怠惰な散歩  2016年

   3月31日(木)

今日でCROSS勤務終了。簡単にいえばクビ。CROSSという組織が持つ切れ味鋭い刃で、もののみごとに断頭された、とはいえ明日を生きることまでやめるにはいかない。なにしろ、我が家にはかあちゃんと金魚とその仲間たちがいる。おいらの一挙一動にハラハラしながらも頼りにしている。ひるまず、こびず、すかっぺをかましながらミズスマシのようにしぶとく生きるのだ。

今日も穏やかな日和。おてんとうさまは争い事は嫌いなようだ。いつもこうあってほしいと願うがそうはいかない。くしゃみしたり鼻水をぶちまけたり貧乏ゆすりなどもする。こまったものだ。

昨日は語れるけれども明日は語れない。昨日のことはわかっているけど明日はわからない。本当に語れるのは今日のこの時間だけ。だから、この時間を大切にして、今を生きなければ―。こんな会話を山王姫と交わしたような気がする。いつだったか、どこでだったか忘れた。そういうことで、バイバイ。
 
   3月30日(水)

穏やかな天気だ。自宅前の青空公園には園児たちがやってきて園内を走りまわっている。黄色い声が飛び交いあたりは静から動へと活気づいている。

青空公園を取り巻く荒川沖3丁目町内でも注目されている無人地帯.
独居老人と空き家と野良猫で界隈は構成されている。その中にピンクの帽子を被った園児が突然現れたとなれば大事件だ。

ずうーっと昔、青空公園で無邪気に遊んでいた洟垂れ小僧たちも、今ではりっぱな後期高齢者の烙印を押され背中丸めてショボン。おしっこもショボショボと迫力不足。そんな暗い未来を園児たちは吹き飛ばしてくれる。しかし、10分もしないうちにお手てつないで帰ってしまう。深いため息があたりに広がる。これが、日本の現実なのだ。
 
   3月29日(火)

朝を散歩。いつもの怠惰道をクビからカメラをぶら下げ歩く。道すがらの雑木林でカラスの巣を発見。望遠レンズでなければ無理だと思いつつ場所を忘れぬように記録しておこう。ファインダーを覗く。「メモリーカードが挿入されていません」。素直なメッセージ。カメラはエライ。あきらめ、新鮮な空気にため息いっぱいつめ込みうつむきながら歩を進める。

空を見上げる。広い。空は自分で空の広さを認識しているのだろうか。そして、その空間に地球なるものがポカンと浮かんでいることを知っているのだろうか。ましてや、日本国茨城土浦荒川沖で写らないカメラをクビからぶら下げマスクをつけて花粉症と真剣勝負しているおいらを知っているだろうかー。

午前はCROSSに行き、昼は水戸のご老公とスパゲティ―を食べる。その後、整復師会本部へ。広報誌を納入。事務所の女子職員に桜餅の土産。「本日中に召しあがること。店員がそういっていました」。ケラケラと明るい笑い声。帰り、山王姫宅へ。いろいろ報告。白猫ピーちゃんの顔をなでてバイバイする。今日はこれで終わりです。お休みなさい。
 
  3月28日(月)

メジロとホトトギスの見分けることができるヤギ一家のご主人が阿見町の議員選挙で当選した。有権者数3万7868人で、1,187票を獲得し4位。ちなみに、最下位当選は631票。得票率52・42%。この数字をどう読み解くか分からないが、とにかく当選おめでとうございます。

ヤギ一家のご主人は、単にひと家族だけの主人ではなかった。町民から信頼されているのだ。気づくのが遅い、情けない、絶句!!。主人の背後にはヤギがぞろぞろ1,187匹もついているのだ。その中には、たかりヤギ、おごりヤギ、いかりヤギ、なげきヤギ、つつもたせヤギ、ちほうヤギなど想像を絶する人生模様を描いているヤギがいるはずだ。それらを引き連れ、これから4年間精魂込め町民に尽くすという覚悟には敬服するしかない。

しかし、ヤギ主人は訴えたいはずだ。「阿見町があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが阿見町のために何を成すことができるのかを問うて欲しい!!」。あれっ、どこかで聞いたような演説でしたねー。 
 
   3月27日(日)

体調がやや回復。昨日は本を読む気力もなかった。そして食欲もなかった。今日は違う。お腹が空いた。胃腸に優しさをこめて一杯530円のメカブソバなるものを賞味する。さて、胃腸さん歓迎してくれるか。分からない。

番狂わせのように勝ち続けあわや初優勝かと期待された稀勢の里。結果は残念なり。そうはいっても、今場所は胸をワクワクさせてくれた。モンゴル勢が番付に多くしこ名を連ね、なんとも歯がゆい気持ちの大相撲観戦が続いた。来場所の奮闘を期待したい。

人間離れしたような相撲取りの体を見ていると、一体何を食べているのかと考えてしまう。まさか、メカブソバ一杯で満腹になることはないだろう。大いに食べまくりひたすら寝て稽古をして作られた頑強そうな肉体。それぞれの力士に一遍の物語がありそうだ。とにかくメカブソバそば一杯ではないことだけは確かだろう。
 
   3月20日(土)

体調が悪い。朝から体全体がぼーっとしている。とにかく静かにして回復を待つ。何も考えが浮かばない。ましてや、何かを仕掛けようという気力がわかない。

原因をいろいろ探る。便秘気味で腹が張る。もしかして、柿ピーの食べすぎではないか。山王姫や姫丸子からたくさん頂戴して食べた。特にピーナツがよくないのでは―。しばらくは食べることをやめよう。

せっかく、昨日は城里町の新鮮な空気を吸ってきたというのに神さまは意地悪だ。腹をなでながら考える。病院で病魔と闘っている人たちは、毎日こんな気持ちで過ごしているのだろうか。これまで大病もせずに生きてきた自分の体に感謝をしなければならない。

インドのショットさんからメールが入る。よほど日本が恋しいようだが、とても援助する余裕などない。気持ちだけ伝える。
 
   3月25日(金)

山王姫と城里町の身障者施設「かしの木」へ。山間の道路から見えるなだらかな山並みは本格的に迎える春の準備で忙しそう。おいらの役目は山王姫の茶道指導のお手伝い。山王姫の成り行きを静かに見守り、思いついたようにパチリパチリ。山王姫、身障者に優しく明るい言葉で接する。熱意と根気が求められる世界。たいしたものだ。

今日の茶菓子は「菜の花」。山王姫、問う、「何の花?」。「バナナ、タンポポ」、素直な返答。和菓子は菜の花をイメージして黄色に染まっている。山王姫、ヒントを与える。「春はどんな花が咲く?」、M君「菜の花」拍手が室内に広がる。窓の外には真っ青な空と遊戯好きの白い雲が泳いでいる。うれしくなる。

山王姫にはコーヒー、ぶっかけそばをごちそうになり、プチプチ餅までお土産に頂く。プチプチ感謝、有難うございます。
 
   3月22日(火)

CROSSに行く。「これはみんなが揃って食べる最後の昼食ではないか」。それとなく明るく暗い昼食を共にする。朝食を抜いたせいかやたら腹が空いていた。注文したカキ玉そばは汁も残さずたいあげる。とても満足。

牛久市立図書館で図書カードを申請。許可を得てカードをもらう。次の職場が牛久市内だから多いに利用しよう。「シリア戦場からの声」ほか1冊を借りる。シリアは2016年1月発行。こういう時事ものは古本では無理。自宅で興味津々ページをめくり読了。あらためて、平和ボケを実感。

なぜ、丸裸でクタクタになり故郷の自国を脱出しなければならないのか。持ち物はささやかな命の橋渡し。未来も希望も描けない人々の生きざまを考える。ああ、今晩は眠れそうもない。

下駄箱に鎮座した金魚鉢の水がはねる。「ウソダァー」。金魚ちゃん、おいらをのぼーっを見抜いている。すごい。用心、用心なり。
 
   3月21日(月)

「梅安、冷蔵庫に眠る!」、これは面白くも悲しい話だ。まぁ、きいておくれ。本日、かあちゃん長期介護出張より朝方帰る。お腹も空いていたのでとりあえず冷蔵庫を開ける。いつものと違ったものが入っている。よく見れば「梅安冬時雨」池上正太郎の文庫本。

いつ、だれが、なんのためにという犯人探しが始まる。犯人は冷蔵庫を自由に使うことができる。この家では亭主と女房の二人しかいない。聞き込み捜査をするまでもない。絞られる。アリバイを探る。女房は出張介護で留守にしておりアリバイは成立する。残るのは亭主だけ。

そんなまわりくどいことはどうでもいいのだ。酔っぱらって何かと一緒に「梅安冬時雨」を冷蔵庫に仕舞いこんでしまったのだ。それをすっかりと忘れていた。健忘症見事なり。それにしても悲しいことだ。
 
   3月20日(日)

S氏の母葬儀に参列。穏やかな日和に亡き人は静かにあちらさまへ見送られる。数年前に亡くなった母の葬儀を思い出す。何か、バタバタと時間が経ち気が付いたら遺影と位牌が整然と仏壇におさまっていた。それは、これからのことは私は何も存じません。どうぞ、ご勝手にほどほどの暮らしをしてくださいとでも言っているようだった。

そうです。気がおもむくまま勝手に今日まで生きていました。そして、かあちゃんと姉弟や親戚に囲まれつつがなく世の中を渡ってきました。大波小波の喜怒哀楽はありましたが何とか乗り越え今日までやってまいりました。

さて、これからはどうなることやら。金魚ちゃんに尋ねても満足に未来は語れないと尾ひれを振っています。きっと神さまも分からないことだと思います。それで、いいのだと思います。
 
   3月19日(土)

いばぶんのパソコン設定終わる。これで引っ越しは完了。いばぶんは、4月になったら前向きに取り組もうと考えているがどうなることやら。とにかく、これまでより自由な時間が増えるのは確か。その時間をいかに過ごすか、これが問題なのだ。限りなく終日ぼーっか。自分でも楽しみだ。

金魚ちゃんの水槽の水替えをやる。どこから見ても赤いフナが泳いでいるとしか思えないぐらいに大きくなった。大きいことはいいことだといっても限度がある。かわいいさがない。水槽の大きさによって成長は異なるというが、どこまで大きくなったら満足するのだろう。

穏やかな日和だった。可も不可もない一日だった。驚くのは大相撲で稀勢の里が勝ちっぱなし。今日は負けるんじゃないかとテレビを見ているが負けない。これは、最近にないビッグニュース。稀勢の里には失礼と思うが、ほんとにびっくりだ。
 
   3月18日(金)

今夜はなかなか寝付かれない。おいらの辞書には不眠症という言葉はないはずだ。そう思っていたが、突如と目尻がたるみ艶のない皮膚を惜しげもなく顔に張り付けて顔を出す。どんな顔をしているのか鏡に映してみる。やはり、胡散臭いジジィ顔がゆらゆら揺れながらこちらを見ている。ここでお見合いをしても成立するはずがない。

かあちゃんの出張介護は今回は長い。4日間も続けてというから本人がまいってしまうのではと心配になる。今日、CROSSのS氏の母が亡くなった。享年88歳。おいらのおばあちゃんは96歳。

生まれるのも一回限りだが亡くなった人の葬儀も一回限り。青空を見ながら生も死にも平等はないと考える。それぞれの物語がかくも静かに創られ昇天してゆくのだ。それは、金魚ちゃんにも言えること。深夜、消防車のサイレンが遠くから聞こえる。みんな忙しそうだ。
 
   3月16日(水)

CROSSに行く。昨日、卒業式を終えた学生がキャンキャン騒いでいる。校内に置いてあった私物の整理をしているらしい。荷物を片手に友だちと記念写真を撮ったり先生にあいさつをしたり忙しそう。

彼ら、彼女らは希望にあふれた未来が待っている。白髪のオジンは黄昏時のプラットホームに佇み最終電車を待っている。なんともほのかに世界がぐるぐる回っているような気がする。

夕方、山王姫より電話あり間違いを指摘される。内容は秘密だが、「いよいよきたか?」。高齢者にはすぐに理解できる言葉。身辺を見渡すとご同輩がゾロゾロ。終着駅が近い人生は明日も続く。喜んでいいのか悲しんでいいのか分からない。

世の中、分からないことが多い。金魚ちゃんは仕事もしていないのになぜお腹を空かせるのか?「金魚ちゃん、金魚ちゃん」と、聞きなれない優言葉を投げかけながらエサをやる。それも、よく分からないけど、これが世の常なのだということにしておこう。
 
   3月15日(火)

阿見町に住むヤギ一家のご主人からTopページ写真の鳥の名前が違うというメールが届く。「ウグイス」ではなく「メジロ」だという。早速グーグル先生に頼み確認をとる。指摘通り「メジロ」だった。このブログを書くときは間違いや誤字に気を配っているつもりだ。それでも間違えるということは基本の基本となるものに大きな欠陥があるということだろう。まぁ、その点は引き算してもらわなければならない、と言い訳をする。なんとも見苦しいことだ。しかし、役立たずのブログを見てくださる方がいらっしゃることに感謝とお礼を申し上げる次第だ。

さて、「春告げ鳥のウグイスがやってきた」と、喜びながら縁側で春うららかな陽光を浴びながら二人で見ていたのは何だったのだろうと考える。二人とは山王姫とおいら。自信に満ちた顔で「ウグイス」と断言したのは山王姫。「ウンウン」と頷いていたのはおいら。大いに満足しながら、迎春の喜びに浸っていたあの時間はどうしたものだろう。ウグイスでもメジロでもいいのだ。間違えて見ていたとしてもハレ気分で過ごせたのだから、それでいいのだと自分を納得させる。
 
   3月14日(月)

「音楽はあらゆる芸術をつかさどる。(略)脳の中では、常に交響曲のような働きが起こっている」。申しておりますのは脳科学者の茂木健一郎氏でございます。あらゆる人々は脳の中で絶えず交響曲を奏でているのか?ノータリンにもいつも起こりえているのかと考える。そもそもノータリンというものが存在するのか?。おいらは、「おまえは、ノータリン、バカだ!!」のシャワーを浴びぱなっしだ。ああ、そうかノータリンとバカは親戚か兄弟なのかもしれない。こまったものだ―。

今日も寒かった。この寒さはいつまで続くのだろうと空を見上げる。雨粒が顔に落ちてくる。雨が降っているのを認めながら無防備で天に顔を向ければ冷たい水玉の洗礼を受けるのは当たり前だ。こういうのをノータリンというのだろう。

「普通の人の脳とノータリンの脳」の違いについて考察。皇族、華族、士族、平民という位取りもあるそうだから、ノータリンの脳は平民に位置づけられるのか。ところが世の中うまくできていて平民という三角形の底辺があってこそ社会が成立している。そういうことになれば、いかにノータリンが重要な役割りを担っているか。ノータリンよバンザイだ!!
 
   3月12日(日)

今日も天気が悪く寒い。尾先稲荷i神社の初馬祭があるというので、しっかりと着込んでいく。3町内の年寄りが40人ほど参列する。奉賛金の貼り札がパソコンで印字されている。昨年までは筆達者が一枚ずつ毛筆で書いていたが、これも時代の流れかー。

直会の席には酒が付き物でビール、焼酎、日本酒と賑やか。杯が進むほど会話が弾む。その中で交わされる内容はお互いの回顧談。そして、自分の健康に関するものが多い。みんな元気で長生きしたいようだ。

町会長から、今期限りで監査のお役御免を言い渡される。先般開かれた役員会でお願いしていた。「どうも、お金に関することは気が重いので辞めさせて」。その時は人がいないということで慰留されたが、適任者が見つかったという。家内安全、健康長寿より、本日、最大の収穫なり。
 
  3月12日(土)

「働かないアリに意義がある」長谷川英祐を読みながら寒い一日を過ごす。とにかく、いつ雪が降りだすのかと期待と不安が入り交じった天気の一日だった。

冬の弱い日差しでもいいから少しぐらい顔を出してくれたらとう願うが叶わず。ニーチェは臨終間際に「もっと光を!」と言ったそうだ。気をきかしたお手伝いさんがベッド側あにある窓のカーテンをひいたという。素直でよろしいと思う。その光はどこで何をやっているのやら雲にさえぎられたままだ。「ざまぁ―みろ」とほざいているのか。

さて、アリちゃんの話に戻れば「7割のハチは巣の中で何もしていなくぼーっとしている」という。おお、仲間が増えたと喜ぶ。 
 
   3月11日(金)

今日は金曜日、だからといってどうっていうこともない。CROSSの事務所はスタッフが留守がちで今日もひとりしかいない。広い部屋がますます広く感じる。昼過ぎ、相棒がふらっと現れて「風の又三郎のようだ」と言い残し、すうーと消える。決して地上から消滅したのではないから、どこかで呼吸をしているのだろう。

明日の準備にとケーズデンキに立ち寄りプリント用紙を購入。暇つぶしに店内を見てまわる。強いて必要とするものもなく命がけで欲しいというものもない。購買意欲が乏しいといわれるのは一億総ニホンジンは充たされた生活を送っていると満足感に浸っているのではー。それにしても、こんなものまで製品化されているのかと驚くほどのきめ細やかさだ。

この驚きを金魚ちゃんに報告。金魚ちゃんいわく、「それじゃ世界経済は動かないのだ。たんと働いて少しは高級なエサを買う意欲をもってほしいものだ」「はい、わかりました」
 
  3月10日(木) 

消滅した時間。
一秒ごとに過去に向かう時間というものを考える。学際的には高尚な哲学の部類には属しないとされるらしい。なぜなら、現代社会の超スピード的な 進歩からみれば消滅した時間などにかまって暇などないのだ。あまりにもあたりまえなことを考えるのは個人の勝手らしい。個々の憂などドブ川のあぶくのように歓迎されない。いわゆる、どうでもいいことなのだ。

それでも考えるのだ。地球は休息もとらず太陽のまわりぐるぐるとまわる。なぜ、地球は太陽をまわらなければならないのか。太陽のつつもたせか―。

物知りとうそぶいているニンゲンなんて信じられない。なぜなら、考えるという歩行をやめているからだ。自分のアタマやカラダを使い、ニンゲンが生まれ以前まで遡り考える必要がありそうだ。そうすれば、世界の人々は幸せになれるかもしれない。推測だが、おいらは地球が滅亡しないかぎりそんな世界は訪れないと確信している。グッドバイ!!。
 
   3月9日(水)

新聞は朝夕刊とも毎日読むが次の日にはすっかり忘れている。みごとなぐらいに記憶が遠のき、昨日の重大事件がさて何年前のことだったのだろうかとクビをひねってみれば24時間前の出来事だったりする。

読書も同じようなもので、古本屋で以前購入したことを忘れ同じ本を買い求め、さあーとページをめくると「あれ、読んだことがある」と驚きの声をあげる。「水曜の朝、午前三時」(蓮見圭一)もそうだ。詩的なタイトルにこころ動かされ読んだ記憶がある。同じ本があるだろうと書棚をざっと探すが見あたらない。もしかしたら図書館で借りて読んだのかもしれない。

なにもかにもが真っ白になっていく。これは、すべてのことに対して執着心がなくなり無我の境地を迎えつつあるという素晴らしいことなのかー。たんなるボケ老人に近づきつつあるということかー。ワカラナイ。ワカラナイから生きているのです。
 
   3月7日(月)

CROSS駐車場から雑木林を眺める。世間では里山といっているのだろうかー。老眼、遠視の眼を瞼を目いっぱい開きよく見ると複雑系の木々が芽吹いている。さあ、春だ。春がやってきているのだ。

春になれば、春を無事に迎えることができればと張り切り今日まで踏ん張ったが、おいらの春はぼーっのまま立ち止まっている。いつになったら歩き始めるのか本人もわからない。

インドの真面目ショットさんからメールが届く。タゴールの初来日から今年で100年になるそうだ。シャーカーさんから、準備会開催の知らせがくる。欠席通知を出す。4月になればもう少し動けるのではと思う。さて、今晩もしっかり者の熟睡を友とし布団ふかく抱きしめ寝よう。
バイバイ!
 
   3月6日(日)

乾いた時間、湿った時間、ぼーっとした時間。
時というのは刻々となめらかにしなやかに痴呆になることもなくきちんと過ぎてゆくものだ。大いなる謎を秘めて永遠に続くということに不可思議な感動さえ覚える。

昨晩、山王姫から携帯に電話が入っていたのを、今日の午後になって知る。現役の記者だった時代は携帯でのやりとりがひんぱんだったが、今はごく限られた人だけ。それも滅多にない。そのせいか普段は特に気にかけることもない。

そういう時に限って連絡があるものだ。そのような理由で折り返し電話を一日遅れでする。雛祭りの写真の整理が終わったそうだ。今年はたくさんの雛飾りを見た。来年のために瞼の奥にしまいこんでおきたいぐらいだが、まだまだどん帳は下りないようだ。
 
   3月5日(土)

「秘すれば花なり 秘せずば花なるべからず」。世阿弥は「風姿花伝」で著しているが、こちらは「秘すればぼーっ 秘せずばぼーにあるべからず」と、日長に過ごす。。

なんでも、世阿弥は時の将軍様を怒らせた罪で佐渡に流刑され亡くなった技芸優る能楽師だったという。いつの時代にも親方様の逆鱗にふれるとノミでもひねり潰すように死の世界に追いやられることはあったようだ。カリフラワーのような頭をして肥満気味の権力者を思いうかべる。

世阿弥は佐渡でぼーっとすることはなかったのか。たっぷりとあったはずだが、それらは「秘すればー」となる。今日を振り返ってみるが、さりとててのことはない。金魚ちゃんも同じ。もっとも彼らは一年中幸福度満点という顔をし地に足をつけることもなく水中でゆらりゆらり。ダイエットとは無縁のようで限りなく肥えている。見苦しい。
 
   3月4日(金)

CROSSに行く。部屋にはH氏ひとりだけ。総勢6人の仕事部屋だがなかなか全員がそろうことはない。それでも、ひとりだけというのは淋しいものだ。そそくさとそれなりの仕事をしてさっさとおさらばする。まったく勝手なものだ。これは決して許されることではない。いつかバチがあたると思う。

体が重く気怠いのでながみねの湯舟に助けを求めに行く。いちばん来客が少ない時間帯かここも静かだ。受付事務員の甲高い笑い声がやけに大きく感じる。広い湯舟をひとり占領。しかし、どうも寂しく落ち着かない。長湯しようと思ったがそそくさと浴室を後にする。

風呂に入りさっぱりするのではと期待したが、やはり体全体が重く感じる。どうしたものかと考えるが解決策は見当たらない。そこで、BookOffで本を5冊ほど買い、家でウーロン杯をチビリチビリの飲みながら読む。気分がよくなる。これでいいのだと杯を重ねる。バンザイだ。
 
  3月1日(火) 

真壁のひな祭りを見に行く。山王姫と姫丸子も一緒だ。空は晴ているが風が冷たい。町並みをざっと見ただけでは震災の傷跡はあまり感じられない。平日だというのに観光バスでやってくるお客さんもおり賑わう。日曜日など見学するのもやっというほどの人出があるという。何か、すごいエネルギーを感じる。昼は豪華な料理と意気込み芋がら入りのすいとんを食べる。

帰り、真壁の五所駒瀧神社に立ち寄る。五所駒瀧神社は震災前に写真を撮りに行っていた。1年間通っただけにいろいろな思い出がある。長い年月が経てばそれらの思い出も薄れていく。記憶の糸をつなぎ合わせようとするがなかなかうまくいかない。

シャーカーさんから「日印タゴール協会」の再開に向けた連絡が入る。打ち合わせ会場が東京なのでなかなか行けない。「無理をしなくていいです」そう、無理はしません。無理のきく体力もありません。
 

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