怠惰な散歩  2017年

   9月30日(土)

空缶通信ならぬ空瓶通信は続く。無人島に流れ着いた男が空瓶に手紙を入れ海に流す。いつかどこかでだれかが読んでくれることを期待して毎日のように認めては流す。おいらのブログもそんなようなもの。

さて、本日でめくりめくって9月もおわり。どういう9月であったのかふり返ってみてもさりとててのことはなかった。ぼんやりとした日々が平穏に過ぎたということだ。さて、10月になにを期待するか。天地がひっくり返るような期待もなければ、ただ安泰に過ごせればと願う。

願いごとはかあちゃんが元気であること。姉と兄家族や親戚友人知人 が健康であること。忘れてはいけません。金魚ちゃんがゆらりゆらり泳ぐこともわが家でが大切なことです。では、皆さま元気で10月を迎えてください。さよならです。
 
   9月29日(金)

朝、なぎなたのようなカマで土手の草刈り。大きいのはいいことだとはいかなくなった。体力が減退した影響もありやたらめったら重く感じる。いや、実際に重いのだ。5分もつかっていると腕がしびれてくる。

アサガオが律儀にまだ咲いている。ニガウリも小さいのが5本ぶらさがっている。コメヌカを置いている庭石にこのごろ姿を見せなかったスズメもやってくるようになった。空は真っ青。遠くでわが命を惜しむようにミンミンゼミが鳴いている。そういえば、「ヒグラシ」を「ヒグレオシミ」と呼ぶ人もいるそうだ。きっとよれよれオジンと同じように清らかな心の持ち主だろう。

金魚ちゃんのお家の水替えをやりきれいきれにしてやる。金魚ちゃんから感謝の声は聞かれない。礼節に欠けている。これは初等教育が悪かったのだろう。今から再教育とはいかない。年をとると頑固になる。「バーカ、おまえさんだって同じだよ―」。ピシャリと跳ねる。ごりっぱです。
 
   9月28日(木)

朝からドシャ降り。屋根をたたき地面をたたきころころ花壇の愛する花々をたたく。大地は太陽と水を求めている。恋せよ乙女―とはいっても雨脚が強すぎる。こういう天候の新聞配達は辛い。外が暗いうえに雨が容赦なくバイクにまたがった配達人をたたきつける。道路も濡れて滑りやすい。いちばん神経を遣うのは新聞を濡らさないことだ。

そんな日々を過ごしたこともあったところころ花壇を見入る。これじゃ早朝の散歩もできない。そこで本を読む。加賀乙彦と津村節子の対談集「愛する伴侶を失って」。

―自分で点滴の菅のつなぎ目をはずす。看病していた娘が急いで繋ぐが、夫は「もう、死ぬ」といって、さらに胸に埋め込まれたカテーテルポートをひきむしる―(紅梅)。この本を読んだのは荒川沖の借家に住んでいた時だ。そこの大家さんも亡くなった。日々は過ぎ去る。
   9月27日(水)

正直に話そう。おいらは他人のブログを見ることはほとんどない。お盆と正月だけの里帰りよりは多いだろが少ない方だと思う。久しぶりに「保立道久の研究雑記」を開く。ああ、文字の大行進。学者はこれを生業としているのだから普通なのだろう。女の薄化粧といって文章も厚化粧にならない方がいいと聞いたことがある。学者の世界は違うようだ。

リンクを見ると「写真家御供文範氏の怠惰な散歩」がはられているではないか。驚く。たまげた。井上ひさしの小説に「下駄の上の卵」がある。たまげた=驚いた、というわけだ。きっと、のぞく人もなく一度のぞいた人は二度と見ないだろう。

そこでおいらも「保立道久の研究雑記」を恐れ多くもはる。そして、相棒や水戸のご老公のブログものぞく。みんな元気そうでなによりです。
 
   9月26日(火)

シルバー人材センター主催の「清掃技能講習会」に出席。24名のジジババがそろう。清掃の目的「建築物のあちこちにほこりがたまり、汚れが付着すると人間の働く環境として不適当な状態になる」うんうんと頷く。

どんなことにも好奇心を持つこと。それは素晴らしいことだがよれよれおじんには体力もさることながら聞き取った内容を把握する能力に問題が生じるようになった。あくびと居眠りをこらえながら6時間講習に耐える。講習ということを考える。「ひたすらの我慢と忍耐」と学び直す。

「ほうき」について。インドではやたらめったらどこにでもゴミを捨てる。カースト制は色濃く残り朝早くから下層の少年少女が裸足で雑巾をしぼったよう布着姿でほうきを器用にあやつり路上のゴミを掃いている。日本ではシルバー世代の稼業として定着しつつある、しか、裸足ではないぞ。そういうことで今日は終わりました。
 
   9月25日(月)

昨晩、変な夢を見る。どういうわけかある専門学校のピチピチ姉ちゃんが登場。正面玄関から入り事務所のドアを思いきりあける。職員全員が怪訝そうな目でおいらにを見る。すると突然、狂ったようにピチピチ姉ちゃんに次々と抱きつき事務所を駆け回る。どういうわけか男には抱きつかない。悲鳴が校内に轟き騒然とする。学生も先生も事務員が「エロジジィ」と罵声をあげながら消火器を一斉放射。おいらは泡だらけなって金魚ちゃんのように口をパクパクさせている。夢はそこで終わる。いつも夢は水引草のように揺れ去っていくものだ。

本日を振り返って思うのは日が短くなったということ。時間は24時間でひとまわりだが人生はそうはいかない。後戻りしたり走り過ぎたりとぼーっとしたり面白いものだ。

「われらの獲物は、一滴の光り」(開口健)を読む。図書館からよくばりじいさんは16冊も借りようやく5冊目。こまったものだ。
 
   9月24日(日)

不規則な睡眠が続く。とにかく寝るのが早い。どうしても7時ごろには眠くなる。布団に入ると爆睡。世界は平和だ。12時ごろおしっこタイムで目がさめる。しばし、世界情勢の思考に浸る。「うそー、いつものぼーっだよ」金魚ちゃんの声を無視して二度寝。またまた爆睡。

5時にふたたび目が覚める。外はまだ薄暗い。もう眠れそうもないので着替える。やることがない。「土浦幻聴」の写真を撮りに歩こうとスタコラスタコラ。気がついたら姫丸子の武道具店ちかくにいるではないか。あたりは人影もなく静まりかえっている。探したらあった。「武道具振武堂」はまだおやすみタイムのようだ。

ぼーっと歩いていると声をかけられた。オクイキヨシさんだ。自宅から学園大橋まで往復2キロを2時間かけて歩くという。先ごろ米寿を迎えお祝いをしてもらった。「元気そうですね」と」とオクイさん。一瞬、20歳も年上の人から励まされ驚く。四方山話をして別れる。たっぷり3時間歩いた。オクイさんより1時間多く歩いた。これが元気そうということ。
 
   9月23日(土)

土浦市民文化センターは元気印オジンオバンでおおにぎわい。なぜなら、地元出身の「寺内たけしコンサート」。開幕1時間前には駐車場は満杯で大ホール入り口には長蛇の列。ここで仕事をするようになってはじめてみる盛況ぶり。

フト、考える。全席指定なのに開場1時間も前から待っていたらトイレが恋しくなり入場とともの駆けこみ寺ならぬかわや寺に駆け込むのでは―。そうなるとトイレにも長蛇のそわそわジジババが並ぶことになると余計な心配。軍事パレードなどでは待ち時間が長く紙おしめ着用で待機するという話を聞いたことがある。まさかーと思う。

楽屋裏では、同級生や昔馴染み親戚などが集まり記念撮影。良き青春時代を共にした話題がとびかう。寺内たけしという名前でこれだけの人を呼び寄せる力に驚く。おいらは金魚ちゃんにエサをやる時だけはなんとか呼び寄せられるが、それも三匹だけ。これもりっぱなものよ。
 
   9月22日(金)

「空を共有する」「海を共有する」「大地を共有する」この3つを束ねれば地球そのもの。こんな単純で明快なことはない。今、読みたい本。「これがすべてを変える」ナオミ・クライン著(岩波書店)ここまではすんなりタイプは進むが問題は価格だ。上下5400円也、おいらのサイフにはきつい。

金魚ちゃんいわく「そんなに読みたいのでしたらお酒もお煙草もおやめになってはいかがですか。そうすればお買い求めできますよ―」。どういうわけか訊いてもいない口をパクパク。さらに続く「貧乏で買えないなら土浦図書館で借りたらどうですか」「そうはいかないのだ。こういう本は手もとに置いておきたいのだ」「そんならお好きなように!!」。金魚ちゃん超難度Aウンチヒキズリジャンプして水底。ありがとうございました。

よれよれおじんには学ぶことが実に多い。学ぶ意志はある。だが、昨晩食べたごはんのおかずも憶えていない。どうしたらいいものか大いに悩む。そうです、紫煙をくゆらせて考えるのです。
 
   9月21日(木)

ゲーテは死の床で「もっと光をー 」と言ったらメイドは窓のカーテンをあけたというが、おいらはギラツク太陽を見あげなら雲よもっと早く流れておくれと願う。雲間に隠れた太陽を見はからってコロコロ菜園の手入れ。ほぼ1時間でギブアップ。とにかくお陽さまの熱い接吻攻撃は休むことがないのだ。これを残暑というのか―。とにかく疲れた。疲れを知らない子どものようにとはいかないのだ。

何度も休みをとる。それでも辛い。さらに勉強不足で作業手順は不明。素人はからだで学ぶべきとの信念だが、それにしても疲れる。

空缶さんから夫婦善哉のようなメール届く。おいらのブログは反応ゼロ。まあ、内容からみれば納得。それだけにうれしい。それでは、みなさま早寝をして爽やか朝をお迎えください。バイバイです。
 
  9月20日(水)

土浦会堂の前に黒塗りの霊柩車が停めてあった。もし、そのクルマをタダでくれるといわれたら断るだろうかー。いや、タダだから貰って転売すればいいだろうかとも考える。黄色いひも付きのバキュームカーでも同じだだろうか―。ヒマを持て余したよれよれオジンの考えることといったら実にくだらない。とにかく明るい未来を語ることができないのだ。

今日は水曜日でつくば文化郷は休日。静かな田園から筑波山を望む。薄っすらと双峰が見える。筑波山はなにを考えて関東平野にそびえているのだろう。そびえる理由があるとすればこうしているのが一番座り心地がいいから―。問うことが無駄なりという愚門だろう。

今日はからだが重く仕事がしんどかった。季節の変わり目と夏の疲れの風が筑波山から吹き下ろしているようだ。気がつけば棺桶というのか筑波下ろしの冷たい風に震える季節に確実に向かっている。喜んでいいいのか悲しんでいいのかわからない。 
 
   9月19日(火)

2017年9月20日付け地元紙、常陽新聞1面トップ記事は山新でカンちゃんこと空き缶夫妻においらとかあちゃんが出会ったこと。しかし、しかしだ、常陽新聞は数年前に廃紙になったから幻の1面トップ記事となる。無念、しごく無念なり。それでも物語は続くのだ。

1面トップ見出しをどうするか、「よれよれ夫婦、空缶夫妻と奇跡の遭遇」。サブ見出しは「数年ぶりの邂逅に滂沱 、山新冠水」。そんなウソ記事 はどうでもいい。久しぶりにカンちゃんのお顔を拝見。「元気そうでよかったね」とかあちゃん。おいら、うなずく。そうだ、空き缶ではなく「元気そうだ」「元気です」「元気まんぱい」の具いっぱい缶詰3シリーズを開発したらどうだろう。人生、面白くしなければ面白くならないのだ。

金魚ちゃんに今日の報告は中止。どうせ、罵詈雑言しか返ってこない。お互い秘密あっての長い付き合いがうまくいくというものだ。ということでバイバイです。
 
   9月18日(月)

激しい風と雨音で目がさめる。時計をみると午前3時半過ぎ。すごい風の勢いだ。道路をはさんで自宅から見える雑木林が大きく揺れる。群れることでお互いが助け合っているようにも見える。小魚は自分を大きく見せるために大魚のかたちで群れて泳ぐというが樹木も同じなのだろうかー。

そこで金魚ちゃんに訊く。群れるとはなんぞや。「バーカ、弱い者が慰めあうように集団で生きることだ。オマエさんははぐれ者だから仲間に入れないよ。ああ、かわいそう」。

金魚ちゃんは自分たちのイノチがだれの手に委ねられているのかを知らないのだ。伝家の宝刀「エサ拒否宣言」をおいらがくだせば金魚ちゃんたちは3匹集団でこの世とサラバだ。口は災いのもと。細心の注意をはらうべきだぞー。
 
   9月17日(日)

今朝の朝日新聞広告で、好きな作家のひとり『「丸山健二全集」全作品 新たに書き下ろし全100巻刊行予定』を見て驚く。「夏の流れ」で芥川賞を受賞して50年余にわたり純文学に徹しメシを食い生きてきた。修行憎のような作家。「イヌ」「モトクロス」「ニワ」と執筆活動の合間にのめり込んでいる。すごい作家だ。おいらの本棚を見たら30册ぐらいある。

全作品を書き直し10年かけて完成させるという。完結するころには作家は80歳をすぎているはずだ。そこで考える。買うべきか買わないべきか。どちらが先に死ぬのか。ましてやおいらに読みこなす気力が残されているか。大いに悩む。

午後、石岡の山王姫宅へ。「セピア色ーの青い空」の取材。外は激しい雨。祭りを楽しみにしている石岡市民は無念だろうが「アメニモマケズ カゼにモマケズー」ですぞ。山王姫からたくさんのご馳走を頂く。有り難うございます。
 
   9月16日(土)

作戦1、土浦市民センターで同シルバー人材センターのオジンとオバンが掃き集めた枯葉をもらうこと。作戦2、コメヌカは小松三夜下の無人精米所から無料で頂戴すること。作戦3、それらをかき混ぜ幸せの黄色いハンカチならぬ黄色い樽にいれること。後はグーグル先生に教わった手順で作業を進めること。

この試みが成功すれば山新ホームセンターで販売している680円なりの腐葉土を買わずにすむ。自らの手で作った腐葉土でコロコロ花壇とコロコロ菜園の土壌は栄養満点となる。素晴らしいアイデアだ。自分で自分をほめる。さあ、明日から作業開始だ。ムネがわくわくする。

そういうことで、今日も終わるのです。石岡は祭り真っ最中だが天候不順が続きそう。毎年のことでニュースにもならないが、おいらの腐葉土作り作戦はホットニュースだ。
 
   9月15日(金)

拝啓 
愛する金魚ちゃんにお尋ねしたいことがあります。毎日、どんなことを考えてお過ごしでしょうかー。60リットルの水槽の世界から見るニンゲン社会の営みをどう見ているのかとお聞きしたいのです。もし、水槽の中にボールペンのような物体が上空から不意に墜ちてきたらどうするのと質したいのです―。きっとなるようにしかならないよとお答えになられるかもしれませんが、金魚ちゃんの本音はどうなのでしょうか?

金魚ちゃんは水の中を泳ぎ回るだけ。完璧に世界の動向やニンゲン社会の出来事から目をそらせている。わが家の金魚ちゃんは無我の境地のよう。怪しげながら悟りきっている。怖ろしい金魚ちゃんだ。

藤原伊織の「遊戯」を読む。この作家に辿りつくまで福永武彦→結城昌治→連城三紀彦→藤原伊織と流れてきたように思う。これはおいらの読書遍歴であるが物故した作家の方が多い。そして、どんどん忘れられていく。それでいいのだと思う。藤原伊織も2007年に逝去、59歳だった。おいらと生まれた年は同じ。新聞の片隅で死亡記事を読んだのを思い出す。もっと読みたい作家だった。
 
   9月14日(木)

朝から体がおもい。足もとから頭のてっぺんまで力が入らない。どうしたのだろう―。クビをひねり考えてみる。昨日のシルバーの仕事の疲れが残っているのだろうか。正味6時間労働だが何度も休憩をはさんでいる。単純肉体労働もこなせないオジ―ンとなったのか―。情けない。

気分転換に吉瀬のいばぶんへ。少しずついばぶんHp更新に集中できそうだ。当初、いばぶん情報発信の本拠地はhpと考えていた。つくば文化郷という冠がついた場所に事務所も提供してもらった。ガンバローと意気込んでいるのに体がおもうように動いてくれない。ヘルスメーターにのってみる。体重は変わらない。世の中、わからないことが多い。

事務所前の「ながや門ギャラリー」で「うさとの服展示会いinつくば」が明日から18日まで開催される。年4回開いていると主催者。彼女は庭に洋服を出し盛んにスマホで写真を撮る。フェイスブックで周知するという。DMも出すがもっぱら口コミとネット。よく、わかりませんが紙媒体は棺桶に入りそうです。無念なり。
 
   9月13日(水)

土浦市民センター裏手に職員用の駐車場がある。そこには20本ほどの桜の木がぼーっと空を見て立っている。その桜の葉っぱが散りだした。風が地をのたまうと葉っぱはさまざまな形を見せて踊る。そこでつくづく桜は偉いと思うのだ。春には満開の花を咲かせ人々の心を和ませ夏になれば暑さにあえぐ人々に緑陰の風を送る。そして今、葉っぱは散りはじめシルバーで働く人たちに仕事を与え労働対価として報酬を約束してくれる。

要するに落ち葉掃きの仕事が加わるということだ。大先輩にこの仕事は夏場と冬場ではどちらがきついかと聞けば力強く「夏だよ」。とりあえず夏は乗り切れそうだ。

今日のできごとを金魚ちゃんに報告。「怠け者の主人のせいで汚れた水槽の中であえぎながらも頑張りどうにか夏を乗り切れそうだ」と、力弱く話す。ハアハアゼイゼイさせながらもお互いよかったね。
 
   9月12日(火)

いばぶんに光電話がはいる。これで事務所の諸問題は完了。その後どうなるかは不明なり。驚くことに元相棒に志賀さん、さらには関野さんも事務所に。これまで来訪者は電話工事も含め10人ほど。さて、次はだれがやってくるのやら。

栃木県さくら市ミュージアム荒井寛方記念館学芸員のOさんから電話あり。秋には大きなイベントを計画。在日インド大使を招待しているが代理に1等書記官になるらしい。そこへゲストスピーカーとして二ランジョンが浮上。二ランジョンからメールがはいるが要領を得ない。それがインド人二ランジョンだ。用心、用心。「火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」とはいかないのだ。これからいろいろ相談するのでよろしくとのこと。

今日はむし暑かった。なかなかすっきりとした秋の一日とはいかない。それでもいばぶんの帰り吉瀬の里から爽やかな美しい空を見る。お天気だけはどんな権力者でも刃向かうことはできない。よくわからないまま今日も終わる。そういうことで本日はお仕舞いとします。
 
  9月11日(月)

朝一番、かかりつけ医院へ。おしっこと血液を採取しての検査。結果は明日には判明するという。結果がを早くなっても内容は変わるわけではないが変わってほしいと願う。ドキドキ感があるのは子どもの通信簿と同じようなものだ。人生、何らかの緊張感があったほうがいいのか―。

それはそれは見事な花壇が道路わきに広がっている。ここまでりっぱだところころ花壇も幼子のようなものだ。場所は石岡の特老施設ケアハウスゼーレのすごそばだ。名前もわからない西洋花が多い。じーっと見ていると目がクラクラする。あんまり彩りが豊かだろうからか―。わが家のころころ花壇も華々しいと思う時はあるが自分で手入れをしているせいかかわいらしく見える。やはり、野辺に咲くネジバナのように楚々としたのが日本人の気質にあっているのか。

ケアハウスゼーレで9月楽しみ茶会をパチリパチリ。今日は元気印のボランティアのEさんは休み。いつもより静かに進行する。ただ、山王姫がお茶の作法について本格的に教授する大きな声が茶席に広がる。職員はピーンとして緊張気味。人生の大ベテランの入居者にはどう映ったのだろうか―。
 
   9月10日(日)

爽やかな朝だった。草取り日和と精を出す。無心で大地に向かいながら今日の予定を考える。南岳先生夫妻が11月開催の展覧会会場の下見に来ることになっいる。山王姫も数十年ぶりつくば文化郷を訪れる。雑草を引き抜く。雑草を引き抜きバケツにいれる。

アキレス腱を痛めたかあちゃんを車にのせ実家近くで降ろす。土浦市内は人通りも少なく静かだ。天ぷら屋ののれんは入り口に下ろされている。甥っ子夫婦はがんばっているようだ。そのままいばぶんへ。

昼前に3人がいばぶんへ来る。山王姫に猫ちゃんグッズを飾ってもらう。事務所内はだんだん賑やかになり華やぐ。4人で日本そばを食べた後に長屋門ギャラリーを見学。それからオーナーを交えて打ち合わせをして日程などを決める。まめはでコーヒーを飲みながら雑談。その後、吉瀬の軽井沢を少しだけ散策。帰宅して金魚ちゃんの水替え。大相撲の初日をテレビ観戦。こうしてつつがなく一日を終えたのです。おわり。
 
  9月9日(土)

今日は体がだるかった。モップ片手に颯爽とロビーを闊歩するとはいかなかった。どうしてだろうと考える。思い当たることといえば、昨日は久しぶりに刈り払い機を使った。その疲れが残っているのだろうか。15分ぐらいだった。それでもくたびれた肉体には辛かったのだろうと推測する。

爽やかな一日だった。午後の草取りでアリンコの動きを観察する。画家の熊谷守一は晩年に庭に出て一日中アリの世界を見ていたという。そのアリの営みをじーっとぼーっと見る。草取りの合間だから数分だがアリちゃんとお話しをしたのだ。

まぁ、よくもチャカチャカチョコチョコと動く。なに用あってそんなに動きまわるのか―。問いただすかがアリは語らず。無報酬ではないのか―と尋ねるがアリは語らず。小さなアリをじっと見ているうちに目がチカチカしてくる。そこで、アリちゃんお疲れさまですといってバイバイする。おわりです。
 
   9月8日(金)

おこわ、青森のリンゴ、新米(コシヒカリ)、漬物を手に姫丸子が颯爽と現る。まが悪い、悪すぎる。草取りを終え汚れたズボンを洗濯場に放り投げポロシャツとパンツスタイルの時だ。慌てるが間に合わない。それを見た姫丸子は「大丈夫、大丈夫」。亭主のパンツ姿を見ているせいか落ち着いたもの。とにかく、姫丸子さま有り難うございます。

インドの二ランジョン夫妻が11月に日本に来るという。泊めてほしいと連絡が入り了解と返事。二ランジョンが前回わが家に泊まったのは荒川沖に住んでいた時だ。きっと、彼にはその記憶のままだろう。蓮河原泊、荒川沖泊、小松泊となるのか。おいらの生きざまの遍歴を追いかけているようだ。

吉瀬のいばぶんで仕事。オーナーのN氏がやってきて雑談。いろいろなことに取り組んでいるせいか忙しそう。あれやこれやの話しているうちに来客があり風のように消える。おいらも風のようにいばぶんを後にしてウーロンハイが待つわが家に向かう。そういうことです。
 
   9月7日(木)

吉瀬のいばぶん事務所の隣にある「まめは」でホットコーヒーを飲む。本格コーヒー専門店のよう。「 あまりうるさいほうでないので普通のコーヒーでいいです」と注文。マスターは苦笑い。店内はむき出しの梁が天井にでんと座っている。アンティックなインテリア。ジャズがゆったり流れている。どうも高貴な方がくつろぎハイレベルのお話しをする雰囲気。よれよれおじんには不似合いのように思える。ブランド名「吉瀬コーヒー」を味わう。これは旨い。だが、当然のように禁煙。これは憎い。

昔、「憎いあんちくしょう」という映画があった。内容はすっかり忘れたが石原裕次郎が出演していた。こういう時はグーグル先生の出番となる。忘れてもいいことを思いださせるのは犯罪行為にちかいのではとブツブツいいながら探す。ヒットする。さーっと斜め読み。

そういえば、土浦図書館から欲張って16册も借りてきた本は1册だけページを開いた。「海があるということは」川崎洋詩集。 「いま始まる新しいいま」の一節。――きのう知らなかったことを/きょう知る喜び/きのうは気がつかなったけど/きょう見えてくるものがある/日々新しくなる世界/古代史の一部がまた塗り替えられる/過去でさえ新しくなる ――。そういうことで本日は店じまいです。
 
   9月6日(水)

ブログを毎日書くということはどういうことかと考える。毎日の生活にそんな大きな変化はないのだから休んでもいい。ましてや、時々休んでも誰かに迷惑かけるわけでもなく反則金を要求されるわけでもない。だが書かないと何かとんでもない忘れ物をしたようで落ちつかない。アルコール依存症みたいなものだ。そこで今日も認める。

今日はシルバーの日。三人組のリーダーのNさんは奥さんをガンで亡くしやもめ暮らし。カミさんがいなくなってから半年は駄目でぼーっとして何も手につかなかった。「このままではお父さんは駄目になる」と娘がシルバー人材センターに連れてきたという。それから5年が経ち75歳になったが元気だ。煙草は一日数本で晩酌は毎日欠かしたことがないとうれしそうに話す。

そうだ、酒も煙草も好きなだけ飲めばいいと満足顔でうなづく。こういう人がいるということは喜ばしいことだ。そういうことで今日は終わりです。
 
   9月5日(火)

今日はころころ花壇の手入れはお休み。吉瀬のいばぶん事務所へ。ここからこころをこめ高尚で、気品高く優雅な文化を発信。つくばを活気づけようというのがコンセプト。脚気(かっけ)じゃないぞ。さて、物語はどう創られ白いキャンバスに驚くような絵模様が描かれるのか―、不明なり。

事務所でひたすら伝票の整理。大嫌いな数字とにらめっこの連続で肩こり、目はカスミ、アクビをかみ殺す。アクビといえばアケビの季節がもうすぐやってくる。山形の片田舎で暮らしているころはよく食べた、食べさせられた。

その中でもオフクロが作ってくれたアケビの皮を干しその中に味噌と野菜を混ぜた揚げ物がおいしかった。あの味をかあちゃんに求めても無理。アケビそのもを知らなかったのだからー。シティガールの食生活はあくまでも正統派のよう。野育ちのおじんは無念なり。
 
   9月4日(月)

予定していた草取りを完了。この二日間、無我の境地でころころ花壇ところころ菜園、さらには家の前の土手の草取りに挑む。これが曲者腫物で始末に負えない。神は努力と奮闘を求めているようだが、いかんせん体がマイナス成長の真っ盛り。苦難の連続なり。

カリフラワーヘアカットを世界中に喧伝する某国のリーダーは何が欲しいのか。みんなで死ねば怖くないではこまるのだ。年寄りは諦めもつくがこれからの未来に夢を託し頑張っている若い人。さらには血肉が裂け飛び散るだけで死臭を知らないゲーム世界で育った子どもたち。一方で好きな言葉は「レットイットビー」という人もいる。

今晩のブログはビートルズの「レットイットビー」を聴きながら書く。「どうにかなる、どうにかなる。どうにかなってきた、どうにかなってきた」とと解釈し枕をたかくしてお寝んねするのだ。
 
   9月3日(日)

朝メシを食べコーヒーを飲み新聞を見てほどほどのオシッコタイムはとるが読書はなし。ひたすらころころ花壇ところころ菜園の手入れ。空は青一色。空気は乾いている。心はどうかと自問するとハァーッと情けないため息。どうも、我が心は乾いた心と湿った心が格闘がしているようだ。あらそいは明日への活力となるのか―。

それでよし、と仲よし金魚ちゃんに報告。そういえば、ころころ花壇のえさ場にいつもやってくるスズメたちが飛来しなくなった。どこか、うまいメシドコロを探したのだろう。ヨシヨシ、食えればいいのだ。

姫丸子からメールあり。誕生日を祝ってくれる。さらに土浦花火大会の誘いまで受ける。了解のメール。カンさんからもhappyメールあり。ありがとうです。今宵、うつつながら月光を見る。きれいだ。どうせさよならするなら美しいものを見ながらサラバしたいものだ。
 
  9月2日(土)

今日は69歳の誕生日。シルバーの日。かあちゃん施術の日。いつもの一日のなかにこれだけが何気なく盛り込まれている。
69の数字を逆さにしても69。このように逆さにしても同じ数字になるのは96。同じ体験をしたかったら96歳まで生きろということか―。ああ、恐ろしや怖ろしや。

山王姫からの仕事の斡旋で臨時収入あり。手押し芝刈り機を買う。試してみると快調なり。蓮河原時代も芝刈り機を使っていた。東京から引っ越してきて広い空を見て感動。庭付きの貸家に住めることではしゃぎ夢中で庭造りに励んだ。二度と手にすることはないだろうと覚悟していただけに素直にうれしい。

映画「天国と地獄」で、事件に巻き込まれよその人に渡ることになった豪邸の庭を芝刈り機で手入れをしている主人のワンシーンを思いだす。人生、谷ありで今日まで生きてこられたことに感謝。明日はわからないぞ!!。
 
  9月1日(金)

ひとは遠くを見つめ
語ろうとする
ああしたこと
こうしたこと
ぽつぽつと吐息をもらし
遠くの木々や
空に語ろうとする
なんでもないこと
とんでもないこと
そんなことが入り混じって
雲の流れに
まぶたを濡らしたりする
ふりかえっても
失われた日々は
もどってきゃしない
 

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