 
   6月19日(火)

ころころ花壇のヒマワリ咲く。スェーデン×韓国戦をテレビでみる。スェーデン選手のユニフォームは黄色。テレビ画面に黄色がめまぐるしく動く。筑波石の餌台にはスズメが10数羽やってくる。ピーチくぱーちくとさえずりが久しぶりの青空に吸い込まれる。長閑だ。

情報氾濫時代に取り残されたように毎日を過ごす。新聞は読むがテレビはスポーツ中継以外ほとんど見ない。FMラジオはよく聴く。あとは図書館で借りてきた本を読むことぐらい。とにかく情報過多だ。日本の裏側にある国の出来事をなぜ事細かに知る必要があるのだろうと思うが気になる時もある。

養老孟司が東大教授時代に感動したのは、解剖を終えた献体に一輪の花をたむけた学生がいたという。「若い奴も捨てたもんじゃない」こういう話はいい。金魚ちゃんもかあちゃんも元気。それでよし。
 
   6月17日(日)

ぎっくり腰もよくなった。気分が晴れてくる。山王姫からお見舞いの電話をちょうだいする。「お年なんですからねー」。山王姫はおいらのお姉ちゃん。励まされなんとなく照れくさい。

久しぶりに草取りをやる。土のにおいと色や草のにおいと色に浸り心落ち着く。自然はいい。そこで突飛しないものを思いつく。おいらの詩集を一冊作ろう。1980年代に書いた詩がひょっこり出てきたのだ。引っ越しの連続でよく残っていたものだ。さらにあちらこちらに書きなぐった詩らしきものも顔を出した。読み返す。そうだ、詩人になったつもりでおいらの詩集を作ろう。ウソ、インチキ、オゴリと笑われてもいいと真剣に考える。知人数人に配ればいい。

「バーカ、また生き恥をさらけるのか―。能力もないくせに恥ずかしくないのか。そういっても厚顔無恥でここまで生きてきたのだから止めてもダメだろうが、せいぜい頑張んなさい」「ハイ、わかりました」金魚ちゃんの忠告を素直に聞く。
 
   6月16日(土)

■「取り引きの国」と「駆け引きの国」の大親分の大相撲があった。勝敗は「駆け引きの国」に行司の軍配が上がる。なんといっても民族史の長さが違う。天と地の差があり戦術に伝統と知恵に長けている。

■高良留美子詩集「その声はいまも」に 「―わたしに意志はない―」東日本大地震について。この「わたしに意志はない」で詩人の言葉のすごさを知る。天地雷鳴には意志はないのだ。

■人生の棚卸を考える。まだ準備も青写真も描けない。そしたらゴッホの麦畑の絵が脳みそに浮かぶ。「生と死」おおいに興味深々。ところが眠い。サラバだ。■ガラパス=最終的に淘汰される。
 
   6月15日(金)

はぐれスズメに柿ピーをあげると、先に食べるのはピーナツ。それがなくなるとようやく柿の種をついばむ。どうしてそうなるのかを考える。考えるということはヒマなのだ。ヒマの種という豆菓子は売っていない。きっとビジネスとして成り立たないからだろう。思考の出発があまりにもくだらぬため次へのステップに進まない。ぼーっおじんの思考はそこでストップ、おいらの限界です。

本日は静かに、静かに過ごす。寒い一日だったせいか筋肉がかたまり鈍くなる。思わず、これはおいらのからだかと思いたくなるほど動きがスロー。人生スロースローが精神的によいというがスローすぎる。

結論として、どうでもいいことばかり。それでも地球はまわり金魚ちゃんは生きている。素晴らしいことだ。「死と再生、そして常世・他界」折口信夫を読む。沖縄の話に興味ひかれる。
 
   6月14日(木)

想定したよりぎっくり腰の回復が遅い。停滞しているのだ。カメのようなカタツムリようなスピードでもいいから良くなったことが実感できればと願うが神はおいらを見捨てたのか―。「バーカ、信仰心など耳カスほどもないくせに無理、無理。あたりまえだよ」金魚ちゃんの声が玄関あたりから聞こえてくる、ああ無情―。

整復院で治療を受けながら「ぎっくり腰」に関する講義を受ける。どうも素人判断の行動が邪魔をしているようだ。歩くこと、椅子に座ることなどを聞きながらがっくり。とにかく横臥して腰に負担をかけないこと。要するに死んだふりしていろということだ。でも、おいらは生きているのだ。

トイレに行くにも満足な歩行ができない。もちろん草取りもできない。ああ、人生絶望。それでも酒とメシとブログも書ける。しばらくはそれでよしとするしかない。サラバだ。
 
   6月13日(水)

とてもなついたスズメが一羽いる。朝、ぼーっ宅の平和の窓を開けると平和のハトならぬ平和のスズメちゃんがどこからともなく飛んでくる。おいらが部屋からぼーっと庭を眺めていると1,2メートルまで近づいてきてエサをねだっている。ところがいつも一羽。ほかのスズメちゃんは必ずペアでやってくる。これは、巡り合わせとゴールを得意とする姫丸子に相談しなければならないのかもしれない。

ぎっくり腰の状態は少しよくなった。少しづつよくなっているという実感はない。おいらは年寄りだ。回復までそれなりの猶予が必要となる、というよりそれが普通のことだ。リセットする。当面は11日以前までに再起動するのが仕事だ。

「イサムノグチ」の随筆を読む。発想の新鮮さ、自然を愛でる制作意図。うんうんと頷きながらページをめくる。底流にある創作哲学が日本で過ごした少年期だったらしい、としか書けない。芸術をどう理解するかは個人個人の勝手、勝手なのです。

夕方、姫丸子参上。今回もたくさんの食べ物を頂く。ありがとうございます。体のあちらこちらが悲鳴をあげているという。お互いさまだ。
 
   6月12日(火)

二ランジョンからメールが届く。近く本を出版する。表紙カバーに南岳先生の書を使用した。本は持っていきます。なんじゃい、また日本に来るのか―。かあちゃんにそのことを話すと「もう、来なくていい!」。一刀両断。切れ味がすごい。

朝、草取りをして立ち上がろうとしたら「ガクリ」。ぎっくり腰だ。ソロリソロリと動くがだんだん痛さが増していく。接骨院へ。「しばらく静かにしていることです」と、整復師会の広報部員でもある顔なじみの先生。

明日はシルバー日。長引かせたらいかんと交代お願いの電話をするが二人は用事があって駄目。どうしようかと迷っているうちに最後の頼みの綱としてK氏に電話。了解してもらう。ああ、明日からしばらく静かにして過ごそう。
 
   6月11日(月)

雨の仕事は空から水玉を地上に落とすこと。今日の雨はとことん働いた。もう働かなくてもいいよと空を見あげ休息を求めるが、くそ真面目な雨はサービス残業を快く引き受けノーギャラで朝から夜まで働きづめで降っている。勝手にしろ!!。

さて、今日をふり返ろう。ふり返ってみたところで戻らないことは承知しているが戻りたくなることもある。金魚ちゃんいわく、「そういういわくつきの能弁は聞きたくないよ。しっかり生きろ!」。ありがたく拝聴する。

「死は、死ではなく、生の為の静止期間であった」と、折口信夫は著わしている。静止期間ということは再び動き出すことが死んでからも生じるのか。「死と再生、そして常世・他界」の本を読みながら考えるが、みごとなぐらいひもときはできない。金魚ちゃんいわく、「ごりっぱなことですが、もうお寝んねしたら―」ということで、みなさまお休みなさい。追伸、ヒマワリがかあちゃんの身長よりぐうーんと高くなる。
 
   6月10日(日)

朝起きたら思わず「寒い!」。年寄り殺すには刃物はいらぬ、毎日の寒暖差が大きければこと足りるとでもいうのか。バーカめ。そうはいかぬ。瑞惠先生の展覧会のお手伝いで野田に車を走らす。

金城院の守僕庵は檀家の人々の集会場になっている。しかし、今は展示する絵の整理の場となっている。大中小の油絵と水彩画が50点ほど。額装したり案内の小冊子の整理をああでもないこうでもないと言いながら昼過ぎから夕方6時までかかりとりあえず終了。

画歴40数年。よくぞ今日まで絵を描き続けてきたエネルギーに感服。まだ、気力、体力が残っているうちにということだそうだ。東京銀座では2回目となり開催まで2、3点の制作をと張り切っている。仏画を独自の手法と色で表現することをつかんだ瑞惠カラーの絵を前に、継続は力なりを実感させられる。
 
   6月9日(土)

土鳩が巣作りをしている藤棚の下で草取り。そこで考えるのだ。土鳩は新しい生命誕生を期して巣作りに余念がない。おいらは俯いて土とにらめっこしながら草を取る。まるで自分の行く末を見ているようだ。

通りがかりの犬を連れ散歩している人が「暑い中ご苦労さん。でもそこは涼しそうですね」「涼しいところを狙って草取りをしているんです」「ああ、そうですか。あはは」。灼熱が降り注ぎ外での作業は辛い一日だった。

仕事帰り、ながみねへ。今年初めてプールで泳ぐ。土曜日で混んでいると思ったが意外と空いている。ジジババが必至な形相をして歩いている。ああ、この人は長生きしたいのだな。それもいいでしょう。おいらはのんびりとしたもの。それでいいのだ。なるようにしかならないのだから―。
 
   6月7日(金)

健康、それなりに今日を生きるだけのパワーを継続中です。貧乏、それなりに耐えられる貧しさを継続中です。ころころ花壇、暑さにもめげず名も知らぬ花々が咲き美しさを継続中です。

アサガオはすくすく伸びてきた。細いネットに複雑に芯をからませどんどん上に伸びていく。どこまで伸びたいのだろう。そして何を考えているのだろう。ぼーっと見つめていれば答えてくれるかもしれない。とろが十数分待ってもアサガオは黙したまま。だんだんぼーっとしているのが疲れる。バーカみたいとタバコに火を点け空を見る。青空は「ソラ―見たか!」

いばぶん事務所に行く。オーナーの顔を久しぶりに拝見。元気そうだ。元気であってほしい。元気であるべきだ。本日はこれでお終い。みなさまお休みなさい。
 
   6月6日(水)

関東地方が梅雨入りしたというニュース。日本には春夏秋冬の四季に加えさらにもう一つあると外国のカメラマンが言っていた。シトシト雨にけむる風景はまさにもう一つの季語になるほど魅力的という。そうか、カラカラ乾いた空気の中で一年中過ごしている国もあるというこか―。

昼過ぎ、「フレー、フレー、ミトモ!!」かあちゃんのエールの送られ、整復師会ニュースの編集会議で水戸市へ。途中、石岡に立ち寄り山王姫宅へ。スケッチ展会場で撮った写真のSBメモリーを渡す。

編集会議はつつがなく終わる。瑞惠先生から日曜は何時ごろ来れるかというメール。まさか、朝5時でも大丈夫ですとはいえないので午後1時過ぎと返信。想像するには彼女も早起きで早朝でもかまわないと言いたかったのだろう。みんなで大年寄りになれば、なぁんにーも怖いことなかんないよ―。
 
   6月5日(火)

ころころ花壇にヒマワリが咲いてコスモスが咲いてアサガオが咲いてマリーゴールドが咲いて名も知らぬ花々が咲きだしたら「なんじゃいこれは!」となるのでは―。きっと、一斉に満開を迎えたらバンザイとなってクラクラ眩暈を起こし眠るようにチーンとお迎えが来るかもしれない。それもいいだろう。

ところがヨレヨレおじんは元気だ。いばぶん事務所に行き雑多の仕事をこなし、図書館で本を借りアサガオのネット作りをこなす。もちろん、日課の雑草取りは休むことしらない。時どき名もわからぬ変な虫がニョキニョキと現れる。ああ、イノチはここにもあると感激。

感動することはどこにでもある。あとは本人の感受性。ぼーっとしているオジンにもそういうことがあるのだから素直に受け入れる。今日は久しぶりに真剣に本を読む。もっとも明日になればすっかり忘れているだろうが、それでもヨシとしよう。
 
   6月4日(月)

月曜日で図書館などの公共施設はお休み。公共施設で働いているおいらも休み。ながみね温泉も休み。なんとなく寂しい休日。
昔、米国では月曜日に製造したクルマは買わないほうがいい。なぜなら、工場の労働者は二日酔いで出勤してくるのが多い。そんなことは、もう無いだろうが―。何となく暗い月曜日。

「読書の森」をUPpしていたがやめよう。なぜなら、今はそんなに本を読んでいない。草取りの方が忙しく楽しい。本を読む力も衰えた。忘備録としてブログに書いておこう。それでも、ここ一週間で少しは本を読む。▽「死ぬ力」鷲田小彌太(講談社現代新書」、○「脳死・クローン遺伝子治療」加藤尚武(PHP新書)、「極楽谷に死す」西木正明(講談社)「ATOKATA」篠山紀信(日経BPマーケティング)。○印は買った本。無印は図書館。

「脳死・クローン遺伝子治療」著者は奥井登美子さんの弟。鳥取環境大学の学長を引き受ける条件として「託児所」の設置。部屋は整い見学者も多かったが利用者は任期中ゼロだったという。小さな親切は時々空振りするものだ。
 
   6月3日(日)

「ああ、かあちゃん何処へ行く!」クルマでスーパー生協の特売日を狙って買い物へ。駐車場待機のおいらはぼーっとかんちゃんの帰るのを待つ。しばらくしてカートを押しながら出入口から現れる。方向音痴ということを自分で認めているが番外編に近い。迷える子羊ならぬ迷えるババア。ああ、疲れる。

土浦市役所のお願いして「防犯パトロール」のノボリをもらいたい。広くなる一方のスーパーの駐車場で迷子にならないために黄色いハンカチならぬ愛の目印だとヘルプコールしようか―。「バーカ、勝手にしろ。土浦市に迷惑をかけないためにもせめてシワシワのお手てつないで買い物をしろ!」。

そういうことで本日も店じまい。ころころ花壇のヒマワリは何も語らずどんどん背伸びしている。コスモスも花を咲かせた。さてさて、思惑通りに花盛りの庭になるか―。これからが楽しみだ。
 
  6月2日(土)

風鈴がちりんチリんと心地よい音色を聴かせてくれる。でも怠け者だから風が吹かないと音をださない。どこにも怠けものはいるようで風がなければただぼーっとしている。風鈴師は風まで作ってくれない。

そういえば、こんなことがあった。知人がりっぱなバーベキュー施設を持っていた。丸太小屋造りで設備も整っていた。「いつでも使っていいよ」というありがたいお言葉。「それなら常陸牛もたっぷり用意してくさい」「それとこれとは違う」バーカなことを注文して笑われたものだった。

二ランジョンからメールが届く。建築中だった新宅が完成したらしい。お祝いのパーティーでも開いたのかたくさんの写真が添付されている。顔見知りもチラチラ写っている。みんな、どこかでしっかり生きているものだ。おいらも日本の片隅で生きている。ともあれ生きていることは素晴らしいことだ。
 
  6月1日(金)

青い空を見上げ深いため息。これが6月の青空と熱量か―。これから暑さはどんどん厳しくなる。この夏は乗り切れるのかと、また深いため息。そしてぼーっとする。何もする気になれない。闘志がわかないのだ。ところが坂下に住む猫はわが家まで遠征してきて闘志満々。エサ場にやってくるスズメを狙っている。目はランランと輝き一瞬の隙をついて仕留めようという作戦。それがうまくいかないのだ。

エサ場に置いたパンくずを狙っているのは猫とスズメとカラス。カラスの飛来が一番迫力ある。バタバタと羽音をたてまるで黒いヘリコプターが着陸するようだ。あの勢いなら猫をくわえて飛べるのでは―。そうなれば猫もあの世行きでチーンとカネがなる。スズメも安心してエサをついばむことができる。猫もそれを知ってかカラスがいる時は姿を見せない。

そうやって、わが家にやってくる小動物たちはあらゆるものと闘いながらこの夏を乗り切るのだろう。見習わなければ。さて、金魚ちゃんはいかがなものかと覗くと飼い主に似てぼーっと泳いでいる。それでいいのだ!!。アキタのカンちゃんから、スリランカ紀行はそれでよしというメール届く。ありがとうございます。
 

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