怠惰な散歩  2014年

  6月30日(月)

 いろいろある。いろいろあるから人生は面白いのだろうー。

いばぶんの役員さまの神聖な会議を行う。自分に不利になる意見を堂々とまくしたてるゴキちゃん。自己弁護にひたすら走るオンボロ自転車の言いわけ。どれも、とるに足りない。

基本は有意義な郷土文化の顕彰と振興であったはずだ。あきらかに入り口を間違えた。必ず軌道修正することを足の水虫にスプレー薬を塗布しながら誓う。しかし、茨城という郷土意識があまりないだけにもうどうでもいいという気持ちも強い。

今日で6月も終わり。あっというま一年の半年が終わる。ここ数日、一所懸命に阿見町のことを考えていたが少しは展望が見えてきた。要はもてあまし気味のヒマな時間をいかに過ごそうかという理由で阿見町ぶらりを思いついた原点に戻ることだ。

さては、明日から7月。この月は荒川沖東の夏祭りもあり何となく気忙しい。
そして、酒を飲む機会も増えそう。体調管理がいかにできるか―。ここが肝心なところだ。
何事も要注意。足の水虫ともおさらばしなければ―。
 
  6月29日(日)

大きさは中玉スイカほど。模様はどこまでも明るいデザイン。スイカと違うのは中身が空気。いわば主は誰もがひとときも休みなく吸っている透明なもの。それを右往左往しながら大きな鳥の巣をめがけて蹴りあう。

それはスイカではなくサッカーボール。そのボールが芝生を踊る。たったそれだけという単純なスポーツに世界中が沸き上がっている。黒も白も黄色もない。まったくすごいものだ。

ブラジルとチリ戦を見る。最後まで目が離せないは迫力だった。
この試合を見る限り日本はまだまだという感じだ。

ブログを書けない日は精神的にうつ状態のようだ。なんとなく、ぼんやりとした不安が頭の中を駆け巡る。
蹴られたサッカーボールが何処へいっていいかわからず空中をさまっているようだ。
これといった高尚な悩みを抱えているというわけではないが、どうもいかんぽかんだ。
 
   6月25日(水)

サッカーのワールドカップ日本対コロンビア戦を見る。
テレビをつけたとたん1対1から相手チームにゴールインされ2対1となったシーンが華々しく登場。特に感動もなくアナウンサーの絶叫に嫌気がさして音を消したままぼんやりと本を読みながらテレビに時々目をやる。決して愛と誠実さを持った日本応援ではない。
どこか冷めている。連日食べさせられている冷ややっこのせいか―。

日本の敗戦を確認して阿見町のふれあい公園におにぎりを持ってかあちゃんと散歩に行く。
空は曇天。いつどしゃぶりになってもおかしくないような形相をして地上を見下ろしている。
そそくさと三角屋根の休憩所でおにぎりを食べ退散。

かあちゃん、公園のあちこちでたくさんのネジバナを摘む。その姿は決してねじれた心の持ち主ではない。しかし、若くはないから「花摘む乙女」とはなかなか言い難い。

涼しくなった夕方、ニガウリとアサガオの網棚を整備。あとは、見事な実をつけ花を咲かせてくれるか―。
楽しみだ。
 
  6月24日(火)

CROSSで真面目に仕事。内容は出来上がったばかりの「CROSS T&T46号」発送作業。こういう単純生産性作業は得意としている。

これまで、さまざまな職業を遍歴してきた。その経験上からよれよれおじんに適している仕事はこのような単調で同じことを繰り返す仕事ではないかと再認識する。

そのような職業を選び再就職しようにも高齢者という年齢制限のカベが立ちはだかるようになった。辛いことだ。

明日はCROSSはお休み。どうしてかというと母体である専門学校の創立記念日。それをもっもらしくこじつけてCROSSも休みということらしい。どんな理由にせよ、休みはいいことだ。

そこで、明日をどうやって過ごそうかと考えるが妙案は浮かばない。
思いつくのはニガウリの網棚の整備と草むしりぐらいだ。
あとはぼおーっに徹すること。これは究極の技といってもいい。
 
  6月23日(月) 

手間かけず、金かけず、栄養価かけずという究極のおつまみが出た。冷ややっこだ。

そこには物語がある。白い豆腐には削りカツオブシがふりかけられ、その多さは真白き富士の峰をかくしてしまうほどだ。

冷や奴の味の評価。冷たい、歯ごたえがない、箱根の関所もなんなく通り胃袋へ。その身の軽さをなんと表現していいのだろう。覚悟はいい食べ物とでもいうのか―。

さて、冷ややっこの全体的評価。
手間かけず、金かけず、栄養価かけずという愛情を量りにかけるのは愚かなことだ。
ただ、おいしく食べればいいのだ。
 
   6月22日(日)

今日は、義父の一周忌と納骨式。朝から雨音は大きくなったり小さくなったりと不安定だ。それぞれの約束ごとは静かな時を刻みつつがなく終わる。そして直会。どことな始まりどことなく流れ解散。

世界は真実を求めている。下層の真実、中層の真実、高層の真実。ここで層という形で階層を定義することから出発点が間違っている。地上をヒトが支配しているという錯覚の中で天下取りを自負しているのではいつまでたっても駄目なのだろう。

好きな詩人、茨木のり子の詩。

退屈きわまりないのが 平和
単調な単調なあけくれが 平和
生き方を工夫しなければならないのが 平和

男がなよなよしてくるのが 平和
女は溌剌してくるのが 平和…

この詩集は誰かに貸したまま行方不明となった。
これは今朝の朝日新聞の天声人語からの孫写しである。
 
   6月21日(土)

山王台の姫と常陸海浜公園に水戸ご老侯のいわしの講演を聞きに行く。
会場に向かう公園内はうす曇りと海風のせいか爽快な気分にさせてくれる。講演の内容は身に付かなかったが無料で配られたツミレ汁の味は記憶に残る。姫は「もう一つ味が足りない」を連発。人生なんてそんなものだと思う。

帰りは「ザッザーザッザーザッザーザッザーザッザー」の海を見ようということになり海岸線を走る。阿字ヶ浦海水浴場の海岸には水着姿の人々が夏と戯れている。とても暑そうで海岸まで足は進まない。クルマの車窓から流し眼で「ザッザーザッザーザッザーザッザーザッザー」を追う。

どういうわけか那珂港の魚市場で天然「岩ガキ」を食べる。食べるというよりかぶりつき胃に流し込むという感じだ。レモンが効いておいしい。ツミレ汁よりはるかにおいしい。あたりまえだ、ツミレ汁は無料。岩ガキは1個600円也。カツオの刺身も買う。デカイ!!。姫が全部勘定の面倒を見てくれる。ごちそうさま。

さて、夕方は我が町内「東の夏祭り」の役員打ち合せ。出番が少ないようにひたすら俯き資料に目をやる。
それでも1〜2ほど担当することになる。人生なんてそんなものだと思う。
 
   6月20日(金)

朝、CROSSへの出がけにかあちゃん、「夜は何を食べたいか?」うーんと考えながら「サシミ」「あら、珍しいー」。実はサシミはあまり好物ではない。

帰宅してお膳に出されたのは「サシミこんにゃく」。サシミに間違いはない。こういうカラクリもあるのかと納得。わが人生に黄金色の花が一斉に開いたような気分でハシをつける。うまい!!。

さては、今日も終わりに近づいている。ワールドカップの日本はギリシャと引き分け。
日本代表チームが早く負けて帰ってくれば荒川沖周辺も静かになるだろうと反面応援。
これを非国民というのかー。
結果は両チームご苦労さんという印籠を懐深く抱きしめ別れる。これも、しかりなり。

イラク情勢が気になる。どうせヒトはいずれはみんな死んでしまうというのに何で殺しあうのか―。
わからない―。あまりにもお粗末なニンゲン世界だ。

せめて、銃を手に殺し合うニンゲンたちにたっぷりとサシミこんにゃくを食べさせてやりたい!!。
 
  6月19日(木)

 CROSSの企画委員会に出席。いつも思う。なぜ、この場によれよれおじんがいなければならないのか?。忍従の2時間。ひたすらの沈黙と禁煙。心臓だけは休みなく動き瞬間停止というハプニングも起こらず会議を終え無事に生還する。バンザイだ。

昨日の疲れがジワリジワリとくる。体の節々が痛くて気だるい。これは、いつものぼっおー症状とも異なる。どうも、疲れが目的もなく家出して体の中を徘徊しているようだ。ヤバイ!!。

この疲れを温かい言葉で慰めて欲しいと金魚ちゃんに話しかける。
狂った金魚ちゃん一匹、水槽の下で体をくねらせもがいている。
痛ましい姿態を見てダブルの悲しみ。それならと明るく透明で健やかな言葉を探す。
今さら―、バカめ―。天上から驟雨のように聞こえる。

辛いことは紙芝居の出し入れでは解決できない場面もあるのだ。
一匹の金魚ちゃん、あきらかに天上の神がよんでいる。さらばだ。バイバイ!
 
   6月18日(水)

徳一調査で福島県会津に博士と相棒の3人で行く。相棒が下調査をしっかりしてくれたお陰でスムーズにまわることができた。心強い!!。

会津地方ほ景色はどこまでもよれよれおじんの生まれ育った集落と似てるような気がする。
ハンドルを握りながら昔のことが瞼のまつげあたりを横切る。すべてが過去のこと。

今晩、かあちゃんは出張介護で留守。帰宅しても明かりが灯らない真っ暗な家はやはり寂しい。
寂しさをまぎわらすようにめちゃくちゃにCDを聴く。内容はまったく理解せぬまましばし聴きいる。

広い屋敷の部屋には温度差のない空気が漂うだけ。どういうわけか今晩はゴキブリちやんもネズミちゃんの協奏曲もなし。豊かさとは―、と問いながら布団に入る。
 
   6月17日(火)

読書の楽しみ。それは文字を一つひとつの言葉を読みくし、として認識してさまざまなことを結びつけ世界のヒトとはを考える。しかし、基礎がないことに愕然とする時がある。
いわゆる「無知の涙」だ。
国民による国民のための平等な教育制度と実行。国造りは教育でしか未来が見えない。

よれよれおじんよれは真剣に世界に問う。
どうせ、いずれは死ぬのだからケンカして殺し合わなくてもいいのではないですかー。

地球儀を回す。世界の国は一瞬して視界から消える。しかし、消えた視界の国がありヒトが生きているのだ。
それは、地球の重さよりも軽い命かもしれないがヒトという万物のイノチを知らなければならない。

揺れるブランコからヒントを得ることができるかも知れない。
ブランコの揺れる範囲は限られている。絶対に360度を回ることはない。

 
  6月16日(月)

今日は暑かった。そんな中、CROSSでは部屋の模様替え。
あっちへデスクを運んだりこっちに本棚を移動したりと肉体労働に励む。
メンバーは還暦を過ぎたおじさんたちということもあり少し動いては息を弾ませる。決して軽やかな響きのいいリズムではない。どことなく不安定な狂想曲が部屋に充満する。
ほどほどに休みながらそれなりに終わる。

夕方は遠縁のお通夜。喪服にネクタイと身支度しながら考える。今日の暑さと焼かれる熱さにどのような違いがあるのか―。
故人とはあまり面識がなかったがかあちゃんと数珠を合わせ冥福を祈る。

今年は虫に刺されさんざんだ。体中に赤いツブツブができている。こんなことはこれまで一度も経験がなかったとかあちゃんと虫恐怖症におののく。

貧乏は免疫になっているからそれほど怖くないが、この正体不明の虫ちゃんにはギブアップだ。
 
  6月15日(日)

石岡市の常陸の風土記の丘にいる。そして、ふれあい茶席近くのあずま屋で書く。谷津田から吹き上げてくる風が心地いい。ウグイスが鳴いている。ほかにもチィチィと鳥のさえずりが聞こえるが名前はわからない。風そよぎ緑の葉が小波のように揺れる。なぜ、こんな暑い日にここにいなければならないのかー。

今頃、ワールドカップで日本とコートジボワールが戦っているはずだ。会場のブラジルは日本の真裏に位置するそうだ。なぜそんなに遠くまで行ってボールを蹴らなければならないのかー。

理由は簡単だと思う。「おらっ−、ボールの蹴りあいして世界一になりたいのだ!!」。
それなら、どうぞ、思う存分にやってください。
その頃、遠くの山々を見ながら棚田のあぜ道で立ちションする婆さんは幸福に浸る。
人はそれぞれでいいのだ。

ふれいあ茶席の手伝いは何もできない。ただ、ぼお−っとして過ごす。これは慣れている。
暇を持て余すように藤棚がある眺望台に行く。夏の日差しを浴び龍神山麓を抱くようにしてそびえる筑波山が見える。双峰ではない。単独の方がどことなく強さを感じる。
 
  6月14日(土)

朝8時、かあちゃんと庭掃除。
こんもり葉っぱが茂りBSアンテナの受信を邪魔しているチンチョウゲの枝払いだ。
脚立に上り電気ノコギリ、バリカンを片手に持ち自由に操るという軽業師を披露。

さらに踏ん張って金魚鉢の大清掃。4匹の金魚ちゃんのうち1匹は精神を患ったのか何度も水中を宙返りをしている。どうしたものだろうー。
ある報告によると、日本には約200万人の精神病患者がいるという。金魚ちゃんの世界でも同じなのだろうかー。

今日もゆっくりと日が暮れていく。爽やかな夕方だ。これもあれも懸案だった庭掃除を済ましたからだ。かあちゃんもやせ細った両肩をおとし「ほっとした」とうなずく。

そのため、晩飯は堂々とした手抜き料理。そういえば、今日一には、手抜き朝飯と昼飯。
今さら、驚くこともない。

人生、これ然り。手抜き、中途、未完で終わるのも由とすべ。
 
  6月13日(金)

どういうわけか、常陸太田市水府総合センターで音楽再発見講座「うたごえ広場」に出席している。そして口をパクパク動かしている。
旧水府村の山間にあるセンターから空を見る。まぎれもない夏の空だ。しかし、どうして、ここによれよれおじんがいるのか分からない。

その後、徳一の調査。今回は仲間が多い。寺博士を含め4人。案内されるまま運転と現地で写真撮影。
何となく、それなりの仕事をこなしたような気がする。

夕方、石岡の姫とご対面。約束の本を納入。よれよれおじんは多くのミスをしているようだ。これも、あれもいつものこと。なんとなかなるととハンドルを握りルンルン気分で帰宅。

夜、満月を追って散歩。目が悪いので満月か半月か三角月か四角月かよく分からない。水無月と満月はどんな縁戚関係かー。それでも、少しばかりの満月らしき写真を撮る。
 
  6月11日(水) 

驚くほどの平凡な荒川沖駅前の一日の始まりだった。
お天気は梅雨期を証明するかのように小雨があくびをしながら降る。それを合図に雨傘が一斉に花開く。異性のことではちきれそうな思いを制服で隠しながら通学する高校生。くたびれワイフに追い出されるようにクルマで送りだされストレスをカバンいっぱいに詰め込み出勤するくたびれサラリーマン。

そして、それを紫煙をくゆがせながらぼんやりと見ている暇人ことよれよれおじん。
荒川沖駅前のいつもの朝の光景だ。人々は世界の平和と日本の繁栄と個人の幸福にどう結びけようとして動き回っているのか分からない。

ここで詩人となる。痴人ではないぞ。
雨はなぜ空から地上に落ちなければならないのか。人はなぜ傘をさして雨を避けようとするのか。そこで、水溜まりを見る。なんとすべてが逆さまだ。ますます分からなくなる。
これは、永遠の宿題だ。宿題が多ければ多いほど生きる力がわいてくるというものだ。
さて、これからどうなるのやらー。楽しみだ。バイバイ。

■写真= 出張介護で今晩は我が家を留守にするというかあちゃんが置いていってくれた何とか煮物と肉じゃが料理。食うぞ!!ー。それにしても肉類が少ない。無念なり。
 
   6月10日(火)

朝は涼しく爽やかでした。ルンルン気分で散歩していたら尿意を感じる。大地全部が屋外トイレに見える。そこで一句ひねりながら、「立ちしょんべん土塊にしみいる喜びの声」

CROSSでお仕事。それはそれは鶴の恩返しのようにひたすら機織りに励みました。給金を頂いているのだという感謝の念をこめ仕事に励みました。

元気印のとき子さんから久しぶりにメールが入る。
相変わらず忙しく仕事に励んでいるようだ。うどん好きの彼女のことだけあって近いうち一緒に素うどんでも食べに行こうという。

大きな病院の看護部長を歴任して今では医療法人の理事まで出世した。数年前、よれよれおじんのサラリーを聞いて絶句したことがあった。そんなわけで、素うどんは割り勘にしよう。
 
  6月9日(月)

今晩のおかずはすごい。菜っぱだらけだ。
物足りない顔をしていたら、「それではとっておきのおかずをー」と、かあちゃんは立ち上がり台所へ。
大いなる期待をこめハシを休めて待つ。心待ちしてお膳に出されたのは冷や奴。思わずうなる。健康を考えての選択肢だろうがー。
しかし、今日はかつお節がまだら模様で豆腐にのっている。それに、ショウガオロシも添えられている。

萩原朔太郎の「月に吠える」を朗読をFMで聞く。どこまでも研ぎ澄まされた冷たい言葉の流れに心がしめつけられる。詩人のひとことひとこと紡ぐ言葉の波しぶきに自己との闘いを痛切に感じる。

かあちゃん、とっておきの冷や奴にハシをいれながら幸せとは何だろうと考える。
考えるだけ酒の量が増えるだけだという神の声を聞きやめる。

そういうことで今日は終わりお休みタイムにはいるのです。
 


6月8日(日) 

茨城民俗学会の総会に出席。三の丸公園の樹木は昨晩からの雨で緑の濃淡の輝きがひときわ美しい。梅林ではたわわに実った梅がたくさん小枝にしがみついている。思わずかぶりつきたくなるが水戸まで来て醜態を見せなくてもいいとあきらめる。それにしても見事な梅だ。さぞかし「うめいだろうー」。

総会はシャンシャン手拍子で終わる。こういうことは社会の通念として義務となっているようだが実につまらないものだ。事務方のご苦労には頭が下がる。

総会後、「先人のくれた宝物」ー民話への誘いーを鑑賞。銀河ステーション文庫の石月ひろ子さんが主宰している女性だけのグループが披露する。ここでは女性パワーがいかんなく発揮されている。
観客席の男性諸氏は出る幕がないというより意気消沈している。
会社というバックグランドを失うととたんに栄養失調のゴキブリのような生き物になってしまうようだ。
残念、無念だ。
 
  6月7日(土)

 雨の日はしょうがない、雨の日はしょうがないー。という歌があったような気がする。
朝から雨。HPの整理と「阿見次郎ものがたり」(仮)の準備。いろいろと試行錯誤をするが方向性定まらずー。すべてが闇の中。ホタルの光を求めるように浅はかな思考を回転させては消える。

雨の日はしょうがないー。読書に明け暮れぼんやりと過ごす。欲張りすぎて3冊を回し読みしているので全部がぼやけている。乱読というより無駄読とでもいうのかー。とりあえず1冊だけ読み切る。「救急精神病棟」野村進著(講談社)ーいま日本すべての病院の入院患者数は約140万人、そのうち精神病で入院しているのが約34万人。入院患者数の4人に1人が精神病患者ー。

そういえば、よれよれおじんよれも含め周りには点滅が不安定なホタルビトがウジャウジャいるような気がする。
みんなで狂えばなんにーも恐くないぞ!!。隠れ狂いボタル、ガンバロー。
 
   6月6日(金)

hpの更新ができない。これはこまった。日々の楽しみといえば役にたたぬくだらない文字を連ねてうっぷんやもやもやを解消している。それなら備忘録のように認めて自分だけ悦に入っていればいいのじゃないかと思われるだろうが、そこが麗しき人間の弱さ。誰かに読んでほしいのだ。悲しい習性だ。

猫がネズミを捕らえてきて飼い主に見せるようなもの。よれよれおじんの場合は自分の弱さを糊塗するためかー。猫の場合は誉められてお頭つきのタイのごちそうにありつけるかもしれないが、よれよれおじんにはそういうことはない。

それでもhpを公開しない何となく虫の居所が悪い。どんな虫と問われてもこまる。ゴキちゃんではないのは確かだ。毛虫かゴロゴロ虫か―。ゴロゴロ虫なんているのかしら―。

JUSTと電話でやりとりすること1時間30分で解決。
世界中の人々の必需品とされるオモチャを持つこまったオジンだ。

 
   6月5日(木)そのほso

その朝、風はなく曇り空の下でかあちゃんはカナリアの歌を聴きながら心地良く眠っていた。目覚めたのが8時30分。昨晩の介護疲れが一気にきたのだろう。。

今日はCROSSの編集委員会。委員長と相棒がほとんど仕切る。段々出番がなくなる。何となく暗雲がたれこめてくるような気がする。

風邪をひいたのか昨晩から体がだるい。パブロンを飲んで早目に寝る。夜中に大汗をかいて下着を何度も取り替える。かあちゃんは本家でおばあちゃんの介護。さて、どちらが大事か。どちらも大事だがよれよれおじんは自力で勝負できる。おばあちゃんはできない。この差を考えたらおのずと大事さの比重がわかる。

さて、これといった不安もないが明るい未来も浮かんでこない。
せめて、梅雨時の美しい林の中でも歩いてみるかー。そして、ベトナムと中国の水鉄砲の戦いを考えるのだ。どうして、そういうことを考えるのか自分でも分からない。しかし、考えただけで滑稽で物悲しくなるのだ。そして、謎の笑みを浮かべながら林を散策するのだ。バカみたい!
 
   6月4日(水)

あんなこんなの一日。朝日を迎えお日さまが西に沈みあたりはだんとだんと夕闇に包まれる。夜だぞ、皆さん寝なさいという暗黙の啓示。それでも、ヒトは逆らう。そして酒の力を借りてぼんやり思考に拍車がかかりひとり酔う。未来の全てはハッピーだ。

大家さん夜10時45分頃に現れる。東京での仕事を終えてのお帰りだというが疲れた様子。よくもまぁ、そんなに仕事に燃えることができるものだと感心する。こちらは、全部捨ててのんびり生きたいと考えているのに雲泥の差を感じる。人それぞれということかー。

阿見町でもう一つ思い出したことがある。新聞社2度目のリストラで職を失った時だった。「清掃員の講習会」が阿見町のさわやかセンターであった。これから先、何か役にたつかも知れないと応募して講習を受ける。1週間連続だったような気がする。30人ほどが雑巾の絞り方からウオッシャーの使い方まで一通り習う。全員が卒業書をもらい笑顔で別れたが、よくよく考えてみればハローワークに行けばみんなライバルだ。

世の中、みんな仲よしこよしとはいかないものだと思ったものだ。
 
  6月3日(火) 

クルマを阿見町に走らせ、CROSSへの遠回り出勤。これを出社恐怖症候群のかたわれの通勤というのか。ともかく、役立つという役場で行政区地図・人口動態の資料を貰う。いや、無料だから頂きました。有り難うございました。

さて、稲敷台地の一角を占め一年中退屈そうな阿見町から何を学ぶかー。
常陽新聞社在勤中から導かれたことなどを考える。

@仕事として「阿見町要覧」の一員として隅々まで町内をまわり写真を撮った。
A阿見町在住の予科練習生のOBの方々を訪ね話を聞いた。
B勤め先をリストラされ食うために新聞配達。販売所が阿見町青宿。
C諸般の事情で土浦市蓮河原から同市の荒川沖東に転居。ここは土浦のはずれで牛久市に近い。
散歩は越境して阿見町という親しみ。
D相棒に紹介されたヤギ一家が住み優しいということ。

ウーム、よくわからない。
 
   6月2日(月)

去る人、来る人。押す人、走る人、さまよう人。人それぞれだ。
夕方、格調高い散歩をしていたらさらなる格調高いT・F氏と会う。世界の平和と自身の健康を祈願してややくたびれた肉体にムチを打ちジョギングしている。
きっと、優しさに満ち溢れた奥さまに「アナタガイツマデモゲンキデアルヨウニー」と叱咤激励され家を送りだされて健康づくりに励んでいるのだろう。ああ、うるらわしき夫婦愛。
笑顔にうっすらと光る汗。風の囁きにほどよく乱れた白髪。ああ、美しいものだ。

その後もさまよう人は歩き続けるのだ。心地良い夕方の風だ。水が張られた田んぼの緑が美しい。
美しいニッポンを歩くのだ。決してT・F氏のようのキラキラ汗もかくことなく歩く。

もうすぐ、耳をつんざくようなカエルの合唱も始まるだろう。そして、乙戸川にはホタルがら乱舞するだろう。
まてよ、乙戸川でホタルをこれまで見た記憶はない。それなら、ホタルの乱舞は昨晩の夢の中だったのだろうかー。それなら、今宵もカエルの合唱とホタルの点滅する光の夢を見よう。堅い決意を持って歩いたのです。
 
 
6月1日(日)

北杜夫の「どくとるマンボウ医局記」を読む。初期の作品は夢中になって読んだ。しかし、二度と書けないかも知れないとマンボウ自身も言っていた「楡家の人々」を読んでから縁遠くなったような気がする。この本はすごく感激してしばし呆然とその後の日々を過ごした記憶がある。

さては、昨日の庭の手入れの顛末記に移る。朝起きたら両目のまぶたを中心に大きく腫れあがっている。新聞も本も読めるがこのまま腫れ上がり瞼が閉じられてしまっては大変だ。何もできない。高尚な怠惰な散歩も書けなくなる。さらに運が悪い。今日は日曜日で掛かり付け医院はお休み。さてはとクビをひねる。

そうだ、休日当番医があるはずだ。土浦広報で探す。運良く同じ町内の東郷クリニックが担当となっている。日射病に注意するようにというニュースを頭に叩きつけ炎天下をクリニックに向けて歩く。悪い予感だけが頭をよぎる。

診察の結果、庭作業中にムシに顔を刺された。痒いのでムヒを顔中に塗った。それが原因。クスリ負けしたのだ。お注射を1本、お薬を頂いて勘定をお払いしてご帰還。それから「どくとるマンボウ医局記」の読書にふける。
そんなわけで、今日は終わりました。
 
   
おたよりはこちらから