怠惰な散歩  2016年12

   12月31日(土)
本日で2016年もおわり。新年の迎えけじめをつけようということはいろいろありましたがみんな水に流して忘れましょうということでしょうね。ところが記憶の糸くずは脳天のどこかにからみつき消えようとしない。喜怒哀楽の濃淡はさまざまでもだ。それはそれでいいとしよう。そうしないと身がもたないというもだ。

本日も荷物整理。うららかお日さまに誘われるように外回り。いちばんの大物は金魚鉢。水漏れ不要品が二つもある。始末しながらずいぶんとお金を使ったものだとため息。金魚ちゃんは一匹25円。水槽はそうはいかない。しかし、人生は楽しくなきゃおもしろくない。

そんなこんなで夜をむかえる。「中村紘子さんの残したもの」テレビでみる。感動、感動でおわる。音楽はいい。みなさまがたよ、ハッピーな新年をお迎えくだされ!!。
 
   12月30日(金)

すこしはまともなブログ写真をとカメラをクビからぶらさげ荒川沖かいわいを歩く。歩きながら考える。カメラのストラップは首吊りに耐えられる強さをもっているのか―。師走を迎え自殺するヒトも増える。自らイノチを断つ方法はいろいろあるだろうがカメラのストラップさえも可能性としてはある。なんとなく、クビからぶら下げたカメラが怖くなる。結局、一度もシャッターを押すことなく一時間ほどで家に帰る。

牛久図書館に行く。再度読みたい本がある。タイトルは忘れた。おぼろげな記憶をたよりに「小川洋子とハヤブサリュウ」で検索。見当たらず。たしかこの図書館で借りたはず。まてよ、ハナブサリュウではないか。あった。記憶違いをしていた。「いとおしい日々」文・小池真理子+写真・ハナブサ・リュウ。同図書館は大晦日までやっているという。エライものだ。土浦三中図書館は29日から正月休み。エラクない。

「いとおしい日々」を読む、というより写真を見る。いろんな場面を想像する。ひとりニヤリと笑う。自分でバカではないのかと思う。主役は山王姫にあり。さて、おいらにこなせるだけの力量はあるかと自問自答。わからない。さてはどうなるのやら―。来年が楽しみだ。
 
   12月29日(木)

引っ越しに備えがんばる。溜息と吐息が部屋中を走りまわる、といっても次の転居先は不明。ジイバアはどこへ行くのでしょうね。社会から高齢者とお墨付きをいただいたこの年で家探しをするとは想定外、というよりおいらの辞書からは抹消されていた。

そこでオジンは思考をハレにきりかえる。二人とも肉体にはそれなりのガタがきているとはいえスロースローながら動くことができる。元気な子どもを産んでくれた両親に感謝しなければ。おいらの父母は遠いむかしに黄泉の国へ。かあちゃんの父も数年まえにあの世へ。それならとふんばる義母は98歳で元気なり。負けられません。

「世界の涙の総量は不変だ。誰か一人が泣きだすたびに、どこかで、誰かが泣きやんでいる」。「バーカ、そんな泣きだすことも涙をながすほどヤワではないよ!!」二人して絶叫。バイバイでぇーす。お休みなさい。
 
  12月28日(水)

千葉の瑞枝先生からレンコンが届いたというお礼の電話がはいる。とても大きいレンコンとうれしそうな声。ダンナ、娘夫婦、孫二人と家族が多い。使用人まで含めると頭数はもっと増えるはずだ。電話口から孫の声が聞こえる。寺院ということで年末年始は忙しいのかと聞けば、ふだんよりちょっとだけという。いずれにせよ、元気そう。

ひたちなか市のM氏からお歳暮ホシイモ届く。お礼の電話をするが留守電になっている。孫も数人いるはずだ。正月を迎える準備で忙しいのだろうか。今年は顔を見て話をすることはできなかっが来年は是非と舌足らずの声を残す。

夕方、グランヴィアに出勤しようとしたら潮来マリーナから「気をつかってもらって」という電話。最初は何のことかわからなかったが、どうやらかあちゃんがお歳暮を贈ったらしい。そのお礼の電話。「今年はバタバタして行けないないが正月明けに行きます」。グランヴィアの事務所に顔をだすなり、クリスマスとお歳暮にお年玉というトリオでプレゼントを頂戴する。素直に喜んでいいものか―。さては何でしょうか? 
 
   12月26日(火)

朝から気分がはれない。空はどんよりと雲がたれこめ湿った空気は冷たく重い。こういう日はなにもする気になれない。こういうことはみんなにあることだろうか。思いだすだけの顔をうかがってみる。なんとなく全員の顔が曇っているようだ。

寒い一日になりそうだというのに灯油は空っぽ。ますます肩がすぼんでくる。気持ちを奮いただせてジョイフル本田へ買いに行く。売り場の担当者は寒そうに仕事をしている。数人の販売員はシニア族。屋外で頑張っているオジサンもいるのだ。家に帰り、潮来マリーナの仕事に精を出す。電話でやりとりして無事終える。

夜、久しぶりにテレビを見る。世界の10大ニュースをやっている。辺見庸ではないが「なにかが起こる、いやその渦中にいるのかもしれない」の言葉が頭の中を忙しく駆け巡る。確実に世界は変化している。不確実性の時代に突入しているのだ。わが家も変革を迫られている。ここへ越してきたのは10年前。あの時代も大きな変革期だったと解説者は言う。もっともだと思う。
 
   月26日(月)

グランヴィアの仕事を終えまっすぐ「新・いばぶん事務所」石岡へ直行。出発したのは8時10分頃。混雑時間帯は過ぎただろうとハンドルを軽やかにさばく。ところが下高津付近でピタリとアクセルを踏むことを拒否される。目前の大型トラックが動かない。前方のクルマが走らないことにはこちらも進めない。こういうのを渋滞というそうだ。

すごく遠い石岡を感じる。そして、それからの遠い世界を考える。ひとことで、人間滅亡世界の宇宙ー。わからないなり!!。

いばぶん事務所に到着。それなりに整理。帰り、山王姫のお顔を拝見して帰宅。芸大卒のシングルマザーデザイナーからクリスマスカード届く。娘は受験を控え必死にがんばってるそうだ。それなりにガンバルこと。等身大のガンバリがいちばん美しいとカードの返信に認める。
 
   12月25日(日)

朝、なんとなく写真を撮りたくなったので土浦市内を流れる桜川堤防を歩く。川風が冷たいい。空は鉛色。社会全体が暗く沈んだよう。それでも、数人がジョギングしたり散歩に余念がない。桜咲くころには大勢の人でにぎわうだろうが、今は冬。寒さだけを川風が運んでくる。

家に戻ったらやたらめったら眠い。ウトウトしながら本を読み引っ越し準備の本整理。どんどん捨てること。「このごろ、わたしはみんな捨てたくなった」。ワタリウム美術館の和多利志津子さんの言葉を思い出す。

出勤前の夕方ながみねへ。クリスマスツリーが点灯している。カメラなし。スマホなら簡単に写せるだろうに。もっとも、ふだんは携帯を持ち歩くことが少なくなった。なんとなく、いつも管理されているようで重苦しい。マンボウのように海にプカリプカリと浮いていることはできないから、せめて大地を踏みしめるときはすっぽんでいたい。金魚ちゃんを見習わなければ―。グーグル先生よりすばらしい先生だ。
 
   12月24日(土)

昨日の引っ越し作業の疲れをとるためゆっくりと家でからだを休めよう。心に誓っていたが空を見ると青空が広がる。そこで少し歩こう。どうせなら「土浦幻聴」の写真を撮ろうと土浦の木田余周辺をブラブラする。

ところが30分も歩くと足がだるくなる。あれぐらいの肉体労働でこんなはずはない。「エィヤ」と踏ん張ってみるが思考力ゼロ、足進まず。これは神さまがゆっくりと休んで家でぼーっとしていなさいとのご注進。そこで、早めに切り上げる。

自宅でぼーっと過ごす。本を開いても頭にはいらず。ぼんやりとあれやこれやと考える。そういえば今晩はクリスマスイブ。世間はどれほど浮かれているのかと夕方の荒川沖駅周辺を散歩。なーんにも変わらない。ふだんの静かな駅前広場や飲食街。日常風景がぼんやりと佇んでいる。つつがなく今日も終りに近づいていくのを目にしてなんとなく安心する。そして、おいらのクリスマスイブは終わるのでした。バイバイです。
 
   12月23(金)

「いばぶん」事務所転居の荷物運びをやる。働き手はロートルトリオ。常陽新聞記者時代の先輩でCROSSの元相坊。そして、後輩のM氏とおいら。元相坊はどうも肉体労働には向いていない。M氏はおいらの退職後に同新聞社の社長。不向きと元社長。しかも、若さは路傍の石―。周囲を見渡してもおいらが頼める人は見当たらず。声をかけ快く手伝ってくれる人。おいらのブログを見て駆けつけてくれた人に感謝。

「えいやこら、よいしょ」と自分の肉体にカツをいれ、どうにか土浦から石岡までの引っ越し作業は無事終了。「明日、明後日が筋肉の悲鳴を聞くことになるのかー」、お互いの顔を見まわす。

帰宅途中、今回の件で大変お世話になった山王姫宅へ。静かな庭園を見ながらお茶をいただく。ケアハウスゼーレ、ロートル2人、ありがとうございました。山王姫にはとくだんのお世話になり感謝をしています。ただ、、鶴の恩返しは期待しないでください。お願いします。
 
   12月22(木)

さて、今日も頑張らなければとクルマを潮来に向けて走らせる。「明日に向かって生きる」というより「今日をいかに無事に生きるか」ハンドルを握りながら霞ヶ浦湖岸にチラチラ視線を送る。新聞記者時代、この湖岸を何周したのやら―。

「やよい丸資料館」の展示写真を納入。今回は60枚。会場のスペースによっては増えるかもしれない。現場で相談しながらという作業になるのだろう。そうなると、気分次第となる。これは、こまったものだ。それなりのコンセプトを考えてみよう。とりあえず、後は来年ということで、北浦が一望できる食堂「渚」でラーメンをごちそうになり帰る。

夕方、糸魚川市の大火事をテレビで知る。大変な災難だ。こうなるとクリスマスイブを楽しむどころではない。「クルシミマスイブ」だ。絶句。わが家はまだある。しあわせをかみしめる。
 
   12月21(水)

「やよい丸資料館」名称はなかなかなものだが中身となると怪しい。怪しいヒトたちが集まりエィヤと始めようとしているのだからそれもしかりだ。展示写真のパネル製作に励む。息抜きに外に出ると暖かい日が降りそそいでいる。常磐線の駅そばという住宅地だが閑静というより不気味な静けさだ。留守宅も多いがそれにしても空き家が目立つて増えたような気がする。

10時頃、突然の来訪者。姫丸子ではないか。驚く。わが家には滅多によその人がやってこない。宅配便、回覧板の通知、新聞の集金ぐらい。玄関先から大きな声。どこかで聞いたような明るく弾んで跳ねている。まさかと覗く。吉兆を知らせるように姫丸子がいるではないか。金魚ちゃん震える。かあちゃんとなにやらやりとりをして颯爽と消える。「風と共に去りぬ」ならぬ、「クルマと共に去りぬ」なり。

昼食後、本を読んでいたらいつの間にか夢の世界へ。夢の中はいい。どこへでも出かけられる。さて、どこか遠くへ旅行したようだったが―。
 
   12月20(火)

いばぶんの引っ越し準備に追われ「今日は何の日」。またまた「今日も疲れた日」。10個ぐらいの段ボール箱を2階から1階まで下ろすだけでゼイゼイと激しい息づかい。若かりしころは「単純生産性労働」に自信をもち喜びに浸っていたものだが老いぼれにはかなわない。

一段落して疲れをとり、23日に向けての英気を養うため土浦市営ながみね温泉へ。この湯には温泉効用ノガキなし。昔、まちのあちらこちらにあった銭湯と同じ。ただ、浴場が広くてお値段が安い。風呂上がりにたっぷりとヘルスサイクロン。明日への活力がどれほど快復され充填されたかは不明。

ここ数日、ばたばたして金魚ちゃんのエサやりを忘れていた。どうしたものかと水槽を覗くとじーっとして生きている。「オイラの仕事はイノチが燃焼するまでひたすら心(しん)の臓(ぞう)を働かせること」。すばらしい。さすがにぼーっ家の同居者なり。お互い、ガンバロー。
 
   12月19(月)

「今日はなんの日」と聞かれたら「疲れた日」。メゾンド純の契約を終える。荷物を少々運ぶ。昨日に続いて「石岡浪漫」ならぬ「石岡苦難」は続く。メゾンド純の2階までの階段は16段。それをなんどか往復して終了。外階段から筑波山が望めるが疲れ眼には霞んで見える。

一つひとつ解決というより行動しなければならないことが多くてくるくる目が回っている。あれやこれやとやることだけに頭の中を駆け巡るがからだが反応しない。何度も「スイッチオン」。きっと、これが最後の引っ越し作業だ。楽しもう。

夕方、かあちゃんリックを背負って出張介護へ。その姿はどこから見ても家出バアサンスタイル。これも人生のひとコマ。喜んでいいのか悲しんでいいのか迷う。疲れたオジサンは寝るのだ。バイバイ、お休みなさい。
 
   12月18(日)

いばぶんの新事務所は石岡のメゾンド純に決まった。明日、本契約を結ぶ.。どうせ石岡に行くなら少しでも荷物を運ぼう。2階から「石岡浪漫」を1階の玄関先まで運ぶ。階段がきつい。ゼイゼイハアハアと息が激しくなる。数回上り下りしてはひと休み。こうなると「石岡浪漫」ならぬ「石岡苦難」。ブツブツ呟いて車のトランクに積み込む。

午後は「やよい丸資料館」に展示する写真のパネル入れ作業に没頭。なにしろ100枚近く展示する。やよい丸資料館は定期船を陸に上げて住居に改造。もちろん、写真や絵を飾る造りにはなっていない。どう展示するのか見当もつかない。現場に行き、気分で気分でと考えている。いい加減なものだ。

ところで、「家なきジイバア」の次の住まいは空き待ち。いつ通知がくるかわからないが、それまでに荷物の整理をしておかなければ。終了するまで病気などしているヒマはない。ガンバレ、ジャイアンツだ!!。
 
   12月17(土)

朝、起きる。あたりまえのことのようだが、年寄りにはなかなか辛いものがある。辛いという表現には困難の意味もこめられている。その困難さは万華鏡を覗くような明るさや希望もない。不可解、不信、不明というか解読困難なり、ただ暗い。これを認めている本人も困難という言葉をよく理解していない。

時間は流れる。困難の壁にぶちあたって身もだえしている老人にも平等に流れる。そこで、今日はなにを食べどんな行動をとりどんなことを考え時計の針に身をまかせていたのか―、それさえも不明なり。

絶対音感を持ち合わせた音楽家はマレにいるそうだ。日常生活の中で発するおという音を五線譜に置きかえる。これでは息がつまってしまう。彼ら彼女らは逆に音楽を心から楽しんで聴けないという。ああ。かわいそう。オイラはまったくの音痴。これも、やたらとカラオケが普及したせいか辛いこともある。報告として、今日も生きてみました。バイバイです。
 
   12月16(金)

つい最近、山王姫と南岳先生のお宅にお邪魔したとき「わたしにとって今年を一文字で表すとしたらなんの文字だろう?」と山王姫が話題にした。おいらは茶々を入れて「門柱」「いや、柱だ」。早速、南岳先生は墨を擦り筆をすべらせ色紙に揮毫してくれた。そこで、「柱」について浅からず深くもなく考える。

広辞苑によれば①直立して上の荷重を支える材。②(比喩的に)たよりになる人。根幹となるもの。また、神・霊または高貴の人を数えるのに用いる語、とある。簡単に解釈すれば、なにごとにおいても中心にある。重要な位置づけにあるだけに強く逞しく、しかもぶれないことが求められる。それがニンゲン社会なるものに可能であり存在するのかー、と考える。結論は、頭のなかがごちゃごちゃになりわかりませんということです。

そこで、かみさまほとけさまと金魚ちゃんに助けを求める。「バーカ、そんなことを考えるのはボウフラ、カラッポ、ノータリンというものだ。さっさと寝ろ」、はいわかりました。バイバイでーす。
 
   12月15(木)

今日も山王姫のお世話になる。びんぼう財団のふところぐあいを知る山王姫、新事務は通常の半分以下の家賃で折り合いをつけてくれる。さらに、おいらが泊まったら寒さにふるえないようにと、布団やマットレスの運搬まで手伝ってくれる。ひとつだけ救われる。その中に紙おしめが含まれていなかったこと。優しさは、さらにさらに続く。昼食までごちそうになる。この恩返しはいつできるのやら―。

市営住宅の申し込み完了。窓口に向かう直前、かあちゃんと二人で「よし、突撃だ!」とコブシを突き上げ気合いをいれ臨む。いろいろな質疑応答があり受理される。高齢者ふたり青いビニールシートにくるまり過ごす年越しは辛い。よろしく、よろしくとふたり低頭。担当者、反応ゼロなり。

青いビニールシートでおもいだした。インドは家族で路上生活。日本は単身赴任。どちらも同じニンゲン。さて、おいらふたりはどうなるやら―。勝手にしろとういうものだ!!。
 
   12月14(水)

昨日は曇りのち晴れだったが、今日は曇りのち曇り。空はどんよりと重い雲がたれこめ時々冷たい小雨が降る。気圧が低いと気分がどんどん沈んでいく。そして、ただただぼーっの時間だけげゆるやかに流れ深いため息をつくだけ。ため息さえぼーっとしているようだ。

金魚ちゃんはこんな日はどうしているのか。水槽を覗くと四隅の一角でじーっとしている。いや、ぼーっとしている。時々、ため息をつくように尾ひれが揺れる。その動きには世のはかなさを憂いているようようだ。

世の中、なるようにしかならないのだ。そうやって今日まで生きてきたではないかと自分を奮い立たせる。読んでいる本が悪い。「水の透視画法」(辺見庸)。もう一週間もページをめくったり戻ったりしている。ひたすら明日が晴れてくれれば―。また、山王姫に無理なお願いをする。快く承知してくれる。感謝、感謝だ。
 
   12月13(火)

山王姫とご老公のお見舞いがてら「いばぶん」のその後について相談に行く。場所は、水戸済生総合病院。空は晴れているがどこか気が重い。この重さをどこからくるものかと考える。水替えが迫っている金魚ちゃんの水槽に溜まったゴミ屑のようなものだ。

山王姫はうまく話題づくりをし、時には励ましジェスチャーを交え応対してくれる。頼もしく心強い。おいらはパクパク金魚ちゃんのよう精一杯に合いずちをうつだけ。時間は流れお互いが承知したということで別れる。

ご老公承諾の新事務所となるアパートを下見。すこぶる快適なワンルーム。驚く、感激、感謝をボソボソと山王姫に伝える。希望につながる仕事ができたようでうれしくなる。今晩は枕をたかくしてイビキをかき、ヨダレをしっかりながし眠れそうだ。山王姫よありがとう。またピカピカお肌の山王姫と会える日を楽しみしているよ。おやすみなさい。
 
   12月12日(月)

くらいトンネルをぬけると
線路はふたてにわかれる

どちらに列車は向かうのか
だれも知りません
あかるい菜の花畑がひろがるのか
いまわしい曼珠沙華があらわれるのか

あなたはどちらを望んでいますか―
うすぼんやりの車窓に映しだされた
あなたにきいてみてください

きっと
いつかどこかで
線路はいっぽんになるはずです
 
   12月11日(日)

写真のプリントをする。インクがどんどんなくなる。純正インクの半分以下の価格でリサイクルインクは販売されているが、おいらは純正にこだわっている。現在はどうか知らないが初めて店頭に登場したころ廉価ということで買い求め使用したが何度もトラブルがあった。そのたび頭がカリカリして火が噴きだした。以来、きっぱりと純正に切り替えた。今度は価格でカリカリだ。

今日は、かあちゃんリックを背負い出張介護。とうちゃん大きなバッグを肩にかけ夜警の仕事。おじいさんは山へ芝刈り、おばあさんは川に洗濯へいきました。そんな童話があったことを思いだす。今や21世紀。桃太郎の時代ではないのだ。

大きなごみ袋2つ満杯。不要なものの整理を始める。生きたぶんゴミは増えるのかと考える。これまで何度引っ越しをしただろうか。指をおって数えるが途中でわからなくなりやめる。引っ越し貧乏というがまったくその通り。それをは百も承知しているとはいえなかなか辛いものがある。空はどこまでも青い。ただ、空っ風が冷たく貧しきものに非情だ。
 
   12月10日(土)

朝陽を見たくなった。早朝、暗いうちに家を出て霞ヶ浦に行く。港町のヨットハーバーではワカサギ釣りを楽しむ数人が暗闇にユラユラと揺れる。頭に夜光灯を点けているせいか青白い光が動く。湖面にはマンション群の灯りがこぼれる。どうやっても拾ろうことができない光。陽が昇り明るくなればあいさつもなく消える。実にサバサバして覚悟がいい。

朝陽が昇るのは午前7時近くになってから。鹿嶋方面から空が赤く染まりぐんぐんと―。これもなんのあいさつもない。あいさつなしの人間社会は寂しいが自然の営みはそれがごく普通のことのようだ。そういえば、東日本大震災もあいさつなしにやってきた。無礼者だ。

潮来マリーナの写真プリントに励む。いかに努力しても実際に仕事をするのはプリンター。速度は決まっている。「残り時間はあと何分」とうるさいぐらいのメッセージ。その隙間を拾うように本を読むがなんども中断され、結局、活字からはなにも得られずなり。それでよしだ。
 
   12月9日(金)

「つぎつぎと煙草やめた友どもがつぎつぎと病むなぜか知らねど」(桑原正紀)。タバコが悪いことは百も承知でいながら、やめられない人がわんさといる。それは、「好きなタバコまでやめて、大切に長もちさせるに値するほどの生命を自ら生きていない」からである。(池見酉次郎)。

前者は、あたりを見渡すとそんな人が増えたような気もする。後者は、余計なお世話。自らの生命に値があるというほどのうぬぼれは持ち合わせていません。

今日も暖かな一日だった。ひたすら潮来マリーナに車を走らせる。道路が空いているせいか高速道路並のスピード。おいらの車はとろとろでバッシングされ何度も追い抜かれる。そんなに急いで何処へ行くというのか。それとも車内で尿意をもようし「野分の厠」を探しているのか―。地上のツラはみーんなトイレだよ。人間だからといって気取ることはない本音の道を歩むべきだ。「そうです」と、わが家の金魚ちゃんがウインクして賛同してくれました。
 
   12月8日(木)

今朝のグランヴィアは寒かった。寒いのは苦手だが今冬も乗り越えなければならない。潮来マリーナと整復師会の仕事をがんばる。整復師は見通しがついたがマリーナの方は頭が混乱している。とにかく脳みその回転が鈍い。体力もモタモタしている。こまったものだ。

体調を整えるべくながみねへ行く。ここもクリスマスモード。職員がツリーの飾りつけの準備をやっている。いつも、明るいうちに行くのでどんなイルミネーションだかわからない。いつか、必ず写真を撮ってやろうと思うがなかなか果たせない。こういうささやかな希望も生きる目的かと考える。

「写真の力」ニューズウィーク日本版を見る。世界は広い。そして不幸なことがあまりにも多すぎる。「もう見るのはいやだ」と言いながら、最後までページを送る。写真集だから読む手間がないから早い。しかし、ドーンドーンど見たくない知りたくもない映像が次々と飛び込んでくる迫力はすざましい。もういいよと本を閉じる。お休みなさい。
 
   12月7日(水)

「家なき子」ならぬ「家なきジジババ」ということを考える。「風にふかれて」ということを考える。「地球のツラの皮」に興味はなく、その上に家を建てて住もうという気がサラサラなかった。それが、ここへ来て雲行き怪しくなった。老いてからの部屋探しさや引っ越しを考えるとやや気が重くなる。しかし、現実を受けとめなければならない。

これまでなんとかやってきた。なんとかなるさと開き直るしかない。「風にふかれて」という生き方のツケがきたような気がする。それでも精一杯生きてきたつもり。それが大間違いだったのだろうか―。

「続・心療内科」(池見酉次郎著)を読む。サブタイトルは「人間回復をめざす医学」とある。さて、みとも家の「ニンゲン回復」はなるか。楽しみだ。
 
   12月6日(火)

山王姫とヨイショ、ヨイショと荷物運びに踏ん張る。下駄箱やら茶花やらふたりで力をあわせがんばる、ふんばる、がんばる。がんばれる体力があるだけでもいいことだ。疲れた顔をものとせず昼食。おいしかったです。ごちそうさまです。

さて、ここでぼーっオジンは考える。いろんこと。そのいろんなことが意味不明なり。山王姫が心配するように、おいらは痴ほう症に向けりっぱなヒトとなりつつあるのか―。辛い。

CROSSの元相棒こと相坊が突然、現れる。いろんなことを聞く。「ハイわかりました」でおわり。始まりがあれば必ず終わりがあるのだ。バイバイです。
 
   12月5日(月)

頭が痒い。頭が軽い。頭が薄い。空っぽ頭の上にはえてる髪が邪魔だ。どうもイライラする、そこで1000円散髪に駆け込む。旧約聖書では「白髪は栄の冠り」という。おいらは晩熟なりの白髪となならず、限りなく曖昧模糊まだら模様の豆腐なり。ハサミのチョキンチョキンが軽く感じる。きっと毛髪が細く少なくなってきたせいだろう。昔はパーマをかけたりしておしゃれをしたこともある。あの高揚した青春は戻らない。淋しいものだ。追っかけるな!!。バーカ。

さて、今日はどういう心のあんばいだったのかと自問する。答えは明解なり。暖かな日和でゆるやかぼーっで終わる。ただ、明日は、山王姫と未知の闘いに挑む約束をする。どうなることやら。

「下医は病いを治し、中医は人を治し、上医は国を治す」、ということで、二つの下医に行きました。さよならです。
 
  12 月4日(日)

料理人は食べてもらうために料理を作り会場に運ばれてくる。このチャンスを逃すバカはいない。例年の経験からテーブルのおいしそうなご馳走は瞬く間になくなる。意を決して一番乗りを目指す。ましてや、今日の昼食はぬいた。お腹は準備万端。ところが、シャンペン、白ワイン、ビールを立て続けに飲んだら気分がすぐれない。目の前にした料理に食欲がわかない。ああ、絶望なり。神林奨学会年末交流会のひとコマでした。

上野公園はすっかりクリスマスモード。桜並木には豪華なクリスマスツリーが点灯。ちょっとおいら近辺に飾られたツリーとはけた違い。この明るさでは目の不自由な人でもこまらないのではー。ああ無駄、ああ無駄、と年寄りは吠えながら荒川沖を目指したのです。

帰宅して真っ暗な玄関のドアを開け部屋の灯りをつける。どっと疲れ疲れのシャワー。しっかりオシッコしてすぐさま布団に入り眠るのです。バイバイ!!。
 
   12月3日(土)

「東京プリズン」を読了。書いた人は「赤坂真理」。「セキハンシンリ」ではない「アカサカマリ」。昔、「天地真理」という人気歌手を「テンチシンリ」と読み、新興宗教団体のよからなぬ広告塔かと警戒していた。さて、ここは正確に記そう。「東京プリズン」赤坂真理著(河出書房新書)。久々に純文学の時空間を越えたすごさを堪能。「コンビニ人間」なんか吹っ飛んでしまいそう。初版が2012年。4年遅れだが、熱心な読書家ではないからカンベンしてもらおう。

ところが、吹っ飛んでしまったはずのコンビニ利用がとみに増えた。「NANAKO」カードさえ持っている。財布はカードばかり増え現ナマは留守か家出している。もしかしたらあの世に逝ってしまったかとさえ思えるほどだ。

夜、上弦の月を見る。切れ味鋭い刃を宇宙に向け、 「真なりとはなにか―」を問うているよう。そしてひたすらの沈黙、受け売りの光であることさえ否定している。すごい!!。
 
   12月2日(金)

暖かい一日だった。暖かいのはうれしいがこういう日はやたらと眠くなる。眠くなったらいつでも目を閉じていい生活を送っている。そのせいかいとも簡単に別世界に入る。その世界は快楽の饗宴。それなら永遠に眠っていればいいと思うのだが目覚める。初めに天上あり、と思い切り欠伸をする。それも二度三度。それから、ゆるりと周囲を見渡し天下に目配りする。世界は順風満帆なりを確認。

いろいろなことを考える。蟻んこのウンチよりも小さく縫い針の穴より細くたわいないこと。M氏と昼食をともにしながらイロハニホヘトとの相談。仁義を切ること。ぬけがけが貧しき精神からのほころびなら―。引き算のできない加齢のようなもの―。希望はあるか―。考える―。よれよれオジン、ここに在り。

― 海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そし母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。― 詩集「測量船」三好達治(郷愁より)。

時々、詩人の言葉に涙腺がゆるみ水っ洟を流す。
 
  12月1日(木)

今日から師走。今年は幸せな年でしたと締めくくればと願う。金魚ちゃんにもその旨を伝える。月替わりカレンダーも日替わりカレンダーも不要。時間は永遠でイノチは輪廻するものなり。12月になったからといって慌てることは凡人のひと言に尽きる。達観した金魚ちゃんはただハラが空いたのか口をパクパクさせてエサを求めている。

朝9時ごろ山王姫から電話あり。すったもんだしていた川又先生の色紙のお願いは無事に完了。あとは気分がのっていつ筆をとってくれるか。芸術家は気まぐれ我がままなところがあるから気を長くして待つしかない。

ブログメイン写真を撮りに赤塚公園へ。「相棒(夫)のトイレが長いねー」。ベンチに一緒に座っていたおばあちゃんが「心配だから見に行ってみよう」と立ち上がりスタコラスタコラ公衆トイレへ。そうだ、「醤油を買いに行ってくるからー」と言い残し夕方出かけた妻が永遠に帰ってこないという事例もある。ぼーつと見ていたら二人は一緒にトイレから出てきた。まさか、仲良しこよしのお手てつないでー、ではなかった。世の中、微笑ましい。世の中、こうでなければ―。バンザイなり。
 

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