怠惰な散歩  2016年

   1月31日(日)

朝、マクドナルドに100円コーヒーを飲みに行く。先客の同年配のツルツル頭の貧相くさいオジンがブラックと注文。トレーにコーヒーをのせ席へ向かう。おいらも同じ注文。だが、おいらにはトレーがない。ポツンとコーヒーがカウンターに差し出される。ああ、悲しきオジンなり。

金持ち老人、貧乏老人の違いをおもしろおかしく週刊誌などで報じている。売るためのキャッチコピーとはわかっていても、時々マユをしかめるのにも出くわす。おまえらだって、未来はどちらかにふりわけられるのだぞ!!。

山王姫に会いに行く。今、進めている本の打ち合わせだ。電車で行くことに昨晩から決めていた。4人掛けの椅子にすわり車窓を流れる風景をみながらぼーっとする。これが実に気持ちよくハッピーにさせてくれるのだ。

姫宅の庭にある大きな梅の木には白い花が咲いている。まだ三分咲きか。それでも、たしかな春の足音を感じる。みんながルンルンになる春がやってくる。なんとなくウキウキ気分で別れる。明日からは2月。みんな、ハッピーでありますように―。
 
   1月30日(土)

朝から寒かった。雪が降るのではという空もようは夕方まで続いたが、雪は降らなかった。雪はどこへ行ってしまったのか。あの山越え里越え故郷に帰ったのだろうか―。そもそも、雪のふる里はどこにあるのだろう。とにかく雪は降らなかった。

こういう寒い日は外出は控えたほうがいい。決断と実行のオジンは終日、本読みとあくびで過ごす。せっかくの休みだというのに本ばかり読んでいてバーカじゃないかと思う。もっと有意義な時間の過ごし方をできないものか。例えば駅前のゴミ拾いや自転車置き場の自転車の整頓。青空公園近辺に住む独居老人たち訪ねて肩をもんでやり、世の中の不平不満に耳をかたむけ憂さ晴らしの手伝いをするとかー。

もっとも、怪しげなオジンが、「なにかこまったことがありませんか?」と声をかけても玄関はかたく締められ、「ああ、とうとうお向かいさんの脳ミソは狂ってしまったのかー」。じっと耳をかたむけ立ち去るのを待っているのだろう。世間の色メガネはいつどこでどのように変化するかわからない。クワバラ、クワバラだ。
 
   1月29日(金)

寒い。雪が降りそうな天気だ。年に一度ぐらい雪景色を体験してみたいと思うが加齢とともにその好奇心も希薄になった。しかし、雪ですっぽり覆われた風景の写真も撮ってみたいものだ。

20代のなかごろ、青森駅の深夜、猛吹雪のなかで写真を撮った。写っているのか写っていないかも分からない。とにかくシャッターを夢中できっていた。その時、おいらと同じように写真を撮っていた男に出くわした。東京からきたというカメラマン。風にかき消されるようにとぎれとぎれに話す。東京へ帰ったら今晩の写真を見せっこしよう。寒さに震えながら名前と電話番号を交換。その後、メモ用紙は紛失。連絡のとりようがない。先方から連絡もない。お互い猛吹雪のなかで自分の身を守るのが精いっぱい。メモ用紙など吹き飛んでしまったのだろう。

数ヶ月後、カメラ雑誌にその状況の写真が数ページにわたって掲載されていた。これだ、あいつだと思った。その後、あいつの写真は各種雑誌などでみる機会が増えた。しかし、いつのまにかプツリと消えた。あいつはどうしているのだろう。おいらは金魚ちゃんとなかよく生きているよ。
 
   1月28日(木)

1%の富裕層と99%の貧困層。こういう社会構図に世界はどんどん進んでいるという。「兜n困大国アメリカ」堤未果(2013年6月・岩波新書)にそう書かれている。この現象はアメリカだけではなく世界に広がり、日本でも近いうちにやってくる。というより、現実に起きている。「貧乏人はムギメシを食え」とは、むかしの総理大臣の言葉。確かにあの時代はムギメシがあたりまえだった。今、わが家はいろいろなところからコメのプレゼントがある。ここ数年、白いメシに不自由することはなくムギメシという言葉が死語にちかい。そうかといって、わが家は豊かになったのか?。豊かさという欲望には終着駅がないのか―。

豊かさを考える。貧乏を考える。どちらに思考回路をもっていってもハラは満腹にならない。ただ、考えることは自由だ。この自由を満喫できるだけでもええじゃないかー。

貧乏とわが家との共生について金魚ちゃんに訊く。「働からざる者食うべからず」。きっぱりとしたみごとな回答、いつも恐縮する。ある会社の社是に、「知恵のない者は汗をかけ、汗をかけない者は去れー」というのがあった。どういうわけか、その会社は倒産して霧散してしまった。世の中、わからないものだ。
 
   1月27日(水)

今日もつつがなく終わり、こうしてブログを更新することができる。ごく普通の庶民の一日が終わる。この繰り返しで人は一生を終えるのだろう―。それは、それでよしとすべきだ。

夕方、成田空港へ着陸しようとしている飛行機を見上げる。空は紺碧に集約されている。まぎれもなく人が乗っている物体がだんだん小さくなる。なぜ人は空を飛んで移動しなけならないのか―。おいらのおばあちゃんは97年、土浦の地上から一回も飛び跳ねたことがない。この時間軸の違いとはどういうものか―。

あっ、ゴキちゃん登場。今年はじめてだ。「おめでとう」。返事はない。2016年を実感できないようだ。すぐに隠れた方がいい。飛行機のようなスピードでスリッパ攻撃を得意とするかあちゃんがいるのだぞ。バイバイ。
 
   1月26日(火)

相棒からもらった「大漁旗」というかまぼこを食べながら書く。そして、チラチラと朝日の夕刊を読む。人生の贈りもの欄に社会学者の見田宗介のインタビュー記事が載っている。―インドの旅は全身の血が入れ替わるような経験でした―。1970年代、青春真っ盛り20代前半の体験らしい。

おいらはインドには11回訪れているが、最初に行ったのは40代前半。寛容と狡さも知っていたせいか、血管が入れ替わるような実感はなかった。ただ、山形の寒村もあり、灼熱の国もあるのだと思うだけだった。
のほほんだけが取柄なのかそこで終わっていた。感受性の違い。そこで気づく。学者になろう。国家資格などいらない。「ぼーっ学会」を設立して会長になるのだ。会員は金魚ちゃんとゴキちゃんにしよう。かあちゃんは除外だ、なぜなら、おばあちゃんのせわに追われとてもとてもぼーっとしている場会ではない。ああ、この構想を描いただけで今晩は眠れそうない。バイ、バイ。
 
   1月25日(月)

めちゃくちゃ寒いというの水に浮かび北風に顔を向け生きているという乙戸沼の白鳥を見にゆく。白鳥は洋品店で売っている防寒着は身につけていない。商品券を買いそこねたのかー。かわいそう。

今晩から、かあちゃん出張介護。安物で疲れきったリックを背負い帽子をかぶり夕方でかける。これも、ながき人生のひとコマか―。

ひとは、オギャーと地上に猿面を出現させたときから生き、かならず死ぬという平等の権利を授かった。世界は混迷している。地球儀をまわす。各国で自らの意志に反して死の世界がうごめいている!!。ああ、情けないニンゲンたち。金魚ちゃん、こんなニンゲン世界とバイバイしようね―。バーカ、なんでおまえさんに諭さなければならないのだ。ずーっと昔からニンゲン+オロカサは同義語だよ。さっさと寝ろ。はい、わかりました。
 
  1月24日(日)

昨晩、パブロンを飲んで寝たせいか風邪がおさまったようだ。静かに本を読んでは眠る。窓から青空公園に目を移すと桜の梢が激しく揺れている。外は風が強そうだ。今日は外出を控えよう。出かけなければ金もかからない。読みたい本はたっぷりある、というより読み終えないうちに古本を購入するからたくさんお積読本が頬杖をついて居眠りしている。

「住まいは貸家でもいいから本は自分の金で買え」と、ある作家がいっていた。それを実行しているわけではないが、最近、図書館から遠のいた。返却しなければという先入観が頭に浮かび、どうも落ち着かない。図書館には読みたい本がたくさんあるのは分かっている。バーカじゃないの。

そのおバカちゃん、夕方、BOOK OFFへノコノコと出かけ数冊の本とジャズのCDを買う。久しぶりの「モナリザ」を聴く。この歌には、万華鏡を覗くような青春時代の思い出がつまっている。あのころは、何もかもギラギラと輝いていた。今はどうか。錆びたナイフなり。
 
  1月23日(土)

夜が明けたら 一番はやい汽車に乗るから〜
今夜でこの街ともお別れだね〜
浅川マキの歌に誘われるよう一番早い電車に乗って上野へ。寒々とした上野駅構内の喫煙室を探してホーム端まで背中をまるめて歩く。紫煙をくゆらせながら、そうだ多摩川を越えてみたいと東海道線で大船駅まで。

車中から見えるニョキニョキとのびたマンション群はあきらかにオリの集合体だ。オリの中は平和なのかー。さらに一戸建ての住宅はさながら鶏小屋だ。太宰治は日本海に突き出た半島の崖にへばりつくように張りついている家々を見て鶏小屋と表現した。あれは、青森の竜飛岬。おいらも見た。それに似た景色だ。ただ、海鳴りも地吹雪もなく利便性にすぐれているように見えるが中身はどうなのだろう―。人はここで生き、どうやって死ぬつもりなのだろうと考える。

この街とお別れもできずに家路につく。寒さに震えていたせいか風邪をひいたようだ。山王姫に明日会うという約束はキャンセルしたいと伝える。「お大事」と承諾してくれる。
 
   1月20日(木)

金魚ちゃんおはよう
金魚ちゃんおはよう
朝だよ、朝だよ

朝は世界のだれにも
まったいらにやってくるのだぞ

そうだ、今日も朝を迎えることができたのだから
世界にありがとうをつたえよう
朝だよ、朝だよ―

わが家の金魚ちゃんは、あきらかにメタボだ。
理由を考える。生まれたときから狭い水槽の生活によるストレスと運動不足。本音は空を飛ぶ鳥のように自由でありたいのではないかー。さらに、毎朝エサをくれる筋肉のたるんだ飼い主。ニンゲンさまだとおごりに満ちた顔を必ず見なければならない。ハラが空いているからしっぽをフリフリくちをパクパクさせエサをもらう屈辱感。ああ、わが人生はあらゆ苦痛にとぐろ巻きにされメタボとなる。金魚ちゃんかわいそう、バイバイだ。
 
   1月20日(水)

ようやく体調が回復したと思ったら、今度は虫歯が痛み出す。そこで、かかりつけ歯科医院へ。院長とは顔なじみ。こういう関係は密度の濃いほうがいいのか?、思案どころだ。しばらく通院しなければならない。ああ、悩ましきぼーっのイタイイタイ人生なり。

TISTの広い駐車場を冷たい風を受けながら行ったり来たり。徘徊老人の憂さ解消散歩。何に対しての憂さか自分でも不明。筑波下ろしの冷えびえとした風は気持ちがいい。自然から学び直すことはあまりにも多すぎるのではと、風に吹き飛ばされそうなハナミズをすする。ああ、みんな、それぞれ一所懸命に生きていることに感動。

10年ぶりに日本人関取が優勝するのではと期待がかかる大相撲をテレビ観戦。琴奨菊が白鵬を破る。座布団が飛び舞い上がる。座布団は観客にあたってもケガをしないことを日本人ならだれでも知っている。これが、殺傷能力のあるものだったら大騒ぎになる。ああ、おいらもニホンジンだと再認識することなり。
 
   1月19日(火)

風が冷たい一日だった。山王姫のアシストをする。30人ちかい老人たちは人生の大先輩。不自由なからだを動かし一服の抹茶を楽しむ。これも長い人生のひとコマ。山王姫、茶道の初歩的なマナーを伝授。一朝一夕では身につかないようだが熱心に教える。エライものだ。

石岡からの帰り、土浦の高架道から黒富士が見えた。頭だけちょこんと出して寒風の空にくっきり。早くはやく春がきてほしいと願うが、これだけはニンゲンの力ではどうしようもない。ラジオからは日本列島を暴れまわっている冬将軍の被害状況がながれてくる。将軍さまは、なにか大いなる不満でもあるのか―。だれでも不満はかかえているものだ。少しはガマンしてほしいと思う。

さて、体調も回復してきた。ここで奮発をしてなにか行動をと考えるが思いつかないので、とりあえず読書に専念する。これも、長い時間読んでいると目がチカチカして痛くなる。かわそうなお目めちゃん。おやすみなさい。
 
   1月18日(月)

さぼりくせがつくとニンゲンというものは、いつまでも怠けることができるものだ。このブログにしても毎日かならず書いておかなければならないという理由はなにひとつない。そこで、今日はいいか―、となれば空白。日記はまっ白だが本人はしっかりと生きている。

ぐずついた天気が続いたせいか、ここ数日、どうしても気分が滅入っていた。そこで、ガンバラナケレバとブログを認める。さて、なにをなんのためにガンバルノカ?

そこで、金魚ちゃんに訊いてみる。
金魚ちゃん、じーっと何かに耐えているようだ。そこには哲学者のような雰囲気を漂わせている。世界の平和と人びとの幸せを祈っているのか―。すごいものだ。見習わなくては―。おいらは、さしずめ、明日、人生の先輩たちに接してガンバルことの意義を探ってこよう。
 
   1月14日(木)

― 科学技術の発展と諸制度の高度化は、世界を便利で快適にするとともに、それまで考えられなかったような新たなリスクをももたらしている―。「文明探偵の冒険」神里達博。

(略)
電話ひとつだって
おそるべき文明の利器で
ありがたがっているうちに
盗聴も自由とか
便利なものはたいてい不快な副作用をともなう
川のまんなかに小船を浮かべ
江戸時代のように密談しなければならない日がくるかのも
(略)
○茨木のり子詩集「もっともっと遅れたい」より
いろいろ考える。まとまらない。あやとり遊びの最中に糸がからみ迷宮の世界にひきずりこまれたような感じだ。これはいけない。マクラを高くし、悩みや迷いは地図から消して眠ることにする。バイバイ。
 
   1月13日(水)

足のサイズは27pで偏平足。両足あわせ幅54pの足うらから寒さがジンジンはいあがってくる。今朝は寒かった。まだ陽が昇らないうちに起きだし石油ストーブをつけダルマさんのように口を閉ざしぼーっとする。一番冷える時間帯なのだから布団に入っていれば経済的に楽だとわかっているが、朝まだき、このぼーっにしびれるおじさんには、瞬きの大切な時間なのだ。

部屋のカーテンをおもいきりひく。薄暗い荒川沖三丁目は窓越しから見えるが世界は見えない。そこで地球儀を持ち出してグルグルまわす。日本はあっというまに現われ消える。世界は広い。さて、世界情勢はどうか―。

活字の世界から読みとれるのではと朝刊に目を通す。わからない。また地球儀をまわす。日本はあっというまに消えてブルーにそまる。そうだ、海の魚ちゃんとの会話を忘れ食べることばかりに専念していた。代理として、金魚ちゃんとのコミュニケーションに転じる。「ええじゃないか、えーじゃないか!。かってに生きていろ!」ありがとうございます。
 
   1月12日(火)

牛久の某病院へ。案内された部屋の広さとりっぱなインテリアに驚く。久しぶりに顔を会わせたT・I女史は元気そう。忙しそうなので要件を手短に済ませ退却する。それにしても大きな病院だ。受け付けカウンターの1階フロアには大勢の来院者や事務員、関係者などでラッシュ並みの混みよう。広い駐車場も満杯。空は曇天。いつ雪が舞ってもおかしくない。寒さだけが足もとから忍び寄る。冷たい雪のあんたとお友だちにはなりたくないよ!!。ふるえながらハンドルをにぎり帰宅。

CROSSに行く。相棒、武蔵と小次郎の巌流島決闘のような顔をして仕事に没頭している。おいらはぼーっとパソコンの画面を見ている。これは「見ているという能動態」か、「見られているという受動態」なのかを考えるがわからない。

昨年の忘年会席上で、CROSS理事長から依頼されていたことを、すっかりきれいにさっぱりと忘れていた。催促の電話で慌ててつくばグランドホテルへ。忘却のスピードは年を越し加速度を増している。「カラースはなぜ鳴くの〜」。寂しい夕暮れの筑波山が見ながら、カラスのほうがエライと思いました。おわりです。
 
  1月11日(月)

 牛久シティマラソンを見にゆく。おしりをプリプリふるランナーはたくさんいたが、おっぱいをユサユサのランナーはさすがに少ない、というより見あたらない。走っているのか駆け足なのかという正体不明のランナーもチラチラと目の前を通る。心臓がパクパクと悲鳴をあげ激しい息づかいが冷たい空気をふるわして伝わる。あんたたち、そんなに苦しかったらやめてトンズラしたらー。バーカ、走ることもできず、ポカーンと口をあけて見ているおまえさんこそ不愉快だから消えてよー。ハイ、わかりました。

「星新一」最相葉月著(新潮社)を読む。読みごたえがある。星新一の著作は読んだことはない。いや、読んだかもしれないが忘れた。星薬科大学の創立者の長男というより、姪っ子が6年間通った大学ということで記憶している。今、姪っ子は双子のママちゃんです。バイバイ。
 
   1月10(日)

午後、自転車でペダルをこいでサイクリング。もちろんデジカメはクビからぶらさがっている。ヤギ一家近くにある鹿島神社で自転車を降りトボトボと歩きながらパチリパチリ。どこを歩いても畑と留守宅しか見えない。人とは滅多に会わない。もちろんヤギもいない。どこにでもある田舎の冬景色。このぼーっとした風景をなんとか写真にまとめることはできないのか―。考える、考える、そしてパチリ。写真はきちんと写っている。また考えるがわからない。それでいいのだと開き直る。

金魚ちゃんの水槽の清掃をしながら金魚ちゃんを上から下から斜めからしみじみと見る。とにかくデカイ。このまま大きくなったら、阿見町の寂しげな畑に捨てましょうかー。いいえ、いけません―。どこかで聴いたような童謡を思いだす。

今日から大相撲初場所がはじまる。久しぶりにテレビを見る。この一週間テレビは見ていない。番組表はよく見る。素晴らしい企画でおもしろそうなものもたくさんある。そこで興味は尽きる。テレビを一時間も二時間も見続けるという集中力がなくなった。NHK・FMはほとんどつけっぱなし。これだけで十分。それでも大相撲だけはテレビ観戦が楽しみ。ああ、この喜びを金魚ちゃんに伝えたい!! 
 
   1月9日(土)

本棚の隅に隠れている「夏目漱石全集」を引っ張り出す。ここ数年、この本にはさわったことがない。埃にまみれ冬眠中だった。数えたら10巻もある。二段組で活字も小さい。老眼のおいらにはつらい。「夢十夜」をひもとく。突然、「― 女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている ―」。ああ、おいらの夢のなかに女は登場したことがない。悲しいことだ。

イオンで映画を見る。大きなスクリーンと大きな音響。まるで、風呂場の中で下手な歌を絶唱しているような爆音には閉口。映画「ブリッジ・オブ・スパイ」。手ごたえがあった。こういう映画なら毎日見てもいい。

今日もつつがなくおわる。おわりがあればはじまりは必ずある。考えてみれば、「いやなこと、めんどうなことは、昨年で全部をクリアしました」という微笑み人に、「いやなこと、めんどうなことに遭遇する期待をかけなければ新年を迎えた意味がない!!」と、喝破してやりたい。今晩は爆睡して夢も見ないで眠れるのか?。輪郭の柔らかな瓜実顔をした女が現れれば ――.。.
 
  1月8日(金)

昨日のことを思いだし、今日をふりかえり、明日のことを考えてみる。その時間の流れの中でとくだんに大きな変化はない。大きな変化があるとすれば、書いている本人が絶対ゼロになることだろう。それは、明日の朝の楽しみというものだ。

人は一日のうち必ず睡眠をとる。その時間はそれぞれの事情で不定だが、眠りのなかで必ず夢を見る。その時間をどうやって自分の歴史に組み込むのか。夢はまったく別世界に自分を導く。新しいのか古いのか、進行形であるのか―。明日は、夏目漱石の「夢十夜」を再読しよう。そして、映画館に行って大きなスクリーンで映画を見よう。

夕方、山王姫宅へ。干しいもをもらい有頂天。有頂天おじんは目的の品を受け取るのをわすれる。帰宅途中、山王姫からケイタイがうなる。「バーカ、干しいもにつられ全部わすれたね―」よく考えてみると、二人ともどこか干しいもにつられ夢心地で話し別れたのではないか−。お互い注意!、注意!
 
   1月7日(木)

『「自民党憲法改正草案」とは何か!?』というチラシが入った郵便物が配達される。差出人は不明。想像はつく。過密(?)なおいらのスケジュール表によると当日は仕事が入っている。貴重な生活の糧をえるため返事を先送りにする。

双子の姪っ子は5歳。20年後、ふたりは25歳。女の子だから戦場へ狩り出されることはないと思うが、これだけはわからない。正月、やんちゃに動きまわるこの子らにおいらはなにができるきのかと、しばし、考えたことを思いだす。今度世界大戦がおきたら人類は滅亡する。わかりきったことだ。世界はますますキナクサクなっている。こまったものだ。

奈良に住む姪っ子からもらったお土産のお香を焚いてキナクサイのを追い払う。風呂敷文化健在なり。包装紙をあけてもなかなかお香は現われない。匂いだけ強くなる。これが、現在の世界だと妙に納得。今日は、いろいろなところから応援電話がはいった。結論、女は強いということを再認識。お疲れさまです。七草粥を食べました。
 
   1月5日(火)

「貧者の一灯」(貧者の、たとえわずかであっても、真心のこもった寄進)。はじめての言葉を山王姫から教わる。さて、貧者の真心はどこにあるのか?。寄進するものはあるのか?。部屋をみわたす。目の前にはウーロンハイと柿の種。これを寄進することはできない。なくなったら、おいらの嘆きになる。悲しみの涙はどちらの川岸からも見たくない。そこで、これらの諸問題は天文学的時間経過の宿題とする。

山王姫の飼いネコぴーちゃんは思い通りにおいらのカメラアングルにおさまってくれない。カメラをむけると視線をそらす。いじわるしているようだ。いや、いじわしているのだ。そして、おいらはいじわるされているのだ。このいじわる関係を解くカギは持ち合わせていない。それだけにおいらは辛い。なみだ雨なり。

帰宅中の車内で考える。ぴーちゃんはなぜそっぽを向いたのか?。新年のあいさつはきちんとやった。ならばと頭脳をグーグル先生のようにグルグル回転。「あっ!!」「お年玉だ!!」。これはうっかりしていた。そうかといって時間の逆戻りはできない。ここは、しっかりと認めてもらいブログに写真を載せることでカンベンしてもらう。バーカ、ニャー、バーカ、ニャーで2016年は歩みはじめるのです。

 
   1月4日(月)

朝、大家さんが立ち寄る。年始まわりに東京へ行くという。回遊魚は泳ぎ続ける。こちらはポカンとした顔で見送る。今日は仕事はじめ。どういうわけか人さまの真似をしてCROSSへ出勤。TISTの職員も学生も休みで駐車場がガランと空いている。相棒は必死な形相で編集作業をしているのに、気候は四月中旬なみの暖かさで外は眠くなるような空気が流れている。

インドのニューデリーに住むコウシクから新年のメール。愛しい奥さまと娘の写真も添えられている。コウシクは日本でがんばってインドで大学の先生になった。今は準教授のような地位かー。父が仏教徒、母がヒンズー教徒という組み合わせで誕生したコウシクは仏教徒だ。そういえば、奥さまの信仰する神は?みんな仲よくすればいいのだ。

夜8時ころ、大家さんが東京からご帰還。お疲れさまです。かあちゃんが在宅していたのでお茶を一服。よもやま話を30分ほどしてクルマを運転して帰る。目の具合が悪いというのに心配になるが、クルマはあっという間に闇夜に吸い込まれていく。今年も忙しいと話していたが顔はうれしそうな謎のほほ笑み。こちらは、いかにのんびりしようかと考えているのに、ひとさまざまだ―。
 
   1月2日(土)

朝を散歩。途中、ヤギ一家のヤギさんに新年のあいさつに立ち寄る。大きな屋敷はどの部屋もカーテンがひかれ人の気配なし。ヤギちゃんだけどもと一歩ふみだす。ところがコソドロスタイルのおいら、やたらと増えた防犯カメラに記録され迷惑かけるではとそそくさと退却。いつかちかいうちにヤギちゃんのご多幸を祈念するあいさつを―。しばらくお待ちください。

ル・クレシオの「愛する大地」にひっかかり、島田清次郎の「地上」(昭和22年初版)を思いだしチラチラ読む。大地と地上はどう違うのか?

夕方、商品券を片手につくばイオン未来書店へ。めちゃくちゃな人が繰り出している。想像していたとおりだ。お目当てはの本はなし。「アマゾンかー?」、店員は、「それが早いとおもいます―」、謎のほほ笑み文化は消えようとしている。ただ、無念なり。
 
1月1日(金)

朝、兄夫婦の家でお雑煮を食べる。モチが二個もはいっている。一個で十分だがモチは一年に数回しか胃袋へ道案内をしていない。そう気づいたら、正月ぐらいはお世話になりっぱなしの胃袋ちゃんにしっかりとモチの感触を味わっていただこうとペロリ。姪の双子も果敢に挑戦。今日一日を楽しくハッピーな世界をはばたき遊びまわるスタミナ補給。かしこいものだ。

疲れを知らない子どもたちはチャカチャカとよく動き、パクパクと食べ、よく喋る。会話の部分はママの解説もある。疲れを知りつくし進行形の四人のオジンとオバンは刻まれたシワを気にかけることなく謎のほほ笑みをうかべ見まもる。ささやかな、ちいさな、あたたかい、ゆったりとした幸せを感じる。

中身のいっぱいつまったアキカンから正月メールが届く。人生の先輩ことアキカンは「怠惰な散歩」に哲学的理解を示してくれる。見あげる正月キャンバスは真っ青。さて、わがブログ閲覧者は今年はどんな絵を描くのだろうか―。楽しみだ。

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