怠惰な散歩  2016年

   9月30日(金)

どういうわけか、山王台の「クラブ純子」でブログを書く。暇といえばひま、寂しいといえばくちびる寂しくだ。元気な声を聞きたくなって山王姫に会いに行く。このごろ、マイナス思考ばかり。青空に響く明るい姫の声を聞きたくやってきたのだ。もう一つの目的は、勝手口に毎晩現れるというタヌちゃんのお顔拝見。

これが現れないのだ。ウイスキーを飲みながら出現を待つ。待つ、待つー。それでも現れず。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」徳川家康。「泣かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」豊臣秀吉。「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」織田信長。

そこで、家康にならい「来るまで待とうタヌちゃん」ということになる。マダム山王姫によれば好物のパンを用意すると近寄りスキンシップまでするという。それなのに、怪しげなオジンがいるのを察知したのかタヌちゃんご登場を拒む。残念、無念なり。いつかのご対面を期待する。庭から木犀のいい香り。匂いの名主を山王姫から教わる。追加の話題としてマツタケごはんも出てくる。秋、秋、静かな秋なり。

すると突然、タヌ公現れる。うれしい、一枚パチリなり。
 
   9月29日(木)

今日がなんがつで
今日がなんにちで
今日がなんようびで

明日がわらいころげるたのしき日か
明日があらぬふこうになみだ流す日か
明日のつまびらかなことは知るよしもなく
さりとてて
明日への道しるべさえ求めず―
(以下、略)

そんなこんなで今日もおわりました。
バイバイでぇーす。サヨナラ。
 
   9月28日(水)

雨や 雪や 霰や
そんなものばかり毎日のように降る国にきて
泥土に汚れる白い靴下を毎日洗って
青空が
青空が と思っている中に
段々他の事は忘れて 願わなくなって
ふと 昔はものを…
そんな句も浮かぶと
昔はものを…昔はものを…と
意味もなく繰り返し 呟き 腸の中で
ああ
雨や 雪や 霰や
そんなものばかりが毎日のように降る国に来て
泥土に汚れる白い靴下を毎日洗って
―「昔はものを」宮野尾文平「遺稿詩集」(現代教養文庫『わが1945年』所収)
 
   9月27日(火)

「かあちゃん、世界は平和か?」
ぽかんとしてる。そして忙しくクビを上下左右に動かす。

「かあちゃん、世界の平和には方程式はあるのか?」
おぼん持ったまま足を屈伸する。

「かあちゃん、幸せはどんな計量の値で計ればいいのだ?」
こよなく愛した五玉そろばんを手にチャカチャカふる。

幸せ度に線引きはない。
チャカチャカ音色に
無限を思う。
したたかという無限ではない。
あるとすれば、ゆるやかな怠惰ということだ。
 
  9月26日(月)

半年ぶりにCROSSに行く。K氏から預かっていた写真パネル数枚が行方不明。いつ借用したのか3~5年前もわからない。何枚なのかも記憶にない。突然、そういうことを催促されてもこまる。確認のためCROSSへとなる。手繰り寄せても記憶は薄い。なにしろ、朝ご飯のおかずがなんだったのかさえぼんやりしている。

グランヴィラの朝食。ふりかけがあってみそ汁にやわらかめの白いごはんと野菜のおひたし。メーンは紅葉のような小さい焼き魚一切れ。さて、なんという魚か。サワラのような気がするがはっきりしない。こんな状況で数年前に預かった写真の記憶など曖昧模糊。そこで、すっきり諦める。

夕方、乙沼公園を散歩。遊具広場のベンチでタバコを吸っていたら大きな張り紙が目に入る。「禁煙」。児童の受動喫煙の防止策の推進ということだ。ここで鼻水が地面にたれる。鼻汁の流れをスムーズにする薬を服用してるせいかー。「鼻水禁止」の張り紙なし。鼻水、足でもみ消す。 それでいいのだ。バイバイ、お休みなさい。
 
  9月25日(日)

23日、久しぶりに潮来マリーナに行く。山王姫と一緒にブラリと寄ってから半年ぶりぐらいか。オーナーいわくウサギランド(小動物)造りの計画がある。コーナーを作り「北浦自然を守る会」の活動記録を展示したいという。いろいろなことがある。手伝うことを約束する。

今宵は山王姫から、T氏夫妻の長男の結婚式に遠い親戚のオジサンとして近くの親戚のオバサン(山王姫)と一緒に出席してほしい。そして、パチリパチリとやってという話。T氏夫妻とはまったくの縁戚関係なし。まだまだ遠い来年4月の話なれど遠い親戚のオジサンとして了解する。いろいろなことがある。

いろいろなことがある。心配はするがまったく連絡がない人もいる。どうなっているのかやら。バカバカしくなって「見ざる聞かざる言わざる」と決める。いろいろなことがあるものだ。
 
   9月22日(木)

今日は秋彼岸。赤い曼珠沙華が秋ならぬこの世の春とばかりに咲きみだれる。どのような因縁があって墓地周辺をねぐらとするようになったのか知らないが、御影石の墓碑に映る曼珠沙華がなんとなく似合う.。

映画「シン・ゴジラ」を見る。現場の臨場感も味わえるという仕掛けが用意されている。シーンに合わせて椅子が上下左右に動き霧や風も吹いてくる。もちろん、ゴジラの雄たけびの音響も大迫力。バーチャル世界もここまで進化したのかと驚かされる。さて、映画は実にさまざまことを考えさせられる内容。大いに満足する。「後妻業の女」も見たがそれとは違った意味で傑作だ。日本映画ガンバレ!!

雨の祝日となったせいかチケット売り場には長蛇の列。ここ数年、数十年とすっかり目にすることなかった混雑ぶりに驚く。シネマは大画面で映画館でお金を払って見るのが監督や俳優など映画製作者に対する礼儀と考える。しかし、おまけ付き映画で割り増し料金となりシニア割引でも、2100円はやはりきつかった。
 
   9月21日(水)

キャンドルで高見順詩集「死の淵より」をただで読む。この本は本棚にしっかりとあったが今は見当たらない。釣り針にひっかかった小魚を手繰るように記憶系の神経をぐるぐるかき回してみると、どうやら新宿駅南口の古本屋で買い求めたような気がする。そして読んだはずだが内容はすっかり忘れている。

このごろようやく気張らずに写真を撮れそうな気がしてきた。書き物もそういうふうになれないものかと考えていたら自由詩ならと思いつく。茨城に越してきて「詩のひろば」の会員になり数年は拙い詩を発表していた。その同人誌も自然解散になった。それから詩作からすっかり遠のいていた。

ここで奮起。老いらく詩人を目指そう。詩人は外国語の一つや二つはできなければと聞いたことがあれるが、そんなことはどうでもいい。山形弁なら知ってるぞ。金魚ちゃんに決意を表明。「ご勝手にどうぞ。何をやっても中途半端なんだからどこまで信じていいのやら。ましてや詩人などとほざけるだけの能力があるのか。バーカ」。ごもっともです。
 
   9月20日(火)

筋力が衰え浮いたシワを数える多さに眼がくらみ卒倒しそう。それが年寄りのお肌における勲章というのか。やはり、パチパチギャルのピチピチ肌とツヤツヤ輝きには魅力がはらいっぱい。しかし、きみたちは聞くべきだ。願わくばということを知らずとあればだろうが、間違いなくやってくる小波大波が自らの肌に忍び寄りさざ波という中間波はないのだ。

よーく考えるとブログの内容は楽しくハッピーが似合っている。知ったかぶりの評論は何とも見苦しい。そこで、また深く考える。新聞は行間を読み男女は股間に問いかけるべきではないかー。

昼、山王台の姫から電話あり。元気そうな声。SOSがあったら私設緊急応援隊と駆けつけるから連絡をと勇ましい宣言。これが怪しい。でも、少しは信じてほしい。
 
   9月19日(月)

敬老の日サービスでながみねは、本日無料なり。年寄りを敬うということだが、年寄りが多くなりすぎてお祝いをしてくれる若者の姿はみられない。メダカよ何処へ行った。

午後、そうだ、傘をさして散歩に行こう。荒川沖界隈に住む住人にとっていつもハレとは限らないはずだ。それならしみったれ雨が気まぐれに降る町内を見まわしてみよう。ところが人っ子見当たらない。ニンゲンどもはどこへ雲隠れしたのか―。

マンホールをのぞく。限りない平和の声。立ち小便はうんざり。清らかな雨だれほどありがたいものはないよと地中から聞こえる。すみません。だれに謝っていいのかわからない。とにかく、サヨナラです。
 
   9月18日(日)

「唐牛健太郎伝」を読み彼の生きざまにしばし感慨にふける。南の最果てから北の果てまで流れ、流れ生きガンで死んだ。職業の遍歴には枚挙にいとまないようだ。そんな破天荒な彼についていったカミさんに驚く。全身からあふれる男の魅力のようなものがそうさせたのだろうか。そうだとしたらうらやましい限りだ。

彼から比べたらおいらは小者もいいところだ。世の中には肩書や名誉や財産に固執することもなく堂々と一所懸命に生きている人がたくさんいる。決しておごらず、ひたすらの生を全うする。言うのはたやすいがこれがなかなか難しい。

ぼーっとしながら本を読んだりごはんを食べたり居眠りしたしながら夕方を迎える。そして、ぼーっとしながらグランヴィアへ。これもひたすらの生を全うするための道程というものか―。
 
   9月17日(土)

庭の草とりをやる。今日どれだけの生きものを殺したのだろうか。だんごろむし、ミミズ、アリンコ、名もわからぬ毛虫に幼虫。そこで気づく。蚊の出現である。これは地上に棲む生き物が殺されているのを察知して空から攻撃して阻もうとしているのではないか。そのために必死になって生気を失ってうまくもない年よりの血を吸い威嚇、防衛しているのではないか。それだとしたらすごいことだ。

「唐牛伝」(佐野眞一)を読了。すざましい生きざまをして47歳で死んだ男の話。ある人のゴーストライターやっていたとき唐牛健太郎が話題になった。大学教授時代、留学先の中国で唐牛の死を知ったという。唐牛がが母子家庭で庶子。山口組の客分、船乗りになった経緯などを聞いた。70年代の東大闘争でヘリコプターに乗り空から籠城学生に食料を差し入れると吠えた話など―。「私の交遊録」という某新聞の企画だった。老いるとは、思い出の中に生きるというが懐かしく読む。

外で飼っている金魚ちゃんの水替えをやる。こいつらの頭の中に何に思い出というセンチメンタルな回路はあるのだろうか―。しみじみとツラを見る。
 
   9月16日(金)

ブックオフで古本を売る。10冊で100円也。おいらの本棚をざっと見渡すと2000冊ぐらいある。全部売れたとして2万円ぐらい。そんなものだろう。

所用があり奥井薬局へ。ひょんなことから新米をいただく。さっそく精米。ごはん好きのかあちゃんは笑顔でご飯をたく。食べる、食べる。新米のごはんはおいしい。おいらはすでに古米だが新米を食べられる喜びをかみしめる。

さて、本日の株式の動きならぬ金魚ちゃん動きと出来高はいかがなるものか。枯れ葉のような言葉でなく骨身にしみるような言葉で考え行動せよ!!。あたりまえのことだが、かしこみかしこみとありがたく拝聴。

さては、と問う。水槽から水しぶきをあげてエサを催促するアナタさまにとっての骨の髄から訴える言葉の重みとは―。しばし、沈黙の世界。それでいいのだ。みなさまバイバイ!!
 
   9月15日(木)

こんもり山の雑木林に激しい雨。夏日の無差別攻撃にダウンしそうだった葉っぱどもは、息を吹き返したように風雨に打たれ枝にしがみつく。緑がくすみはじめ紅葉色も見える。気のはやい葉っぱは気だるそうにチラチラ舞う。グランヴィアの朝、玄関前のベンチに座りそんな景色を眺めながら、ぼーっとこの世あの世のことなど考えてみる。

60年安保で一躍脚光を浴びた全学連委員長の唐牛健太郎はバタ臭く人間味のあふれた男だったのでは―。芸者の庶子として生まれた運命にやるせなさを抱え死ぬまで生を彷徨っていたのでは―。それにしても、カメラに向けた母親と二人の笑顔がこぼれるスナップ写真は涙が誘うほどだ。どんな傑作写真よりも家族全員がそろった平凡な記念写真一枚にかなうわけがない。一枚の写真からいろいろなことが想起される。幸せという時間は瞬きとともに過去に消えるのだ。

あの世とこの世を行ったり来たりはできない。これは金持老人も貧乏老人にも共通している。それにしても不平等ながこの世では多すぎるのではないか―。だからといってあの世ではどうかを知ることもできない。こまったものだ。
 
   9月14日(水)

メニューをわたされ胃袋と値段。さてどちらと相談するか?。こんな問いの答は決まっている。財布の中身なりと勘定に軍配があがる。これが、わが人生なり。

朝4時に起きて散歩。外は真っ暗だというのに人影がチラチラ。こんな早い時間から散歩かと驚く。わざわざ記すこともないが年寄りばかりだ。かくもこれほど早起きして歩かなけばならないのか―。きっと健康で長生きしたいという欲のかたまりがそうさせるのだろう。

さんざん迷ったすえにPoketWifiを購入。これがおいらの生活にどのように反映されるのか。グランヴィアの宿直室にはラジオもテレビもない。もちろん酒などない。夕方5時30分に検食をすると後は沈黙の世界。就寝までの時間はたっぷりある。そこで、ひたすら読書。さながらグランヴィア読書ルームとなる。それだけでは寂しい。そこで音楽でも―。パソコンでも音楽は聴ける。さて、その後の物語はいかに展開するかはわからない。
 
   9月13日(火)

朝から激しい雨。こういう日は気分が沈む。どこに沈んでいくのかわからない。宛先不明で切手もはられていない郵便物のようだ。いったいどこに落ちつくのだろうか。さっぱりわからない。このように落ち込んだ時はひたすらぼーっとして時間をやり過ごすしかない。

加齢による白内障というりっぱに診断された目の定期検査に行く。ここも高齢者の集会場という雰囲気。みんな耳が遠いから大声で話す。そして、テレビのボリュムも震度5クラス。にぎやかで元気なお年寄りたちと喜んでいいのかわからない。おいらはまぎれもない同世代のひとり。これには逃げる術がない。

午後の晴れ間をみつけて散歩。ふさぎこんだ気分解消には歩くしかない。歩く、歩け歩け。下校中の小学生に出会う。ああ、こんな時代もあったのだ。くたびれおじんは、なにやらブツブツ呟きながら歩き続けるのでした。
 
   9月12日(月)

グランヴィアの朝、5時にめざめる。外に出ると雑木林からうるさいスズムシの鳴き声。とりあえず深呼吸をして両腕を上下左右に動かしからだをクッシング。金魚ちゃんにもおとるかったるい動き。本人はそれでもイノチガケ。見苦しい体操に目もくれずそよそよと朝の冷気をたっぷりふくんだ秋風吹く。

無差別攻撃のスズムシの鳴き声にウンザリ。なんでもホドホドというものがあるのだよと教えてやりたい。簡単にいえば滅び消え無になることの美しさを―。無理だよ!!。

末木文美士の「日本の思想をよむ」を読む。さて、みなさまがたは最終的に何がほしいのか。おいらは、母ちゃんの汚れを知らないそよ風に洗われた木綿の白いパンツ。さっぱりとして気持ちよさそう。それでは、バイバイでーす。
 
   9月11日(日)

人生は9勝6敗ぐらいがちょうどいいというようなことを何かで目にした。そういうことならブログもそれぐらいの余裕があってもいいのでは―。しかし、今日から始まった大相撲秋場所の稀勢の里はそうはいかない。理想とするなら全勝優勝して横綱昇進だ。ところが、ひょっこり初日から黒星。実に度胸が座っている。

ゴルフ場にはこれまで数度しか足を運んだことがない。それも写真を撮るという仕事上でやむえない事情があった。今日もそういうことでカメラを持って出かけパチリパチリ。整備されたグリーンは実に美しい。さて、芝生は自分が美しいと知っているのだろうか。なぜ美しくなければならないのか知っているのだろうか。マネーがからんでいるためよく手入れされていることを知っているのだろうか。こまったものだ。

栃木の氏家ミュージアムから連絡がある。全部おまかせだがどうなることやら。ただ、ショットさんい会ってインド事情を詳しく聞いてみたい。これもどうなることやら。
 
   9月8日(木)

「月蟲」を読む。本棚に鎮座する中原中也全集にチラリと目線を送る。背表紙が照れわらい。「汚れちまった悲しみにー」。なんとなく不気味だ。世の中は不思議と不気味だらけ。グランヴィア勤務終えの今朝。「ヤモリがガリガリと眠れなかった」「家族が増えたと思えばいいよ」チンプンカンの会話。

今日の天気は複雑で駄々っ子のよう。インド・コルカタ市街でこのようなドシャブリに遭遇したことがある。軒下で雨の止むのをしばらく待っていると数分もしないうちにオトボケガオの青空。ほっとする間もなく道路はドブ川に変身。世界万博開催とばかりにゴミが濁流となり目の前を走る。公衆衛生がどうだこうだと大騒ぎする進歩的ニッポンパパママよ、目の前ではニンゲンエゴの汚物が集団で流れているのだよ!!。

日本は道路の水たまりの水はそのまま腹ばいになって飲めそうだがコルカタではそうはいかない。唖然、茫然、絶望が濁流のように脳天をからまる。そうだ、これが貧しい国インドだ。それでも、ひとは今日より明日を生きようとしているのだ!!。5年前のこと。ニンゲン乾杯だよ!!。
 
   9月7日(水)

朝からからだは何かに締めつけられているように重い。犯人探しをしてみるが浮かんでこない。金魚ちゃんに訊く。おなかが空いたのか早くエサをくれと激しく水槽を泳ぎまわる。もちろん、重たさの原因など教えてくれるわけがない。

耳鼻咽喉科に行く。からだの重たさの治療ではない。鼻の病気だ。昔から蓄膿症といわれていたが放っておいた。昨年、CTスキャンであらためて医師から指摘された。それから通院が始まったが恢復の兆しはみえない。診療室を見ると同じような症状でのご同輩ばかり。こまったものだ。

午後、山王姫が指導する茶会のパチリパチリに行く。何回も撮っているからマンネリ化した。いつも新鮮なものをと心がけているが新鮮さを失いつつあるオジンのこと、これといったひらめきもなく終了。今日はグランヴィアのお泊りさん。時間を気にしながら帰る。山王姫から電話あり。忘れ物があるという。どうせそんなこと。ああ、人生は忘却とのかけっこなり。
 
   9月6日(火)

朝4時に目がさめる。重ね着ならぬここで重ね寝をしてもいいがと迷う。どうも時間の感覚があやふやぼんやりふわふわ。面倒だ起きよう。外はまだ真っ暗で世間さまはぐっすりタイム。どんな夢を見ているのやら。日の出のように明るい未来がひらけるものか―。それとも黄昏から絶望の谷底の突き落とされそうな夕暮れか―。

そうだ、日の出を見にゆこう。夜空を見上げるといいあんばいに雲が流れている。これなら美しい朝焼けを見られるかもしれない。そういうことで霞ヶ浦までクルマを走らせる。ドアウインドーから吹き込む風は爽やかだ。これは秋風かー。ぼーっぼーっ風か―。どうもオタンコナスオタンコナスと聞こえてしょうがない。

霞ヶ浦港に着くともう魚釣りをしているひとがいるではないか。彼らも眠れなくてよっこらしょ釣り竿を手にやってきたのか―。岸壁に座り込み東の方角に視線をあわせる。遠視のせいかぼんやりとしているが赤みがかり、その色はだんだと濃くなっていく。きれいだ。こんな美しい朝焼けを見ることなく口を半開きにして眠っている人はかわいそう。「バーカ、十人十色だよ!!」。金魚ちゃんの声が波間からきこえる。バイバイでーす。
 
   9月5日(月)

グランヴィアから見える朝日の写真を撮りたいと出勤の日はいつも思っていた。ぐっと胸をときめかせるような朝日を見たときはカメラはない。いざ張り切ってカメラを持って日の出を待っているとあいにくの天気とずーっと空振りしていた。今朝はようやくご対面となり期待していたが想像していたような絵がらにはならなかった。それでもパチリパチリ。

茨城特産のナシとブドウを買いにつくばのどきどきファームに行く。奈良の姪っ子とおおたかの森に住む姪っ子夫婦に送るのだという。日本古来から贈り物文化というのはある。それは社会の変化にともない形を変え今もりっぱに存在している。「小さな親切、大きなお世話」の場合もあるだろうが受け取る方はどんなものでも有難いものだ。

山王姫から、記者会見をひらいた「石岡浪漫」の記事が茨城新聞に載ったという電話。これを機会に売れてくれればと願う。販路が石岡市内に限られているだけに難しい面もあるが、少しずつでも経費を回収しなければならない。そうしないとこまるのだ。不安の胸の内を金魚ちゃんに打ち明ける。金魚ちゃん知らんぷり。それでいいのだ。
 
   9月4日(日)

「荒川沖東三丁目のみなさん、本日は歩け歩け大会と防災訓練でぇーす。ふるって参加してくださーい!!」というわけで、荒川沖小学校の裏手にある会場へ。前期・後期高齢者に混じり子どもとその親など50数人。こんなに町内に人が住んでいるのか。いつもは死んだように静かな町内から想像もできないだけに驚く。

2キロほどの道のりをペチャクチャ喋りながらウサギより遅くカメより早いスピードで歩く。空には薄い雲が流れ「カンカン照りでなくてよかった」という声がオジンオバンのあいだから洩れてくるが、ガキどもはかけっこしたりと元気だ。

さて、消火器などを使った防災訓練もおわりお楽しみの昼食となる。定番のヤキソバとトン汁。町内には料理好きの男性二人がいる。腕前も確かでいつも頼りにされ味も裏切らない。さらに取手のキリンビールに勤めている町内役員が生ビールサービス。このビールが実にうまい。久しぶりに本物の生ビールを味わう。ハッピーなひとときを過ごしました。
 
   9月3日(土)

弱気になること。めげること。逃げ場を失うこと。そんなことは生きていれば頻繁に身にふりかかることだが、実際にそういう立場に置かれればヒトは弱いものだ。それでけにヒトには優しさという宝物を授かっているのかもしれない。

水戸のご老公と城里町のI氏宅へ。民俗学会のバックナンバーの在庫をどうするかー。20数年分が山のように倉庫に積まれている。さて、どうするか―。20数年手つかずだったということは今後20年も同じ状態だろうということで廃棄処分することに決める。それぞれの号に思い出はあるだろうが、ここは決断と実行ということだ。

城里町の田んぼも黄金色に輝きだした。稲穂はエライ。きっぱりと刈りとられる運命にありながらもこうして生きているのだから。しばし感動しながらハンドルを握る。残暑厳しきころだが、それなりに地に足をつけて生きなければと―。そういうことで、廃棄教室ならぬは俳句教室に通うかと三中地区公民館で入会方法を尋ねる。これも三日坊主に終わらなければー。
 
   9月2日(金)

今日はおいらの68回目の誕生日。この晴れがましくどうでもいいお目でたい日と知っているのは本人とかあちゃんだけ。ウスウス知っているのは営利目的の輩。これは機械的に抽出してダイレクトメールなどを送りつけてくる。言葉にぬくみがない。それはそれで結構ですとクシャミをする。

「ひとびとの精神史」栗原彬編(岩波書店)を読む。重く辛い。そして、いかにのほほんと自分が今日まで生きてきたかをふり返ると愕然。これも、しかりの人生というべきか―。

「中心構造を持たないインターネットの広がり」。ぎくりとする。台風の目というが、その目に中心がないネット世界というのは、人びとが営む社会生活にとって必ずしも必要なのだろうか―。いや、もはや世界中の人々は知らず知らずのうちに虜とされている。.恐ろしい世の中だ。こうして、誕生日は終わるのでした。
 
  9月1日(木)

今日から9月。だからといって天地が逆さまになるような事件は起きなかった。しいてあげれば、外のベランダで飼っている金魚ちゃんが1匹昇天したこと。昨日の夕方、グランヴィアへでかけるまえ。それはそれは優しくやさしく声をかけてエサをやったときは2匹とも元気な姿を見せていた。今朝、金魚鉢を見たら水面に赤いものが浮遊している。これを大事件というのだろうか―。

さあ、どんどん雑多な物を捨てよう!!。かけ声はいいがなかなか前に進まない。荷物を減らして身軽になりたいと整理していれば、水戸のご老公から本を預かったりと、どうなっているのやら。それでも、少しずつ処分をしている。明日はごみ収集日、力が入る。ついでに炎天下の中、庭の草取りもやる。

金魚ちゃんを5匹補充。1匹28円なり。売り子の梱包作業を見ていたら高価な金魚ちゃんとまったく同じ。そこには、イノチの重さを紡ぐという意思が入っている。差別がないことを知り大いに感動する。28円金魚ちゃん、頑張れ!!。
 

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