怠惰な散歩  2018年

 

■1980
■2014
■2017
 1月31日(水)

1月最後の大仕事は捨て猫の家づくり。市民会館裏手にまっ白な子猫が捨てられていたのは2ヶ月ほど前。猫の世界でも美人に位置するだろうとシルバー全員が認めるほどかわいい子猫。まっ白で耳がピンとたちクルクル眼は美猫コンテストで好成績をおさめるはずだと全員が頷く。シロちゃんと出会ったのは冬の真っだ中。おいらは、寒かろうとダンボールで簡易な家をつくってやった。以来、風雪に耐えてきたがさすがに傷みがひどい。そこで家無き子猫ちゃんの新しい家づくりとなる。

まずは、スーパータイヨーに行き適当なダンボールを物色。なるべく厚手のものを探す。さらにカラの発砲スチールにも手を出す。手頃と思われるのを2個せしめ何も買わずスタスタと市民会館に戻る。旧宅を壊して4つ折りぺしゃんこしてゴミ捨て場へ。新宅のダンボールの四隅をガムテープでがんじがらめに固め家らしき形にする。このダンボールにビニールのごみ袋(注:これは使いきれないぐらいにある)を被せ雨にうたれても大丈夫なようにして回りをグルグルガムテープで巻いて補強。これで完成。

ところが、家を造り餌を与え2ヶ月も面倒みたというのに子猫はなつかない。美しかった白い毛並みも汚れグレーになっている。「シロちゃん」と呼んでいたが「グレちゃん」と変更しなければと、猫大好きのシルバーおばさんがため息をついている。慣れたら家で飼ってやろうとせっせとエサを与えているのを見ているだけにこちらも気の毒になる。せめても、新しい住まいをと頼まれ、大仕事を成し遂げ1月も今日で終わりです。サヨウナラ。


■2018
■2019 
   1月30日(火)

アキカンこと秋田奐さんからメールが届く。おいらのブログを毎日見ているという。そこで金一封なしの「感謝状」を贈る。メールの感謝状は実に味気ないものだ。「感謝状」をコピーすれば「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」のオンパレード。いつ果てることもなく「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」「感謝状」で画面いっぱいになってしまう。こういうのを、「暇つぶし感謝状」とでもいうのだろうか。

わが家にやってくるヒヨドリは独身か。いつも一匹でころころ花壇のエサ場にやってきてあたりを伺う。まるで恋人を探しているようでもあり待ち焦がれているようでもある。スズメやモズは必ずツガイでやってくるというのにだ。ヒヨドリだけは孤高のきわみに起ち思索しているようでもある。なぜ、われはヒヨドリとして地上に生を授かったのか―、エサをついばんでは考える。そして視線を地球の裏側まで送る。

そこで聞いた。探し物は何ですか?、伴侶が欲しいのですか?、空を飛べるということはどういうことですか?。「バーカ、ただでコメヌカをもらいおいらを誘っているだけではないか。ホームセンターに行けばおいしい小鳥の餌を売っているぞ―。情けない」「よーく存じてます」。そういうことで珍問答は終わるのです。
 
   1月29日(月)

高峰秀子のエッセイ集「ダンナの骨壺」を読んでいたらタバコの話題が載っている。「女の一生もの」の映画撮影でタバコを吸うシーンがあり猛特訓。それまで一度もタバコを吸ったことはなかった。仕事、仕事と開き直りタバコを吸ったという。22歳の乙女時代だった。爾来、一日50~60本を吸う愛煙家になったという。

― 商売の演技のほうは40余年かかってもホンモノにはなれないけれども、どうやら私とタバコのつきあいばかりは、どうやらホンモノになった、と、煙草くさい溜息を吐いている― 」。日本たばこ産業が泣いて喜ぶようなことを書いている。

そこでタバコを一服。実においしい。人生の幕切れは迫っているのだ。おいらの嗜好を簡単に放棄するわけにはいかない。ここまで書いて、また一服。目の前に無限大の夢が入道雲のようにムクムクとわきあがる。最高です。バンザイです。
 

   1月28日(日)

柿の種をつまみに大相撲を見ながら酒を飲む。ハラハラドキドキの横綱稀勢の里は休場。優勝力士はすでに決まっている。安心、安心印のお墨付きのスポーツ鑑賞といかがなものか。遠い国からやってきたというジョージアを地球儀で探す。やはり遠い。

写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま―ほんのときたま―1枚の写真が、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますができる。(ユージン・スミス).―今の時代こそ私たち、そしてこの社会がユージンの生き方から学ぶことが多い。情報が飛びかっているが分断は続いているインターネット時代に、大切なことが語られている。(アイリン・スミス)

今日はこれ以上の蛇足がやめよう。「そうだ、そうだ」と金魚ちゃんも申しております
 
   1月27日(土)

さて何を書こうかと悩む。背中を掻くには孫の手があれば掻けるがブログとなれば文字を連ねなければならない。キーボードをポカポカパタパタ打てば文字は現れてくれる。知らない漢字までぽっかりと顔を出して衰えた知能の手助けをしてくれる。それだけではなく誰にでも判読できるキリリとしまった文字がならべられていく。問題は連ねる文字の内容だ。何か意味のあることを認めなければ読み手にとって苦痛以外にない。

そこでおいらは考えるのです。世の中に媚びることもしたくないし悲痛な声で訴えたいような問題意識はさらさら持ち合わせていない。俗にいうノンポリ精神がおいらの脳みその中を堂々と行進している。それなら何も恥さらしのように毎日書き続けることもないだろうとも思う。それが正解かもしれない。

しかし、書くのだ。では何を書こうとしているのか?。キュートなハートに手をあて目を閉じ耳をすましても反応はない。音のない世界は存在しないという。どんな防音装置の環境下にあっても自分の心臓の音は聞こえるという。いわゆる心音だ。その親愛なる心音に何を書けばいいのか尋ねる。69年間休みなしに働いている心音さまは規則正しく今も動いている。エライものだ。きっと、金魚ちゃんにも心音なるもがあり今も働き続けているのだろう。そんなこんなことをキーボードで叩いているうちに今日のブログのお終いがやってきた。不思議なことだ。不思議よバンザイです。
 
   1月26日(金)

水戸の整復師会館へ。スリランカ旅行で1週間留守にするため我がままを許してもらい繰り上げ編集会議。シルバーの仕事は週2日。その合い間にさまざまなことに取り組めると思っていたがいろんなことで重なる。そのたびにあちら様こちら様に連絡して調整することになる。これも人生街道に咲く花と思えばいい。

昼、庭のエサ台に天ぷらそばの食い残しを置く。小鳥たち見向きもせず。かあちゃんが頑張って作ってくれたおいしい天ぷらそばの残り物を無視するとは不届き者。そういえば、健康のため30分も歩いてタバコを買いに来したというお客さんに、「それならタバコをやめたらどうですか!!」と、進言をしたコンビニ店員の話を思い出す。

金魚ちゃん曰く「そんなにおいしい天ぷらそばなら残さないで全部食えー。それこそ愛情が足りないのでは―?」。おいら、神妙に納得し頷く。「そうです、愛とは無限大であり、足もとにあるのですね!!」。バイバイ、お休みなさい。
 
   1月25日(木)

寒い一日だった。寒波襲来というのだろう。その寒さのせいで体は硬直して思うように動いてくれない。腰の具合も不調で「用心、用心」とシグナルが送られてくる。シルバー3人組はソロリソロリと仕事をする。リーダーが「凍えるような寒さだから外の仕事はやめよう」、元気に「ハイ」の返事。声は元気だが体は悲鳴をあげている。

ユージンスミス写真集を見る。これまでいろんなところで何度も見ている。そのたびに新鮮な感動を覚える。1枚の写真をプリントするのに一日かけたという逸話も残されている。それほど凝ってプリントしていたらビジネスとしては成り立たない。それを承知でプリントしていたのだろうかー。

金魚ちゃんの寒さ対策としてヒーターを入れているが効果はあるのかないのか分からない。それでも寒いと訴えているのか動きが緩慢だ。やはり寒波襲来が堪えるらしい。ストーブの沸騰したやかんのお湯を注いでやりたいがやめる。「優しさ?虐待」が目に見えている。しかし、庭のえさ場にやってくる小鳥たちは防寒具がなくても平気でエサを啄んでいる。エライものだ。
 
   1月24日(水)

どういうわけかスリランカの旅を楽しむことになった。その説明会が東京銀座のルノワールで行われた。銀座線銀座出口3から徒歩4分とあるが分からない。交番に尋ねると地図を見ながら教えてくれるが二つ目の信号左折というのを一つ目で曲がる。久しぶりの東京銀座で有頂天になっている。土浦で田んぼと畑と大きな空を毎日見ているせいか圧倒されるようなビルディング群と人なみにクラクラしながらルノワールを見つける。

ツアーに参加するのは東京組5人と大阪組6人の計11人。見わたすとインド旅行で何度か顔を合わせた人たちもいる。みんな生活に余裕のある顔をしている。きっとリッチな生活を送っているのだろう。

スリランカの2月は30度を越す暖かさだという。服装は夏スタイルでというが真冬の日本。なかなか想像しにくい。ともかく飛行機で9時間という距離。機内でメシが食え眠ることもトイレもアクビも自由だがタバコは吸えない。どうやら、ツアー参加者は全員がタバコと縁切りしたようだ。禁煙という言葉に反応はない。当然という顔をしている。おいらは絶望の世界に入る。我慢ということも人生には大切なようだ。85歳の参加者が最高齢という。驚き驚きだ。
 
   1月23日(火)

予定されていたホームでのお茶会は降雪により中止。動けば回るというが今日は動けばケガする。こういう日は動かないほうがいい。動いても最小限度に抑えるべきだ。玄関前と坂道の雪かき。近隣のオジン、オバンがスコップを手になでるように除雪。こういう時でないと近所の人との会話ないのが残念。

「土浦幻聴」の写真を撮りに行く。どうして撮るのかと問われれば「楽しいから―」。大上段に構えることもない。瞬間をただコピーするだけの行為。大それた企みもなければ気負いもない。ただ、部屋にこもってぼーっとしているのが飽きたからカメラをぶら下げてぶらりぶらりしているだけだ。

土浦市図書館に行く。駐車券を紛失。なんだかんだと20分ぐらいを要してゲートが開く。夕方には銀世界の景色も一変。いつもの姿を見せのんびりと春を待っているようだ。みんな、それなりの等身大の生活に還っていく。それでいいのだ。
 
   1月22日(月)

シンシンシンと雪は降る。昼ごろから本降りになり夕方には歓喜するようにシンシンと舞う。粉雪でサラサラとして乙女のような肌。山す形の山村育ちから学んだこの雪はシンシンと積もることを仕事としている。どぐらい雪を降らせれば気がすむのかといえばシンシンに飽きたときだ。

コロコロ花壇にも雪はシンシンと舞う。気まぐれに吹いてくる風にしどろもどろの舞いをする。雪舞いとでもいうのか―。白い雪は地上の汚れをシンシンと隠し白綿のような世界を見せる。シンシンと寒さが増してゆく。心までシンシンと冷たくなりそう。それならと酒で清め温くなければと雪見酒となる。ひとくち喉をしめらせ外に目線をやれば雪はシンシンと降っている。雪化粧というより白い妖怪のような凄みを見せてくる。

シンシンと雪は降りつづけわが家から借景がどんどん山水画の様相を見せる。樹木はシンシンと降る雪を受け入れている。このまま降り続いたら全域真っ白。人は蒼白の朝を迎えることになるだろう。山水画を眺めながら金魚ちゃんの紅い落款をどこにしようかと考える。天からのしばしの贈り物に感謝をしてお休みとする。明朝はどんな墨汁の色合いを見せてくれるか楽しみだ。
 
 

1月21日(日)

美浦村に住む居代さん宅へ畑の肥料をもらいに行く。彼女は豆耕運機で畑を耕しせっせと野菜作りに精を出していたが加齢には勝てず体力の限界を感じてつい最近やめた。そこで残っている肥料をくれるという。車から美浦村の空を見るとやたらに広く感じる。 

水槽のお手入れをやる。よく考えてみれば金魚ちゃんは受け身の人生ながら泰然と生きている。これを見なわなければと金魚ちゃんの顔をしみじみ見る。いつもと変わらない面構えだ。それでも確固たる自信に満ちているようだ。じーっと見つめていたらプイと視線をはずす。どうも老いたる顔を見たくないという態度。

いばぶん事務所に行く。ばったり顔見知りの女性2人と会う。土浦に西友があった時代。写真ゼミがあり1年ばかり教えていた時の受講生。「先生、先生」と話してくる。照れくさいがそう呼ばれていた時もあった。ながや門ギャラリーの宣伝を盛んにする。つくば文化郷のオーナーと新年のあいさつ。イベントの打ち合わせを少しする。天気予報は大雪だそうだ。多くの人には迷惑千万だろうが久しぶりに白い世界を見れると思うとうれしくなる。

 
   1月20日(土)

文化人類学者コリン・ターブルは、「老人はただ存在するだけで社会に貢献しているのです」、「特別な技能も訓練も必要ない。これまで重ねてきた歳月、それだけで十分なのです」と言われても腹が空けば当然のようにメシを食いたくなる。その腹を満たす食糧を手にいれるにはお金が必要となる。そのお金を得るためには働くという対価が要求される。そこが問題なのだ。そこで今日はシルバーの仕事に励む。現実にはただ存在するだけとはいかないのだ。

「般若心経」の写経に挑戦。墨を磨って筆をもち「観自在菩薩」と5回ほど書いて終わる。「私たちの生命には、24時間リズムの生体時計の他にも、多種多様の時計が仕組まれている。3日坊主時計、7日の時計、1カ月の時計、1年の時計などの数多くのリズムが、宇宙のリズムのコピーとして私たちに刻まれている」という。おいらには3日坊主より短い生体時計が宿っているようだ。どうも3分時計という得体の知れない化け物らしい。

そうでなかったら、写経練習帳が3冊もあるはずがない。いずれも真っ白。購入する時は写経をしっかりやってみようという気構えはあったはずだ。それなのにこのザマは体内時計に3分時計のリズムが刻まれているせいかも知れない。こうなるととうの昔に鬼籍に入った両親を恨みたくなる。今ごろ天国でくしゃみでもしているのではないか―。おわりです。
 
   1月19日(金)

ながみね温泉に行く。気分転換とひげそりシャンプーあか落とし。ながみねのプールは機械の故障で使用できない。プールの水は抜かれ空っぽ。いつもいる監視員は何かの仕事がないかとプールのまわりをウロウロしている。風呂の切符切りの姉ちゃんも時間をどうやってつぶそうかと欠伸を堪えている。休憩室の利用者もヘルストロンに座り新聞を読んでいる。よく見てると全員がぼーっとしている状態。そうだ、みんなでぼーっとしていればよからぬことはおきないのだ。

「太陽の鉛筆」東松照明写真集を見る。1970年代の宮古島や沖縄の風景と暮らしぶりが淡々と写されている。気負いのない写真だがこういうふうに撮るのはなかなか難しい。おいらもその頃、沖縄に行って写真を撮っていた。それこそ肩をいからせていたような気がする。

わが家のえさ場には小鳥がやってくる。スズメ、ヒヨドリ、モズ、山鳩と賑やかだ。カラスもやってくるがそれはおいしいエサを置いた時だけ。それこそ急襲するという感じ。おいしいエサといってもわが家から出る残り物はたいしたものがない。それでもどこで見ているのか素早い。カラスが飛んでくるとスズメなどは一斉に逃げる。それを窓越しにぼーっと見ている。そうやっているうちに一日を終える。今日から稀勢の里休場。これで安心してテレビが見れる。これはどういこことか。深く考えない。
 
   1月18日(木)

ポカポカ陽気に誘われ庭の草取りをやる。大地からは雑草が芽をだしはじめ春に向け大きく成長しようとしているが我が家の芝生には無用。そこで退治ということで根っこから引き抜く。こういうのを草取りとはいわず間引きというのか―。一瞬悩むが大地とはおさらばしてもらう。飽きると本を読む。このくり返しが午後2時ごろまで続く。

2時過ぎ、山王姫の登場。「セピア色の青い空」のカバーの色を相談。ともかく数種類の色紙にプリント。そして、懸命に看病している猫の話題。この話はつきない。聞く方も辛いものがある。それからカバープリントを持参して「しゅほう」に行く。和綴じと断裁の依頼をする。オーナーの個展の話題が出て5月頃に開催ということになる。

さらに物語は進む。なんでもプリンターが故障して修理を頼もうとしたら製造中止で応じられないという。最近の電化製品は「故障=買い替え」という図式になっている。昔のように町の電気屋さんに頼んで直してもらうとはいかなくなった。そこで、ケーズデンキに一緒に買いに行く。最新式のを購入。さて、セットアップを頼まれたがどうなることやら―。稀勢の里、また負ける。無念なり。
 
   1月17日(水)

記憶の断片を探ると昔のおいらは子どもだった。子どもだったおいらは年を重ね老人となった。そこで老人とはいったい何者だろうと考えてみる。辞書をひいてみると老人とは、年をとった人。年寄り。老人福祉法では、老人の定義はないが、具体的な施策対象は65歳以上を原則としている、とある。

老人福祉法などという法律をはじめて知る。具体的な施策対象は65歳以上とある。本日が施策対象日にあたりシルバー3人が市民会館の清掃の仕事に従事しているというわけだ。本日の催事は「交通安全を守る母の会」。具体的な施策対象となる65歳以上のババがどんどんやってくる。ジジもぽつぽつんと見受けられる。こうなると市民会館はジジババの花盛り。仲間入りしても不思議ではないとうなずき合いながらシルバー3人はそれを見ている。

帰り土浦図書館へ。そこでブログを認める。こういう日常の暮らしぶりをなんと表現するのだろう。ここで登場願うのが金魚ちゃん。図書館には金魚ちゃんはいない。ケイタイで呼び出すこともできない。そこで、想像にまかせて書くことこうなる。「ウルトラバーカ、早く帰って稀勢の里を応援しろ」。おいらは、写真集2冊を借りてすごすごと家路につくのです。
 
   1月16日(火)

昔、名寄岩という関取がいた。自分の子どもに羊羹を切ってあげようとして包丁で切る時、やおら物差しを羊羹にあて寸法を測り数人の子どもに平等に分け与えていた。ずーっと昔の話で忘れていたが、ふっと思い出いだした。記憶というものはどこに隠れているのだろう。

朝飯を食べてかかりつけ医院へ。前回の検査より数値は良いほうへ改善されているという。かかりつけ薬剤師から真面目に薬をのめば薬が減るという忠告を受け忠実に守ったせいかもしれない。薬の量が減れば本人はもとより国も助かるわけだ。記憶と忠実の因果関係を考えるが結びつくものはない。

いばぶん事務所に行きHPの更新をやる。相変わらずひっそりとしている。大きな屋敷がたくさんあるが人影は見当たらず。どこに人が潜み呼吸をしているのだろう。何か不気味な気配を感じる。せっかく良くなっているというのに、長居は健康に悪い影響をおよぼすのではとそそくさと帰る。稀勢の里はまた負ける。情けない。おそらく本人が一番辛いのだろう。それにしてもだそれにしてもだ。
 
   1月15日(月)

毎日ハッピードキドキとはいかないものだ、といっても胸焦がすドキドキもなく本日も終わろうとしている。金魚ちゃんのお住まいの清掃。彼らは人間の赤ちゃんと同じように羊水の中で育ち生きている。そして、一生を終える。赤ちゃんは途中で羊水から脱出するが金魚ちゃんは「脱出=死」となることがわかっているから水が汚れても「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び―」となる。

そこで、おいらが水替えと水槽のお掃除。これは飼い主の責任というのだろうが、軒先を借りて生きている金魚ちゃんにも自己努力が求められるのではと考える。近年、自己努力・自己責任という言葉が世間を闊歩して大きな顔をしているようでどうも気になる。自己責任とはうまくいったものだ。自己責任で相手からの行為で不慮の死に遭うこともある。もしくは自然災害についても同じ。こまった難問だ。

そこで疑問にこたえてくれるのではと「現代詩手帖1月号」を読む。難解な詩ばかりでますます混迷の世界に陥る。生きることも死ぬことも紙一重。「それがいいのだ!!」と金魚ちゃん、さわやかすっきり水槽で笑顔のキッス。まあ、人生楽しまなければだな!!。
 
   1月14日(日)

12日からブログはお休みしていた。毎日の義務としているつもりだが怠けてしまった。忘れないうちに12日のことを書いておこう。いばぶん事務所に行きんhpの更新をやる。その他、特に変わったことなし。つくば文化郷はひっそりとしている。空はぬけるような青さ。筑波山がくっきり見える。

13日、この日はひたち海浜公園で初釜。お点前を務める山王姫と行く。空は晴れている。寒さは半端じゃない。その中でお茶会は開かれる。公園にはなんの花も咲いていないこともあり来客は少ない。山王姫は寒さの中でお点前。お疲れ様でした。水戸のご老公も寒さのせいか体調がすぐれないという。みんな年寄りなのだ。

そして本日はシルバーの仕事。土浦文化会館は満員盛況。2階席までお客さんで埋まっている。ここで働くようになって初めて。会館の部屋は全部使っているのでシルバーは暇。それでも仕事を探して時間を潰す。今日から大相撲が始まる。稀勢の里は初日から黒星スタート。暗雲たれこめる。

 
   1月11日(木)

朝4時に目覚める。おいらの体内時計はどうなっているのだろう。トイレとは昔からの親戚だがこんなに早くからのつきあいはごめんだ。せっかくだからと小用をすませる。外はまだ真っ暗で何用あってこんなに早く目を覚ますのかというように闇に包まれている。部屋は寒さでふるえている。おいらも寒くてふるえる。みんなで震えれば怖くないとでもいうのかー。

面倒だとそのまま起きることにする。金魚鉢を覗くと金魚ちゃんはじっとして動かない。どうやら爆睡しているようだ。よく見るとからだがゆらゆらと動いている。枕もしないでよく眠れるものだ。夢を見ることもあるのだろうか。見るとしたらどんな夢かー。

もっと生活が豊かな家に飼われればよかった。運がないというのか巡り合わせが悪かった。ビニール袋に入れられて買い主の顔を見たときから胸騒ぎがしていた。それが現実になった。こんな寒い玄関に金魚鉢を据えるとはー。そこでハラをくくったのだ。どんな虐待を受けても生きて生き抜いてやると誓ったのだ。バーカが覗いているようだが知らんぷりしよう。
 
   1月10日(水)

冷たい風が吹く。冬だからしょうがないじゃないか、と意味のわからないお経のような念仏を唱えながら広い駐車場をほうきとちりとりをもって歩く。歩くことが仕事遂行の義務と開き直る。それにしても風が冷たい。

「キャッチボール」を夢見る。「現代詩手帳」が送られてくる。「入門用書写筆」を手にする。「なんでもやってみようー私の写真史ー」細江英公を読む。三島由紀夫をモデルとした写真集「薔薇刑」の写真家。

こうして、つつがなく一日は終わる。無事を感謝して金魚ちゃんに報告。「ひとりの人間としてつつがなく一日を終えることができたことはりっぱ。貴重な財産を積み立てていることと同じ。だが君にはもうすべてが遅いのだ」「はい、わかりました」。
 
   1月9日(火)

昼過ぎ、山王姫がうまそうなウナギをお土産にわが家を訪れる。ああ、夢にまでに見たウナギちゃんのかば焼き。昇天されたウナギちゃんは天国に召されることなくまな板にのせられ割かれ、火あぶりの刑を受ける。そして、そろばん勘定をはじかれ遠くまでやってきた。

ウナギは嘆く。故郷の村々ではこんなひどい目にあったことはない。それなのに、それなのにと涙する。おいらはウナギちゃんの涙も一緒に食べる。ごちそうさまでした。バンザイです。

山王姫と「セピア色の青い空」のカバー用紙を選ぶ。これから先はどうなることやら。手作りにこだわったせいか肩こりがひどくなるだけ。これも、ひとつの愉しみというべきか。
 
   1月8日(月)

月曜日だから土浦市図書館は休みで閉館しているだろうと電話を入れたら開館しているという。驚きだ。これは大ニュースだ。気位の高い土浦市職員のことだから月曜休みという慣例を忠実に履行しているのではと思っていた。これを青天の霹靂というのか。休館日を知らないおいらの怠慢を嘆くべきか。ただ、開館しているなら昼食後出かけるとかあちゃんにいう。かあちゃんはぼーっ。夫婦は似るものか―。

「ひさし伝」を読んでいたら釜石に流れ着いた井上ひさしは仕事を終えると図書館へでかけ夢中になって本を読んだという。「当時の釜石の図書館は24時間開いていた」。これを知ったら土浦市図書館の職員はびっくりしておしっこをもらすのでは―。なにしろ昭和30年代のこと。こうなると今のコンビニの先駆けというものだ。

「バーカ、当時の釜石は鉄のまちとして栄えていたのだ。1万人の作業員が3交代で働いていた。財政が潤っていたからできた市民サービスだ。土浦と同じにしてはいけないよ。おしっこもらしているのは年寄りのオマエさんではないか―」。金魚ちゃんから有り難い解説。ありがとうございます。
 
   1月7日(日)

相坊のブログを見ていたら「ニュースつくば」のコラムを書いているという。執筆者はどんな面々かと見ると知っている人知らない人が登場する。10数人の中に奥井登美子さんも名を連ね書いている。元気で頑張っていることに驚く。そこで毎年送られてくる年賀状の返信を今日ポストに投函する。何をやってもスロースローなのだ。(地域のニュースがたくさん載っているよ。見てください。https://newstsukuba.jp/)

朝、霞ヶ浦の朝日を拝みに行く。太陽は水平線から昇りはじめると輝ける今日が見えるような気がする。そうだ、今日は何か胸をときめかせるいいことがあるのではと期待したが特別なことは起こらず。いちにち平穏なり。

「吾輩は金魚ちゃんである」のタイトルでニュースつくばに投稿してみようかと不埒なことを考える。夏目漱石の「吾輩は猫である」を真似するのだ。「猫」と呼び捨てにしているが、こちらは「金魚ちゃん」と尊敬と親しみと愛情をこめて呼称している。金魚ちゃんいわく「バーカな考えはヨセヨセヨセヨシタマエ。これ以上恥をさらけだしてどうするのだ。内容が乏しくボツになるに決まっている。波静かにぼーっとしていなさい」「はい、わかりました」。
 
   1月6日(土)

今日は仕事始め。仕事場では土浦市消防隊の出初式。よくもこんなに消防車が土浦にあったのかと思うほど赤いクルマが駐車場に並んでいる。それをチラチラ見ながらお仕事に励む。館内では式典が行われておりそれが終わるまではパラパラとしかできない。のんびりしたものだ。普段からのんびりしているからこういう待機状況は苦にならない。

待機シルバーの話題はどうやってお正月を過ごしたか。何度も経験しているからこれといった変化はない。孫にお年玉をいくら取られたという切実な嘆き。お年玉をあげるという表現ではないのだ。「取られた」となるから孫たちは泥棒扱いになる。それでもかわいい孫たちだからそう話す表情は明るい。今年も明るく過ごせればいいと思う。

さて、わが家の金魚ちゃんの三が日はどうだったといえばまったく変化がなく平穏なり。彼らの世界には四季折々の自然を楽しむとか酒を飲んで快活になるとかは無縁世界で生きている。一体、毎日何を楽しみに生きているのかと問うても答えてくれない。そういうことを問うことがバーカだという顔をしている。そこで金魚ちゃんの顔をしみじみ見てみるが2017年と2018年の境目がない。エライものだ。今年もよろしくとだけ伝える。
 
   1月5日(金)

土浦図書館に行く。9時半を過ぎていたから開いていると思ったら10時からだという。早起きの年寄りには開館時間が遅いのではとブツブツ。時間潰しに山新ホームセンターに行き花を買う。寒さに強く値段の安い花を探す。花を植える男。略して花男ならぬ花おじん。この寒空に花を植えようというオジンはどういう顔をしているのだろうとバッグミラーを覗く。それなりに生きているようで無精ひげを生やした顔だが決して「ぼーっ症候群」の患者には見えない。

つくばイオンの未来堂書店には未来はない。「岩波新書は取り扱っていません」とつれない女性店員。まるで、本屋に本を買いにきたのかという顔。よほど岩波書店に恨みつらみがあるのか―。店内には山ほど本はあるが岩波書店とは友だちではないようだ。そこで、欲しかった土浦市内の地図を買う。「土浦幻聴」の参考にするのだ。

こうなるとこちらも意地でイノチガケ。添田孝史「東電原発裁判」はアマゾンで買おう。これ1冊だけ配達してもらうのもと思い気になっていた「死後の世界」立川武蔵著(プネウマ舎)をくわえる。

ここで訂正。3日夕方、姫丸子がやってきたと勘違いしていた。実は昨日4日だった。イノチガケで呆けようとしているのか―。不安だ。
 
 

 1月4日(木)

添田孝史「東電原発裁判」(岩波新書)の販売促進にイノチガケで取り組んでいるという歴史家の保立氏から霧島韓国岳の写真入りの年賀状をもらう。今年は神話論の計画中という添え書きもある―。

イノチガケならと土浦でも大きそうな書店に出向くが「岩波新書」は1冊もない。岩波文庫フェアーコーナーがある。それならと、内田百閒の「冥途・旅順入城式」を買う。こういうのは図書館で借りるべきかブックオフで買うべきか。はたまたキンドルなら無料で読めるかも。かあちゃんに頼まれた焼き豆腐を買いながら反省。明日は大型ショッピングモールの書店に行こう。それでもなかったらアマゾンになる。

大場さんからつくば文化郷の企画書が送られてくる。どうも意味不明。理解力が乏しいのか―。カンちゃんから新年のメールあり。そういえば昨晩は姫丸子がごちそうを持参して新年のあいさつに来てくれたっけ。歓びのあまり忘れていた。イノチガケでちそうさまでした。
 
   1月3日(水)

今年初めてのブログ。人に生きる歓びを与え考えることの大切さをコンセプトにしているつもりだがいつも脱線して軌道修正に追われている。

正月三が日は新聞折り込み広告が多い。キャッチコピーも派手。全品半額と吠えるものもある。それならおいらのブログ内容は全品半額。素直に読むべきではない。それでも書くのだ。

未来志向旺盛な金魚ちゃんに相談、「おまえさんの教養水準では現在で精一杯。すなおに認めているようだからせめて誤字脱字に気をつけ休みなく書き続ければいい。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるというものだ」

1日、兄の家で新年を祝う。双子ちゃんは今年小学1年生になるという。ドキリとする。今、お年玉をあげたばかりじゃないか―。
 


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