怠惰な散歩  2016年

   6月30日(木)

グランヴィラの玄関前に七夕が飾られた。飾りものや短冊が少ないせいか葉竹がスケスケで寂しそう。入居老人たちの枯れ枝のような、安物のハンガーような体を見ているようだ。ああ、ひと息いれ、深呼吸をする。大気は平等をモットーとし、すべての生きものに命を与えてくれる。大先輩たちは短冊に震える手で何を認めるのだろう。どんな思いをこめて筆を走らせるのだろうー。

短冊に願いをこめるとしたら、逝ったじいちゃんばあちゃんと天国での再会に胸をときめかせ筆を運ぶのだろうかー。天の川に隔てられた彦星と織姫とが7月7日の夜、年に1度だけ会うというロマンチックな場面は想像できない。予備群として辛くても受け入れなければならない。無念なり。

「日本と世界情勢」の勉強会に出席。2回ズルしてしまった。1回は法事で。2回目が思い出せない。こういう時に役立つのがブログ。山王姫宅で「石岡浪漫」の最終校正に夢中になり忘れてしまったのだ。さて本日は、「難民とイスラム化する欧州」。眠らずに最後まで聴講する。バンザイだ。
でも、おもしろくなかった。これまた、無念なり。
 
   6月28日(水)

「環世界」。はじめて耳にする言葉だ。すべての生物は、それぞれが異なった時間と空間を生きている。同じ一瞬でも、カタツムリと魚と人間は異なった環世界に生きているから、違った長さに感じられるという。

なるほどと頷くが、ごくあたりまえのことではないかー。外国の理論物理学者がいったそうだ。あたりまえの言葉でも山間のおばあちゃんが、畑仕事の合間にクワを休め、お日さまに何気なく「あたりまえのことだ」と呟いても、世界の隅々まで声は届かず気にもかけないだろうー。こまったものだ。

ネット時代の百花繚乱なり。自分の環世界の都合のいい情報ばかりを受け取りがち。もっともだ。わが家の金魚ちゃんを見ればいい。ハラが空くとさかんに口をパクパクさせエサを要求。満腹になればどんなやさ言葉をかけても知らんぷり。口をパクパクさせエサ恋しさに水槽に体当たり。あの瞬間こそ凝縮され、濃密な環社会にどっぷり浸かっていたのではないか。金魚ちゃん、よろしくね。
 
   6月28日(火)

朝から雨が降る。スズメが傘もささずに庭にエサをついばみにやってくる。スズメ一家は5匹。親鳥が子スズメにエサを口わたし。朝から、チューチューの熱いシーンを見せつけられる。どこの難民キャンプから飛び出してきたのかー。荒川沖東のまちかど交番の軒下からか?。ずぶ濡れの体をふるわせて水滴をはじき忙しげにくちばしを動かしている。雨は情け無用で降り続ける。

ブーメランのようにぼーっが周期的にやってくる。雨はやまない。「人間の考えだした生活方法は、おおかた上手に一生を通りすごすための”暇つぶし法”なのだ」と、詩人の金子光晴は書いている。暇つぶしに読書にふける。

奈良の姪っ子にメロンを送るというかあちゃんにつきあいつくば市のどきどきファームへ。財布のヒモはゆるめ中身としっかり相談。そのうえ、ドキドキしながら購入すること。しっかりコンセプトエレベーターに乗せられていることに気づく。みんな、頭がいいなあーと感心する。雨は降っている。
 
   6月27日(月)

グランヴィラの朝、ウグイスが鳴いている。時間は午前4時過ぎ。大空は子どもの瑞々しい肌のように青く広がり、竹ほうきでひとはきしたような茜色に染まった雲が一条たなびいている。なんて美しく爽やかな朝焼けなのだろう。

半開き口で浅い呼吸をしながら、目覚めの悪い夢でうなされ寝返りをうっているヒトたちに今すぐ起きて空を見ろと叫びたい。早起きして得するというのは絶叫マシーンに変身できることかもしれない。

さて、本日は山王姫宅でパソコン教室。教師がおいらというから大失笑。ど素人もいいところだが、山王姫より少しは上かなぁーというだけ。二人でシワシワの手を慰めあうようにあっちこっちへとあやとり。山王姫、めまいするほど頑張る。どうにか、アルバム「夏のおもいで -天心丸-」完成なり、バンザイ!!。追伸、朝漬けのおしんこがとてもおいしかったです。ごちそうさまでした。バイバイです。
 
   6月26日(日)

朝を歩く。荒川沖西周辺をペタンペタンとがに股で歩く。靴はジョイフルで900円で買った布製。いわゆるズック。この足底からくる感触は地下足袋とまったく同じ。ただ、親指と人差し指が分かれていないという点だけが違う。

日差しは強く、今日一日暑くなりそう。ビルマの釈迦堂仏照寺に着くと本堂から太った声明が聞こえてくる。朝のお勤めをしているのだろうかー。ハラから思い切り声を出すことは健康にもいいはずだ。そういえば、最近、狂ったように大声だ怒ったことも笑ったこともないなぁーと、沈黙の空を見上げる。

ソファーでうつらうつらしていたら卓上電話の呼び出し音。珍しいと受話器に耳をあてれば「中身のいっぱいつまったアキカンことアキタです」。これも声明と同じで野太い。「城下町土浦」のビデオを制作している。映像の中でおじいちゃんの絵はがきも挿入したいとのこと。その許可を求めてきた。断る理由などないから許諾の返事。金魚ちゃんに報告。何の感動も示さない。たまには歓喜の歌でも歌ってみろ!!。
 
   6月25日(土)

評論家の坪内祐三「考える人」を、何も考えない人が何も考えないで読む。このような読書の結果がどうなるかといえば、何となくページをめくっていたら、ぼーっと最終ページにたどり着いていたのだ。

― やはり大事なのは、毎日を同じ調子で暮らすことですね。第一そうしなければ、刻々の変化が楽しめない。繰り返しですよ。そうやって時間になじんでいく。なじむほど時間は親しいものになります― (吉田健一)。あたりまえのこと普通のこと。これが難しいのだ。

英国がEUと離婚.。これからお別れ条件の話し合いテーブルが設けられるそうだ。虚しく、悲しく徒労のような仕事。未来の道は若い人に譲ったほうがいい。離脱賛成は65歳以上59%という数字。おいらは誇り高き身辺人物を見渡す。
 
   6月24日(金)

枯れた泉から再び清水がわき出るのを期待するように、日長に本を読む。読んでは居眠りの繰り返し。どうして、こんなに眠いのかー。そして、飽きることもなく眠れるのかー。そうだ、疲れているのだ。毎日のぼーっ生活に疲労困憊しているのだ。寝顔は決して美しくないが、「たんと眠れ」と、金魚ちゃんの声まで聞こえる。

詩人の金子光晴の息子に招集令状がきた。息子は慢性気管支炎カタルを病んでいた。親は病気をながびかせ戦線に送らない方法を考えたー。肉親愛びいきということだけで済まされない。あたりまえのことだ。

夕方、雨が降る。雨音は仕事を始める。青空公園の桜の葉っぱに降る音。アスファルト道路に叩きつけられる音。縁側の庇に流れ落ちる音。楽譜のない曲づくりに忙しい。みんな、それぞれ置かれた場で仕事をしていることに感激。そして、おいらは雨音を聴きながらオネンネするのだ。バイバイ。
 
   6月23日(木)

グランヴィラの仕事を終え、山王姫と約束した「石岡浪漫」の最終、最終校正のため石岡に向かう。途中、ひょいとポケットを探ったらカギ束が出てくる。これはいかん。宿直用のマスターキーをぼーっとして持ち出してしまった。「シマッタ、シマッタ」。途中から引き返し所定の場所に戻す。そのため、予定していたより約1時間遅れて到着。

山王姫宅で、お互い豊かな皺を寄せ合い最終、最終校正に挑む。市役所の担当者とやりとりしながら、「これでよし」と納得して校了。晴れやかな顔を見合わせ満足度を封印。人は間違えようとおもい間違えるのではない。それでも間違うことはある。そこで考える。「この世に、絶対間違いではないと断言できると事柄は存在するのかー」。「これぞ、神が知るのみぞ!!」。

Y女史から沖縄から届いたばかりのパイナップルなど新鮮果物を頂戴する(写真)。有り難きこと、幸せこと。ブログネームは「飛羽姫」としよう。ごちそうさまです。
 
   6月22日(水)

朝9時に家を出て帰ったのがお昼ちかく。かかりつけ医院の窓口で診察券をもらう。待ち時間を聞くと2時間ぐらい。待合室の椅子には老老男女が独占して一つも空いていない。それなら、耳鼻咽喉科に行こう。受付に「用事を済ましてくる」と言い残してスタコラスタコラ歩く。

国道6号線を横断して医院へ。ここは空いている。数分もしないうちに診察が始まる。5月ごろから「副鼻腔」と診断され治療を受けていたが、「この年齢では完治は無理だろう」と自己判断。日常生活にこまることのほどでもなとバイバイした。それが、最近は鼻の奥に水たまりでもできたようでグズグズ。そこで、再び、先生の世話になる。

終わるとかかりつけ医院へ。待合室を見渡すと満席で立っている人さえいる。この混みようは何を意味するのかー。そうだ、ヒトは完全健康体でありたいのだ。そうすれば、ハッピーな日々が過ごせる。ああ、願いはひとつ。世界が健康であればいいのだ。神棚に手を合わせても効果がないことに嫌気がさし集っているのだ。神は何処へ行った!!。
 
   6月21日(火)

8対1。この数字は女8人に男1人という、男にとってはヨロヨロと弱い立場に置かれている。山王姫組と姫丸子組が合体して五浦の天心丸に食事に行こうという企画においらだけ男性として参加。天心五浦美術館で「富士山」の写真展も観賞。みんな、頑張っていることを知る。

天心丸では生ガキ、ウニと刺身の盛り合わせ、煮魚、あら煮の魚づくしをハラ一杯食べる。漁師料理というから、どの料理も図体がデカい。普段の昼食はざるそば1枚で済ましているというのにー。

天心丸船長の案内で自宅を拝見させてもらう。建築費は1億7000万円という豪邸。ため息、ため息の連続。しみじみ考える。これだけの家を建てるにはそれ相当の努力があったのだろう。その代償としての目を見張るようなデザインと最新設備が整ったゴージャスな邸宅。ぼーっとして生きてきたせいで我が家は借家。等身大の住まいとしては満足度100%の現在。「これでよし」と、ひとり頷く。
 
   6月20日(月)

牛久運動公園に行く。モンシロチョウ舞い、カラス鳴いてミミズにょろにょろと小道を這う。くたびれた肌にまとわりついた汗。そよ風吹いて一瞬の爽やかさをいただく。

今日も、無事に終わりそうだ。今は健在だが、今日という残された数時間先はどうなるかわからない。でも、きっとぼーっと呼吸をしているのだろう。「死を悼む動物たち」を読了。流れ落ちる滝を目の前にしたチンパンジーの行動を観察して、チンパンジーは霊的な体験をしているかもしれない―。まるで人間そっくりだという。野生の動物にも死を悼む心はあるのだろうか―。

子どものころ、飼っていた母猫が捨てられた子猫を探して声高に鳴いていた。それは、ノドの奥から絞りだすような悲しみのこもった声で家中に響き渡った。耳をふさいでじっとして鳴きやむの待っていた。目のあかない子猫を麻袋に入れて犬川橋の欄干から捨てたのは、ほかならないおいらだった。
 
  6月19日(日)

ひたち海浜公園にご老候の講演を聞きに行く。内容は「茨城の民話」について。お話し中にスマホの電話応対で中断したりとノンビリとしたもので民話の内容にマッチしたとても気軽なものだった。

「今日は仕事があるから」、終えるとすぐに一路帰宅。自宅のソファーに本を読みながらいつの間にか爆睡。整復師会の校正をやり校了メール。これで、金魚ちゃん一族、しばらくの生活の目途が立つ。

16日夜、東京のアートコンプレックスセンターで開かれた展覧会のオープニングセレモニーに出席。帰り、新宿歌舞伎町を歩きパチリパチリ。しこたま飲んだ白ワインが効いてフラフラ。しかも雨が降りしきる。カメラが濡れ体調不良を訴えたのに気づいたのは翌朝。また、お金がかかる。こまったものだとグランヴィラにクルマを走らせ仕事へ出かける。
 
   16月18日(土)

黄色いユリの花がお目覚めする。すくっとした立ち姿がいい。思い出す。数年前、山王姫からユリの花を鉢ごと貰った。常陸風土記のユリ祭り茶席の帰りだった。裏切りを知らないユリは年毎大きくなる。これといった応援もしていないというのにスクスクと天に向け花びらを広げる。秘めた生命の強靭さにぼーっはクビうなだれ、しばし、感慨にふける。「これが、普通、普通」という声が聞こえる。

わが屋の庭にスズメちゃんのエサ場を設ける。エサはコメヌカ。仕入れは簡単。自動精米機の「ご自由にヌカをお持ち帰りください」を忠実に励行。費用はかからない。しかし、スズメちゃんの礼儀作法は教育すべきかー。やたらと、食い散らす。

さて、今晩、山王姫としばし電話で話す。姫、元気なり。ご同輩、やはり夏の暑さは辛い。くれぐれも、身の丈にあったふるまいに徹しようではないか―。お休みなさい。
 
    6月15日(水)

グランヴィラの玄関前に広がる雑木林の緑が色濃くなった。ひとことでくくれない鮮やかな緑色の樹木が肩を寄せ合うように眼前にでんと座っている。

このブログは16日早朝、グランヴィラ玄関前のベンチで昨日のことを思い出しながら書いている。まぁ、朝からウソを発信しているといってもいい。おいらのウソなど世間にとってなんの害もおよばすこともない。ただ、公人となればそんなことは許されない。これは、ごくこく当たり前なこと。子どもの時からそういう教育を受けてきたはずだ。大人になるとこまった人間になってしまうのはどうしてなのだろう。

グーグル先生ではなく金魚ちゃんに訊いてみる。「それはね、毎日青空ばかりでは空だって寂しくなり白い雲を浮かべたりするでしょう。その白い雲が大人になるとどんどん黒くなって土砂降りの雨を降らしたりするんだよ」と、無着成恭先生のようにわかりやすく丁寧に答えてくれる。「ハイ、ワカリマセン」。
 
   6月14日(火)

「食っきんぐMisa」でホッピーを飲みながら書く。酒が入ると脳みその回転がナメラカスルスル。たとえいっときなものとしても気分はハイハイだ。この勢いなら天下を制覇できるのではー。バーカ!!。

夕方、東京からの帰りひたちの牛久駅から自宅まで歩く。ヤギ一家の田んぼの苗ちゃんは順調に育っているようだ。そこで、よーく考える。延びしろがあれば必ず延びびきがある。ドキリ、ドキリとしながらお寺と教会を見ながら帰宅。

さて、本日の我れの収穫はいかがなり。金魚ちゃんのしもべとなり、おすまいをきれいきれいにしたこと。庭に設けた愛のエサ場にスズメちゃんがやってきてうれしくぼーっと見とれていたこと。まったく、能天気。ハッピーな一日は終わりました。バイバイーです。
 
   6月13日(月)

勤務あけの朝は雨が降っていた。傘がない。これはこまる。昨日の出勤時には雨の匂いも音さえ沈黙していた。走る。息をきらしにながらクルマに乗り込む。きっと、農家の人たちは喜んでいっると思いながら帰宅。かあちゃん出張介護中。金魚ちゃんにグッドモーニング。エサを与えると体をくねらせ口をパクパク。かわいいものだ。

地球儀をまわしながら考える。地球はなぜ円い形で誕生したのか?三角でも四角でも良かったのではないか。地球は考えたのだ。四角ではカドがたちこまるだろう。円の方が人類はなにごともまあーるく収まる。それなのに、人類の争いは休むこと知らない。「ヤンコフキー家の人々」を読む。白系ロシア人で虎狩りの名人だったという親子3代記。まったくすごい人たちがいたものだ。

夕方、土浦駅周辺を出張徘徊。パチリパチリ。月曜日のせいか人出はパラパラ。ムクドリだけが騒々しく鳴いていた。西口をひとまわりして帰る。一体、何を考えているのだろう。わからない。
 
   6月12日(日)

常磐線下り、荒川沖駅6時9分発勝田行きで土浦へ行く。昔住んでいた蓮河原町の写真を撮るのだ。暑くならないうちにひとまわりして昔を振り返ってみたい。過ぎ去った時間は戻らないが、消えた時間の中を生きてきたのはまぎれないも事実。自己確認とでもいうべきだろうか。

東京から土浦に引っ越してきたのは昭和61年2月。仕事は地下足袋をはき手にはハッカー。知恵いらず頑健な肉体があればいいという鉄筋工。面接を受けた建設会社の社長室の書棚にサリンジャーの著作集がならんでいる。目を疑った。怒号が飛び交う荒々しい男たちで仕切られている業界の社長には似合わない。

1年もしないうちに、社長の会社は倒産。家族4人が夜逃げしたという。あれから31年が過ぎた。今、どうしているのだろう。そんなことに思い出しながら蓮河原を歩く。最初に住んだ平屋の借家周辺は高いフェンスに囲まれ屋敷は見えない。過ぎ去った時間の経過を噛みしめる。



 
   6月11日(土)

今日は、朝からよく晴れて暑い一日でした。初夏というより真夏を思わせるような光が地上に降り注いでいました。ミズスマシのように静かにひっそりと生きようと心がけていますが、雑草はじっとしていてくれません。日々成長していきます。そこで、庭の草取りと生垣のバリカンに精を出しました。2時間かけてそれなりにサッパリしたところでやめました。日差しがだんだんと強くなり体力的な限界を感じたからです。このザマでは山王姫の草取りの手伝いはどうなるのやらと思いました。

その後は、「典獄と934人の走れメロス」を読みながら過ごしました。むかしは「刑務所所長」を「典獄」といったそうです。地震と刑務所の囚人たちのことを少し考えました。そして、太宰治の「走れメロス」を思いだしました。壇一雄のエピソードから生まれた小説です。そんなこんなことがヒントになるものですね。

夕方、涼しくなってからトラ刈りの庭の草取りの仕上げをしました。台所裏手の狭いところを窮屈な姿勢でやったせいか体のフシブシがガタガタです。そういうことでバイバイです。
 
   6月10日(金)

お天気明朗なり。どこから青い絵の具をせしめてきたのか白い夏雲たなびく大空に限りなく澄みきった青空がニョキニョキと広がる。そこで、笠間市稲田の西念寺へ。大家さんから「親鸞」の本を出版するのでカット写真の依頼を受けていたからだ。寝ぼけ眼のかあちゃんをせき立て出発。エンヤラコラと気合いを入れてパチリパチリ。

帰りが重要なのだ。笠間市福原の常陸国出雲大社へ。樹木葬を考えるための現場視察。濃い緑が織りなすカーブの坂道をクルマは喘ぎながらなんとか到着。まったく、わが愛車は馬力がない。踏ん張りがきかないのだ。情けない。定期検査も税金も納入しているというのにブザマ丸だし。

さて、未来永劫の天国図は描けたのかとかあちゃんに問う。「まだまだ先のこと、焦ることはない」。物事には順番がある。おばあちゃんは健在。先立つ不幸をお許しくださいとはいかないようだ。それでも、永遠のバイバイ必ずやってくるのだ。
 
 6月9日(木)

第3回「世界情勢と日本」の講義を受ける。今日のテーマは「日中関係を考える」。興味津々で居眠りもしないで聴講するが踏み込んだ話はない。新聞や本を読んで仕入れた情報をおさらいしているようだ。ただ、国防費より暴動などを取り締まる公安費が2010年以降上回ってるということをはじめて知る。それだけ締め付けが厳しいのではと推測する。

我が家の金魚ちゃんは暴動やストライキなど企てることもない。平和の象徴のようにお尻からミミズのようなウンコをお供に泳いでいる。りっぱ、りっぱというものだ。

勉強会を終えて土浦の中心街を歩く。駅前広場は工事中。街が整備され利便性が増すごとに人の匂いが消えていく。フワフワとした言葉を失った空気が漂っているだけだ。学生や市民が往来しているというのに音も匂いもない。どうしたものだろう。三島由紀夫の言葉を思い出す。「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」。極東の一角に土浦市も含まれるということかー。
 
   6月8日(水)

心が空っぽになる。山王姫から伝授された「気合い」は一夜限りだったのか。これから、一夜漬けがおいしい季節を迎える。思い出したようにジョイフル本田で買ってきたキュウリの生育状態を見に行く。2本とも順調に育っている。取れたてのキュウリを味噌をつけてそのまま食べてもいいし一夜漬けにしてマルのままカリカリかじっても旨い。

話が脱線した。まあ、人生そのものがヨレヨレトロトロガタガタだったから今さらぼやいてもしょうがない。それより、よくぞ今日まで脱線もせずノロノロと走り続けているのが不思議なぐらいだ。

気合いが抜けた頭をふりしぼって朝のうちに残りの仕事を済ませたからとりあえず安心。その後はながみで汗を流しうつらうつらとしながら読書に励む。夕方、「明日はパンを買ってくるのか」とカミさんに聞けば「そうだと有り難い」。牛久愛和病院の売店は朝8時から営業しており焼きたてのパンを売っている。朝帰りの土産はほかほかパンということ。さて、何のパンにしようかと気合いを入れてグランヴィラへ。
 
  6月6日(月)

なんでもない、なんでもない朝をグランヴィラの簡易ベッドで迎える。昨晩はぐっすり眠れた。枕もとにおいている電話が一度も震えなかった。業務日誌に「特に異常ありませんでした」と記入し帰路へ。カラになったペッドポドルでポンポンと頭を叩きながら、「さて、本日はいかように」と駐車場へ。途中、白い車がやってきて運転席から手を振っている。施設長ご出勤なり。

そと・うち・あれや・これやと今日のことを考え机に向かっていたら、山王姫から「石岡浪漫」校正について電話が入る。昨晩は、二つ目だけでなく心眼も合わせ三つ目で見ると意気込んでいたから、なにか間違いがあったのではとオジギソウのようにコウベたれる。意見の食い違いは一カ所だけ。

打ち合わせの記憶をたどり説明する。この記憶というのが怪しげだが、納得してもらう。さぁ、ステージは第2幕。どうなることやらと考えると世界平和に貢献できなくなりそう。雑念を払おうと、金魚ちゃんに「グッドモーニング」とあいさつ。金魚ちゃん、あいさつより餌が優先。われ先にとパクパク音頭。お互いに長生きしようね!!。
 (写真は15年過ごした我が里)
 
   6月5日(日)

朝の起きてすぐに今日のやりたいことをメモする。「石岡浪漫」の校正、S氏にメール、5月から6月へのブログ更新、母の十三回忌で撮った記念写真の郵送など。それらを頭が空っぽのうちに済ましてしまおう。思いのほか順調にこなす。これなら、まだま生きられると自信を持つ。昨日、山王姫から入れてもらった「気」のおかげか―?

たいしたことではなく、たいしたことでもなく、たいしたこともなく済ませることのできるたいしたことでもない用件がやり遂げられない。これは加齢というだけの理由だけではないようだ。持って生まれた性分の怠惰症候群。こうなると父母はなにあっておいらを生んだのかー。

右写真は15年間暮らした山形県川西町黒川381番地。かあちゃんと兄夫婦の真後ろに、茅葺きのボロ家があったが現在は田んぼになっている。誰も住まなくなった家を誰が取り壊して処分したのか?。今なお謎だが知りたいとも思わない。
 
  6月4日(土)

山王姫と気合いを入れて鹿嶋市勤労文化会館で開かれている写真と書のコラボ展と海を見に行く。さえない頭にむち打ち気分転換をはからろうというものだ。簡単にいえばいつも明るくふるまう山王姫から元気の「気」を分けてもらおうというやましい心が透いて見える。それはそれで許してもらおう。

鹿島神宮で茅の輪くぐりをやり参拝。真っ白な頭での柏手と拝礼。何を願かけていいのか不明なり。ただ、何かいいことないかと念じる。この日は土曜日のせいか参拝客が多い。みんな神頼みの生活を送っているのか―。気持ちがイターイほどわかる。

会場に不在だった南岳先生のお宅を訪ねることになる。太平洋をチラチラ車窓から眺め水戸へ。南岳先生在宅なり。以前から色紙に揮毫してもらおうと思っていたお願いをする。快く筆をとってくれる。なんとか、若い人を応援したいと思っていたがなかなか果たせなかった。これでひと安心。彼女がもうひとふんばりしてくれることを願う。
 

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