怠惰な散歩  2016年

   4月30日(土)

CROSSをクビになってから1ヶ月。日常生活にどういう変化があったのか考える。CROSSではろくな仕事もせずに給料をもらっていた。ぶら下がり状態だった。それが重荷になっていたが解放されたのは間違いない。収入の道が途絶えたのは辛いがやむおを得ないことだと納得している。

頭を悩ましているのが「いばぶん」。できるだけ早く縁切りをしたい。だが、こういう道筋を考え提案して動いたのも事実。反省しきりだが後戻りできない。。ピークを過ぎた脳みそでは次が描けない。辛いところだ。

昨日、千葉の金乗院へ行く。体調かんばしくなくふらふらの状態。走れメロスのような心境だった。どうやって帰ってきたのかさえ記憶が定かではない。こうやって、4月最後のブログを書けるのが不思議なぐらいだ。5月にはいればウツ状態がらの脱出はなるか。いや、脱出しなければならない。
 
   4月28日(木)

朝帰りの朝、かあちゃんの顔を見るなり「写真を撮りにゆく」。すぐに家を後にする。朝帰りとはいわず勤務あけといえば世の常は「ご苦労さま」。わが家は違う。介護あけのかあちゃんと夜勤あけのおいらが同じ時間帯にわが家に到着。くたびれ顔の二人はおはようさん、お疲れさんとあいさつ。帰る家があるだけでも熊本の避難生活者に比べれば有り難いことだ。シリアの難民とは比較しようもない。感謝、感謝。

写真の話だ。経緯をたどれば退屈で長い夜勤の時に思いだした。外国の写真家が日本は四季にくわえてともうひとつの季節がある。それは梅雨。丸谷才一は「芭蕉は時雨を詠んだ句が多い」。荒山光三郎は「悪党芭蕉」。ほかにも、「忍者芭蕉あらわれる」などなど芭蕉に関する本は無限大に近い。

話が脱線した。話は写真だ。時雨写真を撮ってみよう。傘をさして風景と対座する。雨にうたれ小枝にしがみついた新緑の葉が気まぐれ風に揺れる。そういうことです。その結果が左右の写真です。
 
   4月27日(水)

朝から気分が晴れない。外を見ると曇り空。どおうーんとした重さが頭にのしかかっているようだ。これはウツの兆候だ。天気が悪いと気分的に落ち込んでふさぎ込んでしまう。重層低音が脳髄を奏でる。一匹の蚊が頭の中を飛び回っている。

本を読む気力もない。ぼーっとしながら宮沢賢治特集の雑誌をパラパラめくる。賢治は宇宙から世界を見ている。気宇壮大だ。おいらの視野は狭い。針の穴より小さく暗黒の闇があるだけだ。光がほしい。

おいらの小さな頭に存在するらしい小宇宙を蚊はぶうーんと羽音をたて自由奔放に飛んでいる。ぶうーん、ぶうーん。これにぼーっが加わる。ぼーっぶうーん、ぼーっぶうーん、ぼーっぶうーん。バカみたい。
 
   4月26日(火)

山形へ行く車中で読もうと上野駅で買った文庫本をひもときながらふと思う。これから先、何冊の本が読めるのだろうー。2日に1冊として1年で約180冊。かける3年として540冊。そんなものか。図書館の書棚にならぶ本の数からいえば3、4段ぐらいだろうー。

そう考えると何となく口惜しい。若いときにもっと本を読んでおけばよかったと後悔してもすでに遅し。仕事と遊ぶことに夢中で本を読もうなどという言葉は辞書にはなかった。読書は神様の導き対する背信行為だとさえ思っていた。

今さらじたばたしてもしょうがない。「雨の日はしょうがない♪♪」そんな歌があった。車中で数ページ読んで閉じた本を読みながら暇まかせのたわごとをつづりバイバイだ!!。
 
   4月25日(月)

ここ数日、たくさんの写真を撮ったのでブログ用のストックはできた。それだけではなんとなく不満が残る。テーマを決めて写真を撮りたい。そこで引き算をしていく。体力も資力もないから遠出は無理だ。身近なところで手軽に撮れミトモカラーのような写真を発信できないものか。

行動することだ。カメラ、三脚、和紙の色紙、霧吹き、セロテープ、画鋲を持って阿見町のふれあいの森へ。よく考えるとこのような小道具を使って写真を撮ろうとすることが本来の道からそれている。それでも、いろいろな小細工をしてシャッターを押す。どうもしっくりいかない。グルグル歩いてあらためて雑木林を眺望する。芽吹きだした緑映える濃淡の美しさに深いため息。やっぱり自然にはかなわない。

くじけてはなりません。新たな知恵を絞りだし、果敢に挑戦することを誓いふれあいの森とさらばする。皆さまともさらばする。バイバイ。
 
   4月24日(日)

朝、さてどうやって帰ろうかー。思い悩む。日本海の夕陽を車窓から眺めぼんやりと帰るのを思い描いていた。大きな荷物をかかえ電車を乗り継ぎながらの移動は体がきつそうだ。さらに、待ち合わせ時間などを考慮するとその先がまったく読めない。

優柔不断さはいかんなく発揮される。悩むおじん。結論は小松町の親戚の家までK・Y氏のクルマに同乗させてもらう。墓参りをしてお土産を買い小松駅から米坂線で米沢駅まで行き、山形新幹線で郡山へ。そこで乗り換え水郡線で水戸駅を目指す。

駅員に郡山から水戸までの所要時間を聞く。約3時間。あきれたような笑顔で答える。驚くことなかれ、時間だけはたっぷりと持ち合わせている。その先は短いが今日はたっぷりあるのだ。
 
   4月23日(土)

「3831会」に出席。山形県川西町の新山中学校のクラス会が赤湯温泉で開かれノコノコと出かける。同中学校の名称は統合されすでに消えたが、生き残りの卒業生たちはまだまだ元気。。

48名の生徒中、20名が参加。物故者6名という報告があった。りっぱに爺婆の仲間入りしたとはいいながら、電車やクルマで「3831会」出席できれる元気があるのだから神様に感謝をしなければならない。

それぞれの近況に耳をすませば、成人式を迎えた孫がいたり90歳を越した親の面倒に疲れ果てそうだという嘆き節など20人の物語がチラチラ聞こえてくる。見果てぬ夢を追った15歳の門出から50数年。ぼんやりと一緒に過ごした時代を思い出しては湯煙の中に消える。割り勘負けしないように一所懸命に酒を飲む。
 
   4月22日(金)

メガネがない、ないないで探しまくる。今日のこれまでの行動をたぐる。それも、数時間前のスクリーンだ。白内障の予備軍のレッテルをはられ、さらにか右目には乱視の刻印。その中で日常使用している愛するふだん使用のメガネを探すのだから容易じゃない。探し物はなんですか?。わからないまま大騒ぎしているうちひょっこりひょうたん島のようにメガネが現れる。おそれおおくもメガネ様を一礼。

昼近く山王姫宅へ。4月上旬に開いた「観桜会」の写真アルバムを納入。リハビリ坂を上りくぐり戸を開けて見る草花や樹木に感動。ああ、ありがたやありがたやとなげキッス。秘密だ。

ああ、ゆっくりと本を読みたいと悶える。気が付いたら本を片手にヨダレを垂らし居眠り。ここで、世界中のぼーっを共有していたことに感動。さあ、みなさん眠ることに集中しましょう。サラバだ。
 
   4月21日(木)

朝8時過ぎグランヴィアの仕事を終え、広い病院内をカメラを片手に散歩。周辺は雑木林に囲まれ自然界とのお話しにはことかかない。メジロと間違えたウグイスが鳴いている。甲高い声が爽やか。名も知らぬ小鳥のさえずりも新鮮だ。これなら、今日一日うまくいきそうだ。ただ、お天気はご機嫌ななめ。これだけはままならぬ。

「入門 国境学」などという本を読んでいる。これは面白い。地球に線をひいて国家の存在を世界に認めさせる。線引きの領域は海、大陸、空と地球全体を切り刻む。日本は四海に囲まれているせいか国境・境界意識が大陸人より低いという。2016年3月発行の新書版だ。こういう類は近刊書に限る。図書館、有り難う。

わが家の金魚ちゃんには越えらぬカベがある。ぼんやりと向こうの世界が見える。ぼーっとしたアホヅラした男が行ったり来たりしている。もっと近づいて見ようと進むが正体不明のカベにぶつかる。よく考えてみると、どこかしこも強力に線引きされ、ヒトは縮こまって生きているような気がする。もちろん、オチンチンなど寒くもないのに縮こまりっぱなし。ああ、かわいそう。とてもかわいそう。
 
   4月20日(水)

朝、朝刊を郵便受けから取り出し、そういえば「別な視線から探してみたら」という山王姫のアドバイスを思いだし、何気なくクルマの中をぼんやり見ていたら、運転席の椅子のわきに色違いのものがはさまっている。ドアをあけてひっぱりだすとまぎれもない昨日から探していた校正原稿の入った封筒だ。

世界は広いがおいらの視野は狭い。こんなものだと空を見上げる。空はどこまでもどこまでも遠くへと青色を塗りこめている。どこまで行けば空の端にたどり着けるのだろう。封筒と新聞を持ちながら体を180度まわして空の彼方を追う。

そういう幕開けで今日は始まったのです。お手数をかけた方々にお詫びの報告をしてハッピー、ハッピーの拍手喝采で今日を終えたのです。バイバイー。
 
   4月19日(火)

ないないないのだ。「いないいないばぁー」とじゃれてような場合ではない。昨日、石岡市市役所で受け取った校正原稿がないのだ。記憶をさかのぼる。最後に石岡市役所の封筒に入れて席をはずした。そして、駐車場へ。山王姫を自宅前でおろし、ひたすら荒川沖に向かいわが家へ。トランクから今日の荷物を持ち込んで「金魚ちゃん帰ったよ」と明るくあいさつ。しばらくすると一時帰還中のかあちゃん出張介護へ、バイバイする。

そして、今日の朝だ。次の準備へと昨日の荷物整理。その中に、超重要校正原稿だけがない。うろたえる。探す。クルマ、冷蔵庫、トイレ、布団の中、思いつくとこを全部探したがない。山王姫へそSOS。そんなこともあるですと優しく慰めてくれる。本音は怪しいが素直にうなずく。結局、PDFファイルで美人職員に送ってもらい解決。

この失態の原因はなにかを考える。わからない。玄関方面からささやき声が聞こえる。「おーばかさん、おーばかさん、明日もそうやってノー天気で暮らせれば、幸せ者だよ」。有り難うございます。
 
   4月18日(月)

「石岡浪漫」の打ち合わせで山王姫宅へ。広い庭の緑がきれいだ。たらふく水をふくみながら夏に備えようとしている木々や草花の甘えるようなうす緑。昨日とうってかわってこころ静まる。まさしくハレハレ気分だ。そこで、証拠写真としてパチリパチリ。

その後、「石岡浪漫」の校正原稿を受け取りに石岡市役所へ。山王姫が天にも昇るような美人が笑顔で迎えてくれるという秘書広聴課へ。しばし、美人職員と打ち合わせ。おじさん、ウキウキなり。バーカ、白い鼻水が流れていることも知らず夢中。その鼻水は清らかさを誇り蛇行せずまっすぐに唇を目指している。隣席する山王姫、見かねてティッシュを差し出す。「花粉症ですから―」と言いわけまでしてくれる。

草花は百貨繚乱の準備で忙しいこの季節。ハナにもいろいろあるようで花、華、洟、鼻、はなという文字を思い浮かべる。その中で見苦しさの筆頭のねぎっぱなといわれる親戚のみずっぱなを美人職員の前で披歴してしまった。ああ、情けない。悲しきはな物語、ここにあり。。
 
   4月17日(日)

暗い日曜日だった。夜勤の仕事を始めるようになってから曜日の感覚がずれてきた。一週間に土日の休みがあり月曜日から金曜日までは何らかの仕事に勤しむ。日曜日に夜勤がはいったことでリズムが狂ってきたようだ。ともかく、天候が不安定だったせいもあり暗い一日だった。

それでも、町内の総会があるので顔を出す。なにしろ会計監査などいう信じられないような役割を担っている。町内の民(おいらより暮らしぶりはよさそう)に監査報告をしなければならない。もっとも、27年度でクビになるから少しは気分的に楽だ。

暗い日曜日の中で、ぼーっとした向こうに見える風景はどんなものだろうと考える。はたして風景はあるのか、あったとしてもぼんやりぼーっの正体不明なもので言葉には表現できないような曖昧模糊とした幽霊のようなものだろうかー。ますます、暗くなる。やめよう、寝よう。
 
   4月16日(土)

前震、本震とニュースが入りかわり流れる。なんだい、こりゃ。それなら後震と続いて幕がおろされるというのか。絶句と悲嘆。行き場を失ったようなため息をつきながらテレビ画面を追う。

そうではないのだ。ごくふつうの地球生命の声なき声なのだ。ヒトよ驚くことも恐れることなく受け入れべきだ。われわれは、これまでおごりの中で生きてきたことを自省し、今日をもちこたえる準備に集中すべきだ。近未来的なハッピーな約束事など自然界とのあいだにはなにひとつ存在しないのだ。

ぼーっは今日を泰平に過ごす。本を読んで庭の草取りをしてプロ野球観戦。日本列島は細長い。ぼーっが棲息している今の地域は限りなくぼんやりと春の光を浴びさらにぼーっとしている。有り難いことだ。感謝、感謝。地上さまどうかお静かに。お賽銭なしの願かけ安眠布団を目指す。バイバイ、お休みなさい。
 
   4月15日(金)

地震のニュースが相次ぐ。日本は地震王国といわれている。神さま、王国は返上するからもうカンベンしてください。しかし、地震の神さまはお願いを聞いてくれそうもない。どうしようもない。そもそも神さまは存在しないのかもしれない。では、どうするか。わからない。ただ、身を守ることを最優先するしかない。とても遠くでの出来事とぼんやりしていられない。

そうかといって何ができるわけでもない。ただ、貸家とはいえこうして生きていることに感謝をしなければならない。ぼんやりとぼーっとしながらでも屋根の下で暮らせるということに―。

風が強い一日だった。空は青く澄みきっていた。「疑問」という知の世界について考える。「MOKU」という雑誌は内容が濃い。ただ、定期購読するには値段が高い。よく見ると広告がほとんどない。維持するのは大変だろうと思う。こういう場所でがんばっている人たちに拍手を送りたい。
 
   4月14日(木)

気がついたら上野駅にいた。ボケたのではない。約束を守るために常磐線の電車に乗りやってきたのだ。インド旅行で3回同伴した瑞恵先生が所属する光陽会が展覧会をやっている東京都美術館へ。

会場いっぱいの壁面に展示された絵に圧倒される。会場をまわっているうちに疲れしっかり見ようという気迫が静かに薄れていく。それにしても、畳一枚ほどのキャンバスに描くというエネルギーに感服する。

読んでみたらと、「MOKU」という雑誌をもらう。なにやら面白そうな「疑問という知の世界」という特集が組まれている。帰りの電車の中で読もうとバッグに入れる。ところが、電車は品川駅発だった。座るところがない。そういうことかと、つり革につかまり流れる風景を眺めながら帰る。いろいろなことがあるものだ。
 
   4月13日(水)

二階の窓から見下ろす青空公園の桜も散り始め葉桜に模様替えをはじめた。これまで二階で過ごすのは布団に入って高いびきで寝る時ぐらいだった。それが、いばぶんの事務所となり過ごす時間が多くなった。

眺望権がつくからマンションの上層階の部屋は価格が高くなると聞いたが本当だろうか。高い所からの眺めはたしかに快感がある。中身は変わらないのに何か偉くなったような気分にさせる。

中身のいっぱいつまった空き缶のようにまるっきりのリタイヤとはいかないが先月より自由時間が増えた。そのぶん、ぼーっとして過ごす時間も増えたことになるのだと知り愕然とする。それはそれでいいのではないかということになり、心おきなく終日ぼーっと過ごす。そのせいかすこぶる快調。バンザイなり。
 
   4月12日(火)

広い風景を見たい。ぐじゃぐじゃ考えごとなどせずカルピスのような爽やかな心地よい日々を送りたい。そうはいっても気分の優れない日もある。これが生きるということなのだろう。牛久運動公園で大きな景色を眺めながら深呼吸。冷たい空気を清らかなハートと親戚になる肺におくりこむ。ますますおいらの心はきれいになる。バカみたい。

隣家のジジババが起きださないうちにと庭の草取りをする。隣は夜ふかし老人を自負しているだけに深夜まで電気が灯っている。ふたりだけでなにやらを話し合い夜を過ごすそうだ。50年も60年も連れ添ってきたのだから、そんなに話題もないと思う。それはひとり暮らし状態のおいらの邪推。話題は尽きなく泉のように湧き出るらしい。

自然と向き合うことを肝に銘じ庭の草取りに励む。おいらの庭はたかだか五坪ぐらい。山王姫宅は敷地が三千坪もあり庭も広い。きっと、雑草も団体でやってきてボウボウと生えるのだろう。同じ雑草でも広い庭で咲いているのか、狭い庭で咲いているのか分かっているのだろうか?。大いに悩むところだ。
 
   4月11日(月)

庭の草むしりをする。青空公園のサクラも散り始めた。うららかな日よりで気分壮快。こんなのんびりした時間を過ごすのはしばらくなかった。いつも、何かに追われていた。もう、何もしなくていいのだ。散るサクラが空から囁いているようだ。

そういえばクルマのオイル交換の案内がきていた。気分壮快を独り占めするのはいけないことだ。幸せはみんなで分かち合わなければならないー。そこでオイル交換に行く。きっと、クルマもさっぱりしたのか快調に走るようになった。ほとんど代わり映えしないのだがそう信じる。

そこで考える。気分壮快が毎日続いていたら壮快感はわからないはずだ。不愉快な日があってはじめて気分壮快を認識できる。世の中は面白くできているようだ。これは退屈させないため神がニンゲンに与えた恵みだろうか。考えただけで眠れなくなる。「ウソだあー。爆睡を得意技としてるくせに」。玄関から金魚ちゃんの怒り声が聞こえる。
 
   4月10日(日)

時間に余裕ができた勤めとしてブログの更新にイノチを賭ける。内容はごく近辺に起きたどうでもいいようなこと。どうでもいいことを毎日認めて世のためヒトのためになり役立つことがあるのか。それはまったくない。それなのにクリスチャンでもないのに十字架を背負うような責務を感じる。ここまで書いてきて実にくだらないことを考えているものだと呆れる。

それでも文章(?)らしき文字は休むことなく続くのだ。そもそもネットを通してブログなるものが世の中に登場した時から正体不明の怪しげな謎を秘めたものではなかったのか。ネットを通しどんなウソを書いて発信してもいい。この約束ごとは世界中の人々が認識しあっていることだ。

金魚ちゃんに訊く。ウソのかたまりと金魚ちゃんのツナゲリウンチの因果関係は?。バーカ、つまらんことを考えないでサッサッと寝ろ。はい、わかりました。お休みなさい。
 
   4月9日(土)

かあちゃんの気分転換をかねて桜咲く公園に行く。自宅前の青空公園の桜でも十分だが介護疲れは肉体だけではない。精神的にまいっている。遠出をして満開の桜の木の下でおにぎりでも食べれば少しは精神の節々に刺さった棘が消えるのではー。

午後、町内の役員会に出席。朝、4時半ごろ散歩していた役員のひとりいわく。素っ裸でフルチンの男とでくわす。驚く。しばらく成り行きを見守る。素っ裸男は警戒中のパトカーに発見される。みなさまも気をつけて下さいと役員を見渡す。全員うなづく。暁の珍事なり。

会議からスムーズに懇親会に移行。いつものパターンだ。町内のこぼれ話に耳をかたむげながらチビリチビリ。毎日が日曜日の役員たち。ゴールデンウィークは家でじっとしていようことで、ほぼ意見が一致する。こんなもんだの町内会のひとコマでした。
 
   4月8日(金)

つくばみらい市の福岡堰に咲き誇る桜を見に行く。なにかと気ぜわしく過ごし、脳髄がよろめきながら混乱と錯綜の往復運動で疲れている。なんとか、空っぽのぼーっ状態にリセットしなければ。そこで、荒川沖を脱出。

小貝井の土手沿い1・5キロにわたり桜並木が続く。そして河川敷には黄色い菜の花畑が広がっている。カメラを持って写真を撮っているジジババが多い。「夫婦でいいですね」「いや、友だちです」と、バアサンがきっぱり。どうやら写真愛好家の仲間だったらしい。連れのハゲ頭の男は照れくさそうにニヤニヤ。やはり女は強い。満腹になるほどサクラサクラを見る。

辺見庸の「1★9★3★7」読了。重たい内容だった。脳味噌をグズグズかきまわされた。歴史は意図的に消され抹殺され「ソウデアッタヨウダ」で括られようとしている。消滅されつつ歴史に照準を合わせ、自らの生を問い直すことの重み。辛いものがある。
 
  4月7日(木)

朝から雨が降る。グランヴィラ牛久からの朝帰りは雨に濡れながらとなる。すっきりとした目覚めだった。それなのに雨空を見上げなんとなく暗くなる。人間精神はお天気によって大きく左右される。

午前中、前田投手の大リーグデビュー戦を見る。おおきな体の選手に囲まれ前田投手は小さく見えるが投球フォームは大きく力強く感じる。さらに、ホームランまで飛び出すというおまけまでついている。気分壮快になる。遠い国で活躍しているもんだとなあー。

午後、姫丸子と会い仕事の相談。いろいろ心配をしてもらって有り難い感謝なり。雨の中、山王姫宅へ。「石岡浪漫」の打ち合わせ。ゴボウセンベイもらって帰る。 こうやって生きていくのだ。写真は自宅前の青空公園に咲く桜。少し痩せてきたような気がする。
 
   4月6日(水)

朝、空を見上げるときれいな青空が広がっている。青空公園の桜も満開。そのせいかいつもは閑散としている公園に足を運ぶ人が多くなった。日々、追いまくられるように過ごしている時間を忘れようと泡沫の憩いを求めにやってきているように見える。

自転車で郵便局に行き用をすませるとサイクリングを楽しむ。阿見町の本郷公園で遅い朝食。うららかな陽気に誘われるようにママと幼児たちが思い思いに戯れている。平和日本。これがあたりまえで普通なのだろう。

本ばかり読んでいては物語は進行しない。それならと、いろいろと考えを巡らせ実行しようと思い立つが体が反応しない。もう、気張ってやることなどなにもないのだという天からの声が聞こえる。幻聴ではないしっかりと体内にしみこんでくるのだ。そういうわけで、ぼーっと過ごし今日を無事終える。
 
   4月5日(火)

NTTの電話工事の日。午後1時から5時のあいだという連絡があり本を読みながら待つ。なかなか来ない。ぼーっとしていて日にちを間違えたのかと連絡メールを見る。間違いではない。そこまでボケてはいないようだ。

結局、夕方4時ころ来る。それも作業員はひとり。いつも二人一組のはずだ。それも、おいらと同じくらいと思われる年代でジジイだ。大丈夫なのだろうか聞けばトラブルがあり作業が遅れもうひとりの作業員は後から来るという。

作業を終えて同じ年ごろのジジイに年齢を聞くと70歳だという。「まあ、小遣い稼ぎにやっているようなものだ」。脚立に上ったりクレーンを動かす身のこなしは軽やかだ。ぼーっと本など読んでいるばあいではない、かといって真似などできない。どうするか?。見なかったこと聞かなかったことにしよう。
 
   4月4日(月)

なにごとにもリズムというものは大切だ。それが「ぼーっ世界」で生きている人間にも通じること。この場合のリズムは、普段の何気ない平凡な暮らしを指している(これが難しい)。今日で4日目となるCROSS解放の日々。だが、なんとなく気忙しく幕開け。まだ、体内に滑らかにインプットされていない。それだけに、これからが楽しみだ。

朝、山王姫から次の仕事先を心配する電話あり。ごじゃごじゃはカット。姫丸子から就職先のオファーは有難い話。しかし、すでに決まっていたこともあり辞退のメール。だが、舌足らずだった。きっと、山形弁の訛りがきつかったのだろう。目と目をきちんと合わせ相談にのってもらおう。

目と目を合わせるというのは人間社会で生きていれば当然だが、目覚ましい近代科学の発展により限りなく希薄になっている。さらに肉声での会話も少なくなった。悲しく嘆かわしい。どんな生き物でもお天道さまと向き合い、静かにお話しするべきだ。それが、生あるもとして最低の摂理だと思う。バイバイ。
 
   4月3日(日)

山王姫とひたち海浜公園へ。水戸のご老公こと、いばぶん理事長がユリ祭りに合わせ茶席を設け来園者にふるまうという。ユリ畑がひろがる屋外を予定していたが、あいにくの天気で見晴らしの里にある古民家に変更。

正客の席に座った山王姫。茶席の一挙一動を細やかに観察。その雰囲気を感じ取ったのか解説役のご老公の動きに固さが見られる。なにしろ、ご老公とはいえ山王姫は茶人の大先輩。眼光鋭い視線に恐れをなしたのか―。さて、ご老公のお点前のふるまいはどうか。これは秘密なり。

バタバタした二日間は無事に終了した。これからはミズスマシのように静かに生きることを誓う。
 
  4月2日(土)

山王姫宅で開かれた故久保田時治さんを偲ぶ会に出席。笛奏者の雲龍が偲び奏で華を添えてくれる。山王姫は、観桜会も兼ねており、ごく親しいひとたちだけに声をかけたというが30人近くはせ参じる。故人とは面識はなかったが、人望がありみんなに愛されていたのだろうと推測する。

偲ぶ会終了後、雲龍とスタッフ5人で真鍋町の五所駒ヶ瀧神社へ。そこでも雲龍は笛の音色を披露。古い家屋で太い梁がむき出しの薄暗い室内にやや甲高い音色が響きわたり体内にすべりこんでくる。静かな、静かな気持ちになる。モヤモヤしたものが解き放される。どうもたちの悪い毒素をほてい腹にためこんでいたようだ。すかっとした一日だった。

中身のいーっぱいつまった空き缶より、CROSSご苦労さんのメールあり。「自由の時間が増えると良いことがたーくさんあります」。そうありたいと願う。 
 
  4月1日(金)

新しい生活が始まる。CROSSには行かなくてもいいのだ。気楽になったが、いくばくかの収入も途絶えた。これを、事実として受けとめ肝に銘じ日々の生活を送らなければならい。そうかといって心気臭くはなりたくはない。心はいつもハレハレハッピーハッピーボーッボーッ。

次なる新鮮世界を祝いジョイフル本田で金魚ちゃん3匹を購入。1匹100円也。今、水槽で元気に泳いでいる金魚ちゃんは1匹25円で購入。あれから、何年経ったのだろう。モノの本によればこの種は体長20センチまで成長し死ぬまで生きるという。あたりまえだ!!。

なぜ新たに金魚ちゃん買い求めたのかー。これまで使用していた水槽が水漏れをするようになった。そこで新しく購入。古いのをしばらく縁側に放置していた。その途端、水漏れがなくなった。それなら、この水槽を利用しよう。そこで3匹の金魚が登場。さて、屋外の自然の下で生きてもらおうという目論見は成功するか?。楽しみだ。
 

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